牧者雑記(2025/4/12)
大阪万博――それは、もはや「夢の祭典」ではありません。「欲望の祭典」と呼ぶほかないものとなっています。
牧者として、はっきり申し上げます。大阪万博とカジノは「無関係」だとする議論は、到底受け入れられるものではありません。それは詭弁に過ぎません。巨大な利権装置であるカジノを動かすには、多額の公費を投入する理由が必要だった。そのために「インフラ整備」という錦の御旗が掲げられ、万博はその隠れ蓑として利用されてきたのです。
夢洲(ゆめしま)――その名前とは裏腹に、そこはかつて廃棄物の最終処分場でした。そこに今、ギャンブルと射幸心を呼び込む施設が計画されています。これは公共の福祉ではありません。ごく限られた特定の勢力による、権益のための開発でしかありません。
「都市を愛する」とは何でしょうか。人々を搾取し、依存と貧困を生み出す構造を「開発」と呼んでよいのでしょうか。教会は、こうした権力と癒着の構造に沈黙してはなりません。
本来、万博とは何であったか。未来への希望を表現する場であったはずです。しかし、いまや利権と策謀に塗(まみ)れたその姿は、人々の夢を悪夢へと変えてしまいました。
主イエスは言われます。
「あなたたちは二人の主人に仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)
この地に本当に必要なのは、カジノでも万博でもありません。正義と公正のために立つ人々です。
牧者として警告します。未来を金銭と権益のために売り渡す者たちには、やがて神の審きが静かに、しかし確かに訪れることでしょう。
大阪が、神の祝福を受ける都市であってほしいと心から願います。しかし、その道は、決して欲望と虚偽の上に築くことはできません。
(佐藤俊介)