牧者雑記 (2025/4/8)
「大主教」と呼ぶか「佐藤さん」と呼ぶか
名前の呼び方には、不思議なほど多くの意味が潜んでいる。単なる識別のための記号ではない。それは、呼び手の心の内を静かに映し出す鏡のような行為だ。信頼と尊敬、あるいは不信や軽蔑といった感情が、その一言に凝縮されて現れる。
私は長い道のりを経て主教の按手を受け、今は大主教として教会に仕えている。けれど、人々が私をどう呼ぶかは実にさまざまだ。「佐藤大主教」と正確に称してくれる方もいれば、「佐藤先生」と、どこか親しみを込めつつ敬意を忘れない呼び方をする方もいる。「聖職者の佐藤さん」といった微妙な距離感を保った呼び方をする人もいれば、中には、まるでそれを打ち消すように「ただの佐藤さん」と呼ぶ人もいる。こうした呼称の揺らぎは、一体どこから生まれてくるのだろうか。
その背景には、単なる個人感情を超えて、神学的な理解、人間関係の距離感、信頼や疑念、そして時に露骨な敵意までが複雑に交錯している。
神学的な視座──「職制」へのまなざし
何よりもまず、教会における聖職者の呼称は、「職制(ordo)」に対する理解と深く結びついている。聖職とは、ある人物の能力や人格の評価とは別に、神の召命と共同体の承認を通して託される務めである。したがって、聖職者に敬意を払うということは、その人自身を称賛する行為ではなく、教会という公的共同体における秩序そのものへの敬意を表す姿勢にほかならない。
「佐藤大主教」と丁寧に呼ぶ人々は、その秩序の意味と重要性を理解している。教会を単なる交友関係の延長ではなく、使徒的伝統に根ざした公的な信仰共同体と捉えているからこそ、そのような呼び方が自然に生まれるのだ。そこには、個人的な好悪を超えて、召命という現実と正統な手続きを重んじる視点がある。
一方で、「佐藤さん」と呼ぶ人はどうか。明示的であれ無意識的であれ、教会の秩序というものそのものに距離を感じている可能性がある。聖職者という存在に対する根深い不信感、あるいは制度や権威そのものへの疑念が背景にあることもあるだろう。あるいは、過去に聖職者との関係で深く傷ついた経験を持ち、その痛みが「肩書き」そのものに対する拒否感となって現れているのかもしれない。
加えて留意すべきは、伝統的職制を採用していない教派──とりわけ多くのプロテスタント諸教会に見られる神学的・文化的背景である。そうした教会においては、使徒継承に連なるordoという観念が重視されず、聖職の称号も形式的な権威としてではなく、個人の霊性や説教の力、地域共同体との結びつきによって評価される傾向がある。このような教会文化に育った人々にとって、「主教」や「大主教」といった称号は、尊重すべき秩序のしるしとしては映らず、時に不自然な権威主義として距離を置かれることすらある。
したがって、呼び名の違いは単なる習慣の差異にとどまらず、教会論や聖職観の違いをも静かに映し出している。「主教」と呼ぶ行為には、使徒的秩序への信頼と尊重が込められており、「さん」と呼ぶ行為の背後には、制度そのものへの疑問や、癒えぬ傷の記憶が潜んでいる場合もある。呼び名は、ただの音ではない。それは、語り手の信仰理解と教会観の輪郭を、確かに描き出している。
心理の奥にひそむもの──権威に対する感情と、呼び名ににじむ距離感
人の心には、目に見えない「上下」の関係にひどく敏感なところがある。誰かを「先生」と呼ぶ、その何気ない一言には、じつは自分よりも相手をひとつ上の位置に置く無意識の作用が潜んでいる。それは、ときとして自我にとって重たい負担となる。だからこそ、「大主教」や「先生」といった呼び方を避け、あえて「さん付け」にとどめる人がいるのも不思議ではない。そうすることで、自分の心の均衡を保とうとしているのだ。
呼び名とは、単なる表現以上のものだ。相手との心理的距離を測る物差しであり、知らず知らずのうちに自分の立ち位置を確認する手段でもある。「大主教」と呼ぶ行為には、明確な線引きがある。自分とは違う立場の人として相手を認識し、ある種の距離を置く表現だ。その距離に尊敬が含まれていることもあるが、反対に、あまりに格式ばった印象を避けたいという気持ちから、その呼び方をあえて避ける人もいる。
一方、「佐藤先生」と呼ぶ人たちは、そのちょうど中間に位置しているのかもしれない。聖職者であることは認めている。けれど、それでもなお親しみの手触りを残したい。そうした微妙な心理のバランスが、「先生」という言葉に宿っているように思う。形式と親密さのあいだで、なんとか自分なりの距離を保ちつつ関わろうとする、そんな人間らしい葛藤がそこにはある。
社会の現実に映るもう一つの鏡──嫉妬、無関心、軽視、そして「偽物」視
最も痛ましく、同時に最も日常的に見られるのは、日本のキリスト教界に潜む「嫉妬」と「軽視」の感情だろう。皮肉なことに、こうした否定的な感情は、信仰を持たない世俗の人々の間よりも、むしろ教会に深く関わる人々──聖職者、キリスト教メディアの関係者、さらには宗教を研究対象とする学者たちの中に、いっそう色濃く見出されることがある。
そこには、言葉にされることのない線引きがある。「私たち」と「彼ら」。その境界は、「自分たちの教派に属していない」「正当な手続きを経ていない」「公に認められていない」といった理由で、他者の召命や奉仕を切り捨てるという形で表れる。それはただの防衛ではない。むしろ、自分たちの信仰共同体の秩序を守ってきたという誇り、その制度への忠誠心、積み重ねた正統性への自負が、外から来る者に対して無言の反発として現れるのだ。
そうして、「大主教」や「主教」を名乗る者に向けられる「どこの教会ですか?」「何の正統性がありますか?」という問いかけには、素朴な関心を装いながらも、「あなたは本物ではない」という否定の響きが潜んでいる。その背後には、制度や出自を重視する、いわば「教派内純血主義」とでも呼ぶべき発想がある。「私たちの枠組みを通っていない者は、たとえ召命を語っても信頼には値しない」という判断が、明言されることなく空気の中に漂っている。
それは神学の名を借りた、きわめて文化的な排除のかたちであり、表面的には礼儀正しくあっても、実際には「見ないふり」「名前を出さない」という形で巧妙に実行される。「出る杭を打つ」というより、「杭をそもそも地図から消す」ような無視の技法である。日本のキリスト教界は小さな世界ゆえに、こうした境界管理がより厳密に働く。制度の内側にいることが信頼の条件となり、それ以外の者は、信頼の枠の外に置かれる。
キリスト教メディアの姿勢にも、それはあらわれている。記事にすべき人物かどうか、語らせるに値する声かどうか、その選別はきわめて慎重だ。制度外の人物が紹介されるとしても、「〜と名乗る人物」という書き方がなされ、まるで「公式ではない」という注釈が添えられているかのようだ。そこには報道というよりも、「誰を正統とみなすか」をめぐる、境界の政治が働いている。
また一部の宗教研究者たちは、信仰者や聖職者の語る召命や内的確信に対して、あくまで分析の対象として距離を取ろうとする傾向がある。制度や言説、権力構造を読み解くための「サンプル」として、信仰者が扱われる。だが、信仰者にとって自らの召命が「非合理的」として退けられることは、無関心以上に痛烈な否定として感じられるものだ。
こうした重層的な「偽物視」は、誰かが明言するわけではない。むしろ、語られないからこそ、なおさら深く沁み込んでいく。それは言葉の端々に、目線の動きに、会話の選択に、そして沈黙そのものに姿を変えて現れる。日本社会に根づく「空気で人を排除する」文化と見事に呼応している。
だが、こうした軽視に心を曇らせる必要はない。聖職者として大切なのは、呼び名にしがみつくことではない。何よりも、自らの召命に深く立ち返ることだ。それが本当に神から与えられた道であるならば、人の承認に頼らずとも、歩みは続く。「偽物」と呼ばれることがあっても、それが人の言葉にすぎないと知っているならば、なおも真実に従って生きることはできる。
わたしたちは、どう応答するのか
では、呼び方の違いに対して、聖職者としてどう応じていけばいいのだろうか。
まず何よりも、自らの名乗りを正しく持ち続けること──それは決して自己誇示のためではなく、召命と教会の秩序に対する誠実さの現れである。この確信を、どんな時にも手放してはならない。「ただの佐藤さん」と呼ばれることがあったとしても、心を波立たせる必要はない。けれど、その呼び方の奥にあるかもしれない傷や反発、不信や無理解には、目をこらしていたい。そこには、言葉にならない痛みや、差し伸べられるべき手が、隠れていることがある。
私たちは、名前の呼び方に映る他者の感情や立ち位置を、無視することなく、かといって過剰に反応することもなく、むしろその背後に潜む「問い」に静かに耳を澄ませていく必要がある。たとえ呼び名が敵意や拒絶のかたちを取っていたとしても、そこには癒しを必要とする痛みがあり、回復を待つ信頼の糸口が潜んでいることもある。
聖職者は、どのように呼ばれたかによって、自らの存在を揺るがせてはならない。わたしたちは、人の承認によってではなく、神の召命によって立たされている。そして、その召命の重みと確かさは、どんな称号よりも深く、揺るぎない。