復活前主日 二〇二五年四月十三日 ❖ 説教——沈黙する神、十字架に宿る声

【教会暦】
復活前主日 二〇二五年四月十三日

【聖書箇所】
旧約日課:イザヤ書 第四五章二一~二五節
使徒書:フィリピの信徒への手紙 第二章五~一一節
福音書:ルカによる福音書 第二三章一~四九節

【説教要旨】
この説教は、復活前主日に与えられたルカによる福音書第23章を中心に据え、イエス・キリストの受難の物語、そのなかでも特に「沈黙」という主題に深く迫るものである。ピラトの躊躇、兵士たちの嘲笑、群衆の盲目な声、婦人たちの見つめる眼差し、そして百人隊長の驚きの告白──そうした登場人物たちの振る舞いのひとつひとつが、イエスの沈黙と対峙しながら、信仰者に問いを投げかけてくる。

その沈黙は、決して無関心ではない。むしろそれは、愛の極みであり、共に苦しむ者としての神の連帯のしるしである。また、それは神ご自身の沈黙と重なり、現代社会において声を奪われた者たちの苦しみとも深く響き合っている。

説教はさらに、イザヤ書第45章における「わたしのほかに神はいない」という唯一神信仰の宣言と、フィリピの信徒への手紙第2章に記されたキリスト讃歌を交差させることによって、へりくだりと受苦によって救いを示される神の姿を描き出す。栄光に輝く神ではなく、十字架に下られる神。力ではなく、愛と犠牲によって世界を包み込む神。

信仰とは、言葉を持つことではなく、沈黙に聴くことから始まる。神の沈黙の深みに耳を澄ませるとき、そこにこそ生ける言葉が響き始める。わたしたちは、その沈黙への応答として、祈りと行動をもって世界に仕える者として召されている。

序章 王なき王、沈黙の始まり

復活前主日は、受難週への扉口として、信仰の旅路における峻烈な峠にあたる。歓呼とともにイエスを迎えた「枝の主日」を目前に控えながらも、この日の典礼は、すでに苦難のただ中へと私たちを導いてゆく。ルカによる福音書第23章──そこに刻まれたのは、十字架刑に至るイエスの受難の極点であり、沈黙と死の深淵が記されたものである。神の子が裁かれ、黙し、辱められ、そして命を奪われてゆく。その場面には、救いの兆しも、劇的な転換も存在しない。ただ苦しみがあり、沈黙があり、死がある。そしてその沈黙こそが、言葉よりも深く、神の真実を宿している。

イザヤ書第45章に響くのは、「わたしのほかに神はいない」という断固たる信仰告白である。バビロン捕囚の苦境に沈む民に向け、預言者は語った──たとえ沈黙に覆われているように思えても、神はなお、生きて働いておられるのだと。「わたしを仰ぎ見る者は救われる」という宣言は、まさしく受難のキリストに向けられるまなざしと響き合う。イザヤの言葉は、沈黙を通して現れる救いを先取りしていた。

フィリピ書に記された古代教会の「キリスト讃歌」もまた、神の逆説的な在り方を証ししている。神である方が、自らを低くされ、人となり、辱めと死に至るまで従順であり続けた──その徹底した自己放棄の姿の中に、神の栄光がかえって顕された。「神のかたち」を手放したキリストは、「僕のかたち」をとられた。神の栄光とは、人間の論理とは逆に、へりくだることの中に宿るものなのである。その姿が、いま十字架上に、沈黙のなかにさらされている。

この主日に与えられた三つの聖書箇所は、それぞれ異なる次元から、神の沈黙、神の苦しみ、そして神の逆説を指し示す。私たちは、この峠に立たされている。キリストの沈黙とどう向き合い、その向こうにどのような神の声を聴き取るか──その問いは、信仰者としての私たちの存在を根底から揺さぶる。

これから語られる説教では、イエスの受難の物語を通して、現代における正義と暴力、権力の構造を見据えながら、神の沈黙がわたしたちに突きつけてくる霊的かつ倫理的な問いに深く向き合っていく。神の沈黙は、決して無関心ではない。それは、限界まで身を差し出す愛の姿そのものである。そしてその愛が、十字架においてすでに啓示された。これから始まる各章を通して、その沈黙にこめられた神の意志と真理とを、一つひとつ紐解いていきたい。受難週を迎えるために、わたしたちの内なる準備の旅が、いま静かに始まろうとしている。

第一章 告発される義人、崩れゆく正義

ルカ福音書第二三章が描き出す受難の物語は、ひとつの法廷劇として幕を開ける。イエスは総督ピラトのもとに引き出され、国家への反逆者として、社会秩序を脅かす扇動者として、そして自らを王、すなわちメシアと称する者として告発される。告発の言葉は巧みに仕組まれている──「この男は民を惑わし、皇帝への納税を拒ませ、自らを王だと言っている」(ルカ23:2)。事実と虚偽を織り交ぜた訴えは、正義の名のもとに殺意を正当化する構造を巧妙に作り上げている。

イエスは沈黙する。自らを弁護することなく、語ることを拒むこの沈黙が、かえって周囲の喧騒のなかで異様なほどに際立つ。ピラトは繰り返しイエスに罪を見出せないと述べた。「この人には罪がない」と三度も明言する(同23:4,14,22)。だが群衆の声は止まらない。ついに「十字架につけよ」という怒声がすべてを押し流し、法も正義も沈黙し、暴力が主導権を握る。

ここに描かれているのは、単なる過去の宗教的弾圧ではない。むしろ、権力の構造のなかで正義がいかにして瓦解するのか、その普遍的な仕組みが赤裸々に示されている。制度が正義を守る役割を放棄し、むしろ大衆の激情や支配者の都合に奉仕するようになるとき、どれほど明白な無実であっても守られる保証はない──その現実が、この短い叙述の中に容赦なく刻み込まれている。

ピラトの態度には、現代社会の姿が透けて見える。良心と公的責任の狭間で揺れながらも、最終的には波風を立てぬことを選び、真理よりも安定や秩序を優先する姿。それは中立を装いながら、実際には沈黙によって不正に加担するという、逃避の構図である。知っていながら従わないこと──それこそが、神のまなざしの前で最も深い裏切りとなる。

この章がわたしたちに突きつけるのは、「なぜ正しい者が苦しまねばならないのか」という問い以上に、「正しい者が苦しむとき、わたしたちはどこに立っているのか」という決定的な問いである。裁かれているのはイエス一人ではない。わたしたち自身の態度、立ち位置、そして沈黙の選択が、問われているのだ。

次の章では、イエスの沈黙そのものに焦点を当てていく。その沈黙は逃避ではない。むしろ、それこそが神の言葉となる沈黙であり、抗議であり、救いの起点である。その意味を、深く掘り下げてゆくことにする。

第二章 キリストの沈黙、声なき抗議

受難の物語において、イエスは一貫して沈黙を守り続けた。その沈黙は、決して弱さやあきらめの表れではない。言葉の限界を知り、それを超えようとする、まさに最も強靭な抗議のかたちであった。ピラトの追及に、ヘロデの嘲りに、兵士たちの侮辱に対して、イエスは一言も発しない。福音書記者たちはその様子を丁寧に描き出し、イエスの沈黙がただの沈黙ではなく、非常に力強い応答であったことを読者に訴えている。

沈黙とは、単に言葉を止めることではない。むしろ、語ることを拒みつつ、存在そのものが語りかけとなる状態である。イエスの沈黙は、支配者にとっては不気味な異物であり、群衆には理解の隙を与え、弟子たちには信仰を試す試練であった。そしてその沈黙は、神の沈黙でもあった。旧約聖書のなかで、神はしばしば「沈黙する神」として現れる。詩編の詩人は嘆きながらこう叫ぶ──「主よ、いつまで沈黙しておられるのか」(詩編94:3)。イザヤは静かに示唆する、「主は沈黙し、そこに救いをもたらす」(イザヤ30:15)。

この神の沈黙は、放任でも逃避でもない。むしろ、裁くことも癒すこともできる神が、あえて沈黙を選び、そのなかに深い愛と緊張を孕んでおられる。イエスの沈黙は、まさにその「神の愛としての沈黙」を人間の歴史のただ中に生きた現れであった。彼は沈黙によって、神の真理をまっすぐに指し示していたのである。

やがてその沈黙は、十字架の上でふと破られる。イエスが発した数少ない言葉のうちの一つ──「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)──それは、沈黙のなかに潜んでいた神の意志が、ついに言葉となってあふれ出た瞬間であった。そこにあるのは弁明でも告発でもなく、ただ赦しの祈りであった。

いまもなお、この世界には、語ることすら許されずにいる者たちがいる。暴力の下で口を閉ざし、制度のひび割れの中で忘れ去られる声なき存在たち。その沈黙は、「無」ではない。それは、社会が向き合うことを避けてきた根源的な問いであり、神のかたちをした抗議そのものである。教会とは、本来その沈黙に耳を澄まし、それに代わって語るために存在している共同体なのではないか。

イエスの沈黙を見つめるとき、わたしたちは「語られなかった言葉」に耳を傾けることを求められる。それは、神の声を、響きではなく沈黙の奥に探すこと。受難週とは、その沈黙を聴き取るための、最も深い霊的修練の時なのである。次章では、そうした沈黙のなかであえて語り続けた預言者──イザヤ──の声に導かれ、「唯一なる神の救い」とは何かを見つめてゆく。

第三章 イザヤの神、唯一の救いとしての十字架

「わたしのほかに神はいない。わたしは神、正義の神、救いを与える神。わたしのほかにいない。」(イザヤ45:21)

このイザヤの預言の一節には、時代と歴史を貫く神の自己宣言が宿っている。それは専制でも独占でもなく、ただひとつの救いにおいて現れる「唯一性」の告白である。民が敗北と屈辱の中にあったバビロン捕囚の時代──神の沈黙が人々の心を満たし、信仰の灯は風前のともし火のように揺れていた。しかし、預言者はその沈黙のなかにこそ、見捨てられたと思われた神の臨在を読み取り、再び天を仰ぎ見るようにと呼びかける。

神の沈黙は、神の不在ではない。むしろそれは、歴史の深部で静かに動いておられる神のかたちである。そして、この沈黙は新約において、十字架のイエスという姿となって顕れる。イザヤが語った「仰ぎ見る者は救われる」という約束(45:22)は、まさに十字架に架けられたキリストにおいて成就したのだ。声を荒げず、抗わず、ただ沈黙のうちにすべてを引き受けたイエス──この方を仰ぎ見ることが、神の救いへの扉となる。

とはいえ、この「唯一の神」という言葉が、現代では容易に排他主義や宗教的優越の文脈と結びつきやすい危うさを孕んでいるのもまた事実だ。しかしイザヤの神は、そうした独善とは決定的に異なる。彼が否定するのは他者ではなく、偶像と偽りである。そして彼が肯定するのは、低くされ、忘れられた人々の只中に立つ神の真実だ。栄光の神ではなく、屈辱を共にする神──それがイザヤの描いた神の唯一性なのである。

その視点を、いまこの時代に置き換えてみるとどうだろうか。格差と孤独、排除と暴力が蔓延する社会のなかで、わたしたちは本当に「唯一の救い」を見つけることができているだろうか。神の名は掲げられていても、その実体は権威や制度にすり替えられてはいないか。十字架の神は、そのような歪んだ構造に対して、静かながらも激しい抗議として存在している。

救いとは、勝利の瞬間に輝くものではない。それは、沈黙と敗北のただ中でなお共にいてくださる神の現れである。だからこそ、十字架は終わりではない。それは神の真実が、この世界の最も深い闇にまで届くことを示す徴(しるし)である。「わたしのほかに救いはない」と語る神は、支配者ではない。イエスという人格において、見捨てられた者たちと共に歩む者として、沈黙のうちに立たれている。

その沈黙は、何よりも真実に近い声だ。鋼のように静かで、しかし岩をも砕くような力を宿している。十字架における神の姿とは、すべてを失った者に差し込む最後の光であり、すべてを奪われた者がなお希望にしがみつける唯一の拠り所なのだ。

次章では、パウロがフィリピの信徒たちに向けて記した「キリスト讃歌」に焦点をあててゆく。そこには、十字架の神がいかにして「栄光を受ける神」となるのかという、神学的逆説の核心が刻まれている。

第四章 屈辱の道を歩む神、フィリピ書のキリスト讃歌

「キリストは、神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして、僕のかたちを取り、人間となられた」(フィリピ2:6-7)。
このパウロの言葉──いわゆる「キリスト讃歌」は、初代教会において繰り返し告白され、歌われてきた信仰の核心である。だがその讃歌が指し示すのは、栄光に包まれた神ではない。むしろ、栄光を手放し、徹底してへりくだられた神の姿である。自らを低くし、最も深い屈辱にまで身を委ねた、その生き方のうちにこそ、神の本質が示されている。

神の「栄光」は、ここで逆説として描かれる。すなわち、神が神であることの最も深い表現は、神が人間と等しくなり、さらに低くなられたその瞬間にあった。十字架に至るまでの従順──それこそが、この賛歌の中心である。十字架は、単なる刑罰ではなく、神の愛が全存在として形をとった場所であり、義ではなく、慈しみの最終形態なのである。

この神学的構図は、あらゆる世俗の権力構造や成功のイデオロギーを根底から揺さぶる。神の栄光は、天上に浮かぶ神殿の中にあるのではない。むしろ、地に倒れ、唾を吐きかけられ、嘲笑と苦しみの中に沈む存在のうちに、その真実を放つ。それは神の栄光が「遠くにあるもの」ではなく、「誰よりも近く、低くあるもの」として現れることを意味する。

そしてこの神の姿は、現代の支配的な価値観と鋭く対立する。強さを誇り、声の大きさが正義を凌駕する世界において、神はあえて弱さを生きられた。勝利の論理ではなく、奉仕の姿勢によって、神は神であることを貫いた。上昇ではなく、下降を選ぶというこの神の運動は、単なる受難ではない。そこには、地の底にある者たちをも引き上げようとする神の愛の重力が働いている。

この讃歌をパウロは、抽象的な神学理論としてではなく、教会共同体の具体的な生き方の基準として語っている。「この思いをあなたがたの間で抱きなさい」と、彼は勧める(フィリピ2:5)。キリストに倣い、へりくだり、互いに仕え合う姿勢こそが、信仰共同体の証しなのである。十字架は、歴史の彼方の出来事ではない。それは今も、わたしたちの関係と在り方を問う、現在進行形の真理である。

そして、この道を歩み抜かれた方に、神は「すべての名にまさる名」を与えられた(2:9)。それは苦難の賛美ではなく、苦難のなかでも神への信頼を貫いた者の真実が、神の記憶として永遠に刻まれるという約束である。すなわち、神の栄光とは、痛みのなかでそれでもなお人を愛し、赦し、仕え抜いたその行為の中にこそ宿るのである。

次章では、受難物語の終盤──十字架の下に立つ百人隊長と婦人たちのまなざしを通じて、人間が神の真実をどう目撃するか、その問いに迫る。沈黙のただ中で、神の栄光がどのように現前するのか。その光景をともに見つめていくことにしよう。

第五章 十字架の下のまなざし、百人隊長と婦人たち

イエスが最後の息を引き取ったそのとき、誰もが沈黙していた。ただ一人、異邦人である百人隊長だけが声を発した。「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)。この言葉は、あまりにも場違いなほど率直で、誰の耳にも鋭く突き刺さる。宗教指導者たちが沈黙を決め込み、弟子たちですら声を失っていたその場所において、このローマ兵士の言葉だけが、真実に触れた。

この瞬間、神の沈黙のなかにある真理が、突如としてあらわになった。嘲り、暴力、死が交錯するあの午後、神の義は、力ではなく沈黙と死を通して、鮮烈に世界の只中に示された。ルカは、イエスの死を単なる悲劇として描かない。むしろ、その死によって開かれる神の義の啓示として描き出す。群衆は、見物に来たはずだった。しかし彼らはやがて、その場を去るとき胸を打ちながら帰っていった(ルカ23:48)。何を見たのか──それは、無関心のまなざしが悔い改めの眼差しへと変わる、その刹那の変化だった。

十字架を見つめるという行為は、ただの傍観ではない。まなざしは、見ている対象によって、そして見ている自分自身によって、変容していく。見つめるということは、内なる変化を引き受けることである。

あの場には、もう一群の人々がいた。イエスに従ってきた女性たちである。ルカは、「遠くから見守っていた」(23:49)とだけ書く。その一文に込められているのは、深い悲しみと揺るぎない忠誠心だ。男たちが逃げ去った後にも、彼女たちはそこに留まり、沈黙のなかで主の死を見つめ続けた。声を発することも、行動を起こすこともできず、ただ沈黙のまなざしを保ち続けた。その姿に、復活の最初の証人となる者たちの気高さが宿っていた。

彼女たちは何も語らなかった。誰も福音を叫ばなかった。誰も信仰を告白しなかった。ただ、死にゆくキリストを見つめるという、その深く静かな行為のなかで、神の真実は開かれていた。十字架は、見る者の魂にゆっくりと、だが確実に変化を刻む。言葉を超えて、沈黙を通して──そこに神の声が響いている。

百人隊長と女性たちの姿から浮かび上がるのは、「信仰とは何か」という問いそのものである。それは理屈でも主張でもない。ただ、神の沈黙を受け止めること。黙して、見続けるという応答。声を上げる前に、わたしたちはこの十字架の下に立つことができるのだろうか。その場に居続けることの困難を引き受ける覚悟はあるのだろうか。

物語は、この章を経て終わりへと向かう。しかしそれは、同時に新しい始まりへの門でもある。復活前主日が私たちに開いてくるのは、神の沈黙の向こうから差し込む新しい光である。その光に向かう旅路が、ここから静かに始まっていく。

終章 沈黙の向こうにある応答、私たちの受難週

わたしたちは、福音書に描かれたイエスの受難の物語を読むたびに、一つの鋭い問いを前にする。──「自分は、この出来事の中のどこに立っているのか」。ルカによる福音書23章に記されているのは、抽象的な神学体系ではない。そこにあるのは、沈黙、誤解、侮辱、暴力、そして死といった、極限の現実そのものだ。そして、その中心に黙して立つイエスの姿がある。彼は抗わず、否認せず、ただ十字架に身を委ねる。

ピラトの迷い、群衆の狂乱、兵士たちの嘲り、百人隊長の驚き、婦人たちの悲しみ──そこに登場する人々はみな、何らかのかたちでイエスの沈黙と出会い、その深い沈黙の奥に潜むものに向き合わされてゆく。そして彼らの一人ひとりの反応は、そのままわたしたちの可能性でもある。沈黙に直面したとき、黙して見守るのか、それとも声をあげるのか。嘲笑うのか、悔い改めるのか。立ち去るのか、それとも残るのか。

この受難の物語は、傍観者でいることを許さない。イエスの沈黙は、ただの無言ではない。それは、わたしたちに対して発せられた問いなのである。神が語るのでなく、わたしたちに語らせる。神は、わたしたちの行為や選択、祈りや証しのうちに、沈黙を通して再び語ろうとされる。その沈黙が、わたしたちの生のうちに言葉となって響き始めるのだ。

復活前主日は、あらゆる音が吸い込まれるような静寂のただ中に置かれている。賛美の声も、歓喜の叫びもまだ響かない。だがまさにその静けさこそ、わたしたちが神と向き合うにふさわしい場所となる。神が沈黙しているように見えるこの世界の隅で、神はなおも沈黙をもって語り続けている。

わたしたちは、いま受難週へと歩を進めようとしている。そこでまずなすべきことは、声を上げることではない。沈黙の中にとどまり、その深みに身を委ねることだ。その沈黙のうちに、かすかに見えてくるもの、かすかに聴こえてくるもの、それこそが、神の言葉の最も真実な響きである。その響きに応えるために、わたしたち自身の人生が、ひとつの応答となるように生きる。その応答こそが、主の受難を見つめる者たちに与えられた使命にほかならない。

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