復活前主日 二〇二五年四月十三日 ❖ 教会時論 ①再審制度の見直し――無辜の救済は国家の責務である ②森友文書公開――行政の隠蔽体質と民主主義の再生 ③コメ輸出拡大方針――食の安全保障と公平な経済の倫理 ④同性婚高裁判決――人権保障を拒む日本政治の限界 ⑤南海トラフ地震――命を守る備えと政治の優先順位

序章 見過ごされる痛みへの沈黙を破るために

今、この社会には、あまりにも多くの苦しみと、不正が満ちている。
ニュースの片隅に追いやられた冤罪事件の叫び。
行政の闇に埋もれたままの真実。
日々の暮らしを圧迫する物価高騰や貧困の現実。
そして、誰かを愛するという、ごく自然な思いさえ否定されてしまう不条理。
――そのどれもが、たしかに私たちの目の前にあるのに、いつの間にか見過ごされ、忘れ去られ、沈黙の中へと消えていく。

けれど、その沈黙はいったい誰のためのものなのか。
誰が沈黙することを望み、誰が声を奪われているのか。
福音書が描くイエスの歩みは、その沈黙と闘う物語でもあった。
裏切りや誤解、暴力が渦巻く中でも、語るべき言葉は語り、沈黙すべきときには沈黙された方。
その姿は、今を生きる私たちに問いかけてくる。
――何を守り、何と闘うべきか、と。

「わたしのほかに神はいない。神に並ぶものはない」(イザヤ書45・21)
預言者イザヤが告げるこの言葉は、偽りと暴力による支配を拒み、唯一の正義と真理を貫く神の意志を伝えている。
だからこそ、その神の前に立つ私たちは、権力や制度の不正に沈黙してはならない。

「キリストは神の身分でありながら…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)
この神の子の姿は、声なき者、痛みに沈む者の傍らに立つ神の姿そのものだ。
私たちは今、問われている。
――私たちは誰と共に立つのか。誰の声に耳を傾け、誰の沈黙を破るのか、と。

この教会時論は、その問いへのひとつの応答である。
痛みを忘れようとするこの社会に抗い、不正を覆い隠す沈黙に抗い、無力でか細い声に寄り添い、その声をすくい上げる営みである。

問い続けること。
それこそが、キリスト者として生きる私たちに課された最も厳しく、そして未来への希望を紡ぐ唯一の道である。

このあとの章では、五つの素材を通して、この国の沈黙、不正、そして希望の可能性を見つめていきたい。
どうか共に問い、共に歩み、そして祈りのうちに、この道を進んでほしい。

第一章 再審制度の見直し――無辜の救済は国家の責務である

第1節 司法の門を閉ざす制度の罪

日本の刑事司法には、あまりにも深い闇がある。
静岡県で起きた強盗殺人事件をめぐり、袴田巌さんが再審の末に無罪とされた――この事実は、まぎれもないその象徴だろう。

無実の人が、死刑囚として四十三年もの歳月を獄中で生きざるをえなかった。
それは、国家による人権侵害の最たるものにほかならない。司法の門は、無辜の者の前に、あまりにも長く、冷たく閉ざされてきたのだ。

本来、再審制度とは「誤った判決を正す最後の砦」であるはずだった。
ところが現行制度では、証拠開示をめぐって検察が圧倒的な権限を握り、再審請求の審理は不透明なまま運用され、再審開始の決定にも検察の不服申し立てが繰り返されている。
これでは救済は果てしなく遅れ、人権国家を標榜するこの国にあっては、とうてい許されるはずのない歪みである。

第2節 制度改革に求められる「公正の回復」

今、超党派の議員たちによって刑事訴訟法の改正案がまとめられ、国会への提出が準備されている。
証拠の全面開示、審理の迅速化、不服申し立ての禁止。
そのどれもが、再審制度が抱えてきた核心的な欠陥を正すものにほかならない。
法改正は一刻も早く、実現されねばならない。

だが、あらためて言う。
これらの改革は決して「被告人のための特権」ではない。
それは「国家権力が自らの誤りに向き合い、正義を回復するための最低限の措置」にすぎないのだ。

「正義は命に勝る」――。
この理念こそが、民主主義国家にとっての根幹である。
死刑が執行されたあとに無実が明らかになる。
それは、取り返しのつかない国家犯罪である。
だからこそ再審制度の改革は、人間の尊厳を守るために、政治と司法が負うべき責任である。

第3節 聖書が示す正義への回復の道

イザヤ書は語る。
「わたしのほかに神はいない。正義の神、救いの神は、わたしのほかにいない」(イザヤ45・21)

正義は、人間の力だけでは決して完全には実現しない。
だからこそ神は「救いの神」として立たれる。
それでもなお、この地に生きる私たちは、その神の正義に倣って歩むことを求められている。
それが、「義を行う」ということ。
不正義を正すために、あきらめずに手を伸ばし続ける営みである。

フィリピ書は告げる。
「キリストは…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・7)

この神の子の姿は、傷つく者、抑圧される者の傍らに立つ神の姿そのものだ。
司法と政治が、本当にこの精神を受け継ぐのならば。
国家の権力は、自らの誤りに謙虚に向き合い、無辜の人々を救い出す責務を果たすはずである。

第4節 制度改革は国家の「回心」である

再審制度の見直しは、国家権力に求められる「回心(メタノイア)」である。
権力の濫用と不作為によって踏みにじられた命と尊厳に対して。
いまこそ、国家は悔い改めと再出発を選び取らなければならない。

「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓いを立てる」(イザヤ45・23)

すべての権力は、神の前にひざまずき、誠実と正義を誓わねばならない。
国会はその責務を果たすべきときに来ている。
法制審議会の結論を待つのではない。議員立法によって速やかに制度を改革すること。
それこそが、制度の正常化であり、民主主義の再生の証しである。

冤罪によって深く傷つけられた人々の尊厳を回復し、国家の正義を取り戻す道を。
私たちは、ためらうことなく歩み出さねばならない。


第二章 森友文書公開――行政の隠蔽体質と民主主義の再生

第1節 問われる「知る権利」と公文書の公共性

森友学園をめぐる国有地売却問題は、日本の行政が抱えてきた深刻な構造的欠陥を、いやおうなく露呈させた事件であった。
――そもそも、公文書とは何か。国民の「知る権利」とは何か。
これらの根源的な問いに対して、国家はこれまであまりにも冷淡であったと言わざるを得ない。

今回、財務省が赤木俊夫氏の遺志に応え、実に17万ページにも及ぶ文書を全面開示したことは、間違いなく画期的である。
だが、あまりにも遅すぎた。しかも、これを特例として終わらせてはならない。

赤木俊夫氏は、行政の歪みに抗い、命を賭して真実を証しした人であった。
改ざんを強要され、その苦悩の果てに命を絶たれた。彼の無念は、私たち一人ひとりに深い倫理的課題を突きつけている。

国有地は、国民の財産である。公文書は、主権者である市民の共有財産である。
この原則が空洞化されるとき、民主主義そのものが、その根底から脅かされることになる。

旧約聖書は語る。
「神は正義を宣べ知らせ、地の果てに至るまで救いを示される」(イザヤ45・21)
この御言葉は、人間の世界における正義の遅延や隠蔽を、決して許さない神の厳しさを語っている。
日本の行政は、この神の正義の前に、果たして顔を上げることができるのか――それが、いま私たちに突きつけられている問いである。

第2節 赤木俊夫氏の犠牲が示したもの

赤木俊夫氏が、命を賭して示したものがある。
それは、「行政の透明性と公正さこそが、民主主義を支える礎である」という不変の真理であった。

遺族である赤木雅子氏の静かで、しかし揺るぎない闘いは、いまや現代の預言者の声と呼ぶべきものであろう。

ルカによる福音書は、ゲツセマネの園で祈り、苦しむイエスの姿を伝えている(ルカ22・39-46)。
イエスは、「この杯を取り除けてください」と神に嘆願しつつ、最後には「御心のままに」と従われた。

赤木氏の苦悩もまた、この祈りに重なる。
命を削りながらも、人間としての尊厳と真実を守ろうとしたその姿は、深い信仰的な共鳴を私たちに与えてやまない。

第3節 行政の隠蔽体質と制度改革の必要性

森友問題の本質は、単なる一政権の腐敗ではない。
それは、日本の行政制度が長い時間をかけて育んできた「隠蔽体質」が生み出した、必然の帰結にほかならない。

公文書管理制度や情報公開制度が骨抜きにされ、行政内部の説明責任が著しく低下してきた。
私たちは、この事実から目を背けるわけにはいかない。

いま求められているのは、「再発防止」の美辞麗句ではない。
必要なのは、具体的で実効性のある制度改革である。

公文書の保存義務の強化、改ざんや隠蔽に対する厳罰化、内部告発者保護制度の抜本的な改善――これらは、最低限取り組むべき課題であろう。

フィリピ書は告げる。
「キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして僕の身分をとり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)

権力者が、この謙遜と奉仕の精神を学ぶことなしに、行政改革の成就はありえない。
そのことを、私たちは改めて深く心に刻まなければならない。

第4節 民主主義の再生と信仰の責任

いま、問われているのは、国家そのものの倫理である。
民主主義とは、権力の暴走を抑制し、市民の尊厳と自由を守る体制であるはずだ。
公文書の隠蔽は、その根本原則を破壊する、許されざる背信行為である。

石破首相が、今回の開示を通じて示すべきことは何か。
それは、単なる説明責任の遂行ではない。
過去の過ちを徹底的に清算し、行政を根底から刷新する覚悟である。

「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は神に対して誓いを立てる」(イザヤ45・23)

この御言葉が示すように、どのような権力も、最終的には神の正義と裁きの前に立たされる。

私たちは、そのことを決して忘れてはならない。
行政の改革と民主主義の再生を求め続けること。
それは、教会に託された使命であり、また一人ひとりの信仰者としての責任でもあるのだから。

第三章 コメ輸出拡大方針――食の安全保障と公平な経済の倫理

第1節 主食をめぐる政策転換と市場の論理

日本の食卓に欠かせないコメが、いま、大きな政策転換の渦中にある。
政府はコメの輸出拡大を国家戦略の柱に据え、2030年までに現在の8倍の輸出量を目指す方針を掲げた。
だが、その方向転換が私たちの暮らしに何をもたらすのか――その問いは、あまりにも切実である。

これまで日本の農政は、米価の安定と国内自給の確保を優先し、コメを主食として守る政策を支えてきた。
その背景には、単なる経済政策にとどまらない、文化的な意義の重みもあった。

だが近年、インバウンド需要や海外市場の拡大を背景に、政策は急速に輸出志向へと舵を切り始めた。
私たちはこの流れのなかに、「市場の論理」が食の領域へと無防備に浸透していく危うさを、見逃してはならない。

農地の集約、大規模化、収量重視の品種改良――。
こうした施策の先にあるのは、安価な外国産米との競争にさらされ、日本の農業がその独自性を失っていく未来ではないか。
それは単なる政策転換ではなく、暮らしと文化の根幹を揺るがす変化にほかならない。

第2節 問われる食の安全保障と公正な流通

コメ輸出の拡大は、農業の活性化や地方経済の振興という美名のもとで語られている。
だが、国内の生産基盤が不安定なまま輸出に依存することになれば、いざというときの供給不足に、私たちの暮らしは脆くも崩れかねない。

とりわけ、物価の上昇と生活困窮が深刻化しているいま、主食の安定供給こそが、最優先で守られるべき課題である。

日本の食卓におけるコメは、単なる商品ではない。
それは生活の柱であり、文化の礎である。
それを市場原理だけに委ねてしまえば、貧しい者や困窮する家庭にとって、価格の高騰は死活問題となる。

だからこそ、必要なのは、公正な流通の仕組みと、適正な価格政策である。
農業振興や輸出促進の意義は否定しない。
だが、まずは暮らしを守る制度でなければならない。

たとえば、所得の再分配の強化、富裕層や黒字企業への適正な課税、そして米や生鮮食料品への消費税の撤廃。
そうした生活必需品への手厚い支援策こそが、経済政策において優先されるべきである。

第3節 聖書が語る経済の倫理と共同体の責任

旧約聖書は繰り返し、貧しい者や寄留者への配慮を命じている。
「わたしは主である。あなたたちの神である」(レビ記19・10)――
この短い一節には、経済の営みにおける倫理的責任が、神の御名のもとにあるという深いメッセージが込められている。

今日の旧約日課もまた語る。
「主であるわたしに並ぶ者はない」(イザヤ45・21)。
これは、市場や経済に絶対的な力を与えるような思想への明確な否。
経済の論理が全てを支配してよいのではない。
私たちの共同体は、貧しい者を忘れず、経済的に脆弱な人々を決して見捨ててはならない。

使徒書も同じ精神を伝えている。
「キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして僕の身分をとり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)

この謙遜と自己犠牲の姿勢こそ、経済政策に携わる者が学ぶべき霊的基盤であろう。
力を持つ者が、低くされている者の立場に降りてゆく――そのとき初めて、社会全体の倫理が変わり始める。

第4節 食卓の祝福を守る社会へ

主食であるコメは、日本の文化と共同体の象徴である。
それを市場競争の論理に明け渡すのではなく、必要とする人に行き届くよう、互いに支え合う仕組みを築くこと。
そこにこそ、聖書が語る経済の倫理と共同体の精神が息づく。

それは単なる政策の問題ではない。
共同体のあり方の問題であり、信仰に基づいた愛の実践の課題である。
すべての人の食卓が祝福に包まれ、誰もがその恵みに与ることができる社会へ。

そのためにこそ、私たちはいま、公正で持続可能な食と経済の政策を、あらためて強く求めていかなければならない。

第四章 同性婚高裁判決――人権保障を拒む日本政治の限界

第1節 司法の判断と社会の変容

この数年、日本各地で同性婚をめぐる訴訟が相次いで提起されてきた。
2019年2月14日、「結婚の自由をすべての人に」と名付けられた訴訟が、札幌・東京・名古屋・大阪の各地裁に一斉に提起され、その後、福岡でも同様の裁判が始まった。
問いかけられているのはただ一つ――同性同士の婚姻を認めない現行法は、憲法に反しないのか、という根源的な問題である。

2021年3月17日、札幌地裁は、同性婚を認めない現行法は憲法14条1項(法の下の平等)に違反するとの歴史的な判断を下した。
この判決を皮切りに、東京地裁、名古屋地裁、福岡地裁と違憲または違憲状態を認める判決が続いた。大阪地裁だけが合憲と判断したものの、これは例外的な判断にとどまった。

そして近年、高裁レベルでも同様の判断が次々と示されている。札幌高裁(2024年3月14日)、東京高裁(2024年10月30日)、福岡高裁(2024年12月13日)、名古屋高裁(2025年3月7日)、大阪高裁(2025年3月25日)――これらはいずれも、同性婚を認めない現行法が「法の下の平等」や「個人の尊厳」に反すると明確に断じる判決である。

司法の場で同性婚への理解と支持が着実に広がっている。社会そのものが、変わり始めている。

第2節 政治の責任と社会の課題

だが、どれほど司法が違憲と判じようとも、立法府である国会が具体的な法整備を行わない限り、同性婚は合法化されない。
現行法のままで社会が抱え続ける痛みと不正は、あまりにも大きい。

日本は、主要先進国のなかで唯一、同性婚を認めていない国となっている。この状況は国際的な批判の的であり、日本弁護士連合会も繰り返し法制化を求める声明を発表している。社会的な圧力は確実に高まり続けている。

聖書は語る。
「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)

この言葉は、すべての人が平等に愛され、尊重されるべき存在であることを告げている。
同性婚を認めない現行法は、この教えに背き、特定の人々を制度の名のもとに不当に差別し続けているのである。

同性婚の法制化は、多様性を尊重し、すべての人の尊厳を保障する社会への第一歩である。
いまの日本社会にとって、それは避けて通ることのできない課題である。
現行法が同性カップルに与える不利益は、単なる法的な不備ではない。
それは、法によって社会的な偏見や差別を正当化し、助長する構造そのものでもある。

民主主義国家としての日本のあり方が、まさにこの問題によって問われている。

第3節 教会の役割と信仰者の責務

教会は、社会の良心として、不正義に対して声を上げ続ける使命を与えられている。
この使命は、同性婚の課題においても例外ではない。
教会は愛と平等の価値を力強く語り、すべての人が神の前で平等であることを証ししなければならない。

使徒パウロはこう述べている。
「キリストにおいては、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)

この言葉が指し示すのは、いかなる差別も、神の御前では無効であるということである。
すべての人が、ありのままに愛され、尊重されるべき存在なのだ。

信仰者もまた、この世界の不正義に対して沈黙してはならない。
同性婚をめぐる問題は、単なる法律論争ではない。
それは、人間の尊厳と平等に深くかかわる根本的な課題である。

隣人の権利が踏みにじられているとき、教会と信仰者は声をあげねばならない。
愛と正義の声を。

日本社会が、真に民主的で平等な社会を目指すというのならば、同性婚の合法化は避けて通れない道である。
教会も信仰者も、この歴史の転換点にあって、愛と正義の証人として積極的に働きかけるべき時を迎えている。

第五章 南海トラフ地震――命を守る備えと政治の優先順位

第1節 「想定外」を超える備えの倫理

南海トラフ地震は、日本に生きる私たちにとって、決して遠い未来の出来事ではない。
それは、「いま・ここ」に連なる、現実の危機である。

政府の有識者会議が新たに公表した被害想定は、その事実を私たちにあらためて突きつけた。
震度7の激震が十県百四十九市町村を襲い、最悪の場合、約三十万人もの命が失われる――。
これは脅しでも、誇張でもない。地震列島・日本が歴史の中で繰り返し経験してきた、厳然たる宿命の姿である。

それにもかかわらず、私たちの社会は、いまだ「想定外」という言葉に甘え続けてはいないか。
災害対策は十分に講じられず、政治は日々の矮小な争点に関心を浪費している。

防災とは、本来、政治の最優先に置かれるべき国家的課題である。
被害想定の数字に一喜一憂するのではなく、それを現実の減災行動へと転換する覚悟と戦略が、いま求められている。

第2節 防災より軍拡という政治の錯誤

近年の日本政治は、防災や減災よりも、防衛や軍拡へと予算を傾斜させてきた。
敵基地攻撃能力の保有、軍備増強、歴史修正主義的な防衛論――。
しかし、私たちにとって最も緊急性の高い脅威とは、軍事的危機ではなく、自然災害による甚大な人的・社会的被害ではないのか。

「武器を持つこと」よりも、「命を守ること」にこそ、政治の最優先は置かれるべきである。

どれほど防衛費を積み増そうとも、倒壊した家屋の下敷きとなった命や、津波に呑み込まれた地域社会は、二度と取り戻せない。

主なる神は、こう語られた。
「主のほかに神はない。主は救いの神である」(イザヤ45・21)

この御言葉に従うならば、私たちが最優先で備えるべきは、軍事力ではなく、命を守る具体的な備えであるはずだ。

第3節 防災・減災の公共的倫理

南海トラフ地震の被害想定は、現行の防災対策がなお不十分である現実を突きつけている。
特に、避難行動や、要配慮者への支援体制が遅れていることは深刻である。

いかに最新の耐震技術やインフラ整備が進んでも、それらは人々の具体的な行動と結びつかなければ、真の効果を発揮しない。

現代社会は、地域のつながりや支え合いがかつてに比べて弱くなっている。
だからこそ、防災は個人任せにされてはならない。

公的責任と制度的支援の強化こそが急がれる。
防災とは、社会的弱者を守る営みであり、民主主義の成熟を映し出す試金石である。

第4節 神の前に立つ者の責任

使徒パウロは、こう語る。
「キリストは神のかたちでありながら、…僕のかたちをとり、人間と同じ者となられた」(フィリピ2・6-7)

主イエスが地に降り、苦しむ人々と共に歩まれたように、私たちもまた、困難のただ中にある者と寄り添い続けねばならない。

南海トラフ地震への備えとは、単なる技術的課題ではない。
それは、命を何よりも尊ぶ神の御心に従い、人間の尊厳を守る具体的な実践である。

政治に携わる者は、自らの関心やイデオロギーの枠を超えて、真に守るべきもの――すなわち命に向き合わねばならない。

東京電力福島第一原発事故の問題を未解決のまま、軍拡に突き進む今の政治のあり方は、神の前に大きな罪として問われるべきである。

第5節 真の備えとは何か

南海トラフ地震が、いつ起きても不思議ではない今――。
私たちは、問い直さねばならない。

備えるとは何か。
命を守るとは、どういうことか。

主イザヤはこう語る。
「すべて地の果てよ、わたしを仰ぎ見て救われよ」(イザヤ45・22)

いまこの時代にあって、国や地域を超えて、人間の命を守る普遍的な倫理を再建する責任が、私たちにはある。

防災とは、人間の連帯であり、命の共同体を築く営みである。
これを怠るならば、どれほど経済が繁栄し、軍備が整えられたとしても、社会はその根底から崩れてしまうだろう。

いのちの神を仰ぎ見て。
人間の尊厳を守る政治と社会の再生を、ここから始めなければならない。
それが、いま私たちに与えられた使命である。

終章 問い続ける社会を築くために

いま私たちが立っているこの場所は、あまりにも多くの問いに囲まれている。
冤罪の苦しみと、再審制度の不備。
行政文書改ざんによる真実の隠蔽。
食の安全保障を脅かす農政の迷走。
性的少数者への制度的不当。
そして、巨大災害への無防備な社会構造。

どれひとつとして、遠い国の出来事ではない。
歴史の一断面でもない。
それらは、まさに今、この国で生きる私たち一人ひとりの命と尊厳に直結する、切実な現実である。

この現実の前で、私たちは何を語り、いかに歩むべきか。

イザヤ書は、静かに、しかし力強く語りかけてくる。
「わたしのほかに神はいない。神のほかに正義と救いをもたらす者はいない」(イザヤ45・21)

人間の権力が、どれほど巨大に見えたとしても。
制度や仕組みが、どれほど圧倒的に思えたとしても。
それらは、最終的な支配者ではない。
権力も制度も、人が生きるためにこそ存在するのであって、人を支配し、沈黙させるためにあるのではない。

フィリピの信徒への手紙はこう記す。
「キリストは…へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(フィリピ2・8)

この自己犠牲と連帯の精神こそ、私たちがこの困難な時代を歩むときに受け継ぐべき姿である。
痛みに寄り添い、声なき声に耳を傾け、共に歩むこと。
そこにこそ、信仰者としての責務がある。

ルカ福音書は、ゲツセマネの園で祈る主イエスの姿を描き出す(ルカ22・39-46)。
イエスは、孤独のなかで問い、苦しみのなかで祈った。
「御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

この祈りには、問い続ける者の覚悟と、なお希望を失わぬ者の静かな強さがある。
人間の痛みを知り、人間の問いに最後まで寄り添い抜いた神の姿が、そこにある。

社会は、問いを封じようとする。
沈黙を強い、権力の語る「正しさ」に服従することを求める。

しかし、教会はその沈黙に抗い、問い続ける共同体でなければならない。
不正に対する告発も、差別への抵抗も、弱き者への寄り添いも。
それらすべては、「問いかける営み」から生まれてくる。

問い続けることは、ときに不快さや苦悩を伴う。
しかし、それこそが真実に至る唯一の道であり、神の前に正しく生きるための道でもある。

私たちは祈る。
「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は神に誓いを立てる」(イザヤ45・23)

この言葉が示すものは、いかなる状況にあっても、神の前に正直に、誠実に生きようとする人間の責任である。

教会は、問い続ける共同体として、この精神を未来の世代へと受け継いでいかねばならない。

新しい社会は、待っていて訪れるものではない。
それは、問い続ける者によって、抗い続ける者によって、共に歩む者によって、創られていくものである。

教会が、その先頭に立ち続けること。
それこそが、私たちの信仰の証であり、この世界への福音にほかならない。

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