❖ 「赤」が教会を包むとき

教会からのメッセージ(2025/04/13)

ある主日の朝、教会の扉を押し開けると、ふと目に飛び込んでくる赤い布。祭壇を包むその色、司祭の肩にかかるストールの深い赤――それは、目立ちすぎないけれど、確かな存在感を放っている。

それは、単なる装飾ではない。教会に流れる時間の中で、「赤」はある特別な瞬間を告げる色として、そこにある。

命と炎の交差点に立つ色
典礼の暦の中で、赤が現れる日は限られている。けれど、その一日一日には、深い意味が詰まっている。たとえば、聖霊降臨日(ペンテコステ)。あるいは、聖金曜日、主が十字架の上で命を捧げた日。そして、殉教者たちを記念する日々。

赤は、血の色であり、炎の色。つまり――命そのものの色だ。聖金曜日にまとわれる赤は、イエス・キリストが十字架で流された血を思い起こさせる。それは、ただの悲しみではない。あの血は、わたしたち一人ひとりへの深い愛の証しだ。

そして、ペンテコステには、もう一つの赤が教会に流れる。使徒たちの上に「炎のような舌」がとどまったと記す聖書の言葉。その聖霊の火は、恐れに閉ざされていた弟子たちを、世界へと送り出す者へと変えていった。赤は、命を捧げた愛と、新しい命を吹き込む力――その両方を静かに宿している。

殉教の記憶、いまを生きる問いとして
教会の暦には、殉教者を記念する日がいくつもある。ステファノ、ペトロ、パウロ――彼らの名を思い出すたび、赤が用いられるのは、ただの習わしではない。命をかけて信仰を守り抜いたその証しが、今を生きるわたしたちへの問いとして、そこに立ち上がってくるのだ。

「どこまで信じることができるか」「どこまで愛することができるか」――そんな問いが、赤を通して私たちの心に投げかけられている。血は理念ではない。それは、生き方そのものだ。

赤が問いかける、情熱のかたち
赤が漂うとき、教会は私たちに「あなたは何に身を捧げて生きているのか」とそっと問いかけてくる。ここでいう情熱とは、衝動的な熱さではない。覚悟を伴った愛、自分の心地よさを超えて誰かに手を差し伸べること。そして、神の導きに、理屈ではなく信頼で応えること。

聖霊の火を受けた者として、私たちはこの世界で、光を証しする者として歩んでいる。その道は、決して平たんではないだろう。だが、赤は告げる――「愛は、恐れよりも強い」と。

目に見えない火を胸に
赤は、目を引くための色ではない。その意味は、思い出すためのしるしとしてある。神の愛の深さ、聖霊の力強さを、もう一度心に受けとめるために、赤は教会の中で息づいている。

もし、赤の布や衣にふれたときは、少しだけ足を止めてほしい。自分のうちに灯された火は、まだ燃えているだろうか。その火を、いま誰かのために分け与えているだろうか。

赤が教会に漂うとき、それはただの色ではない。キリストの十字架、そして聖霊のはたらきに、そっと私たちを立ち返らせてくれる。そのとき教会は、ひとつの祈りを胸に抱いている――「信仰が、命のかたちとなりますように」と。

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