聖金曜日(受苦日) 二〇二五年四月十八日 ❖ 説教——十字架の沈黙、砕かれた者の救い

【教会暦】
聖金曜日(受苦日) 二〇二五年四月十八日

【聖書箇所】
旧約日課:イザヤ書 第五二章一三節~第五三章一二節
使徒書:ヘブライ人への手紙 第一〇章一節~二五節
福音書:ヨハネによる福音書 第一八章一節~第一九章三七節

【要旨】
聖金曜日において、私たちは十字架上のイエスが示した沈黙と孤独の意味を直視する。この沈黙は、単なる言葉の欠如ではなく、人間の罪と暴力を明るみに出し、それを超えたところにある神の赦しを象徴している。

十字架の苦難は、単なる犠牲の物語ではない。それは、世界の苦しむ者と共に神が立たれる場所を示す記念碑である。

私たちはピラトや群衆と同じ罪責を負い、他者の痛みに無関心であった事実を見つめ直さなければならない。

真の救いとは、弱さや苦しみを抱える者の側に立つことであり、それこそが十字架の本質にほかならない。

私たちは十字架の闇の中にこそ復活への希望の芽生えを見出し、そこから新たな歩みを始めるのである。


序章 十字架の闇に響く沈黙、その神学的意義

聖金曜日(受苦日)は、教会暦の中でも最も重く、最も暗く、そして最も深い一日である。復活の希望に先立って立ちはだかるのは、十字架という絶望の象徴であり、暴力、孤独、裏切り、そして死の現実が集約されたこの日を通らなければ、キリスト教の救いの物語は語り得ない。今日、私たちが立ち止まり、見つめるべきは、神の沈黙という神秘である。

沈黙。それはしばしば、無関心や不在の徴と受け取られる。しかし聖書が語る神の沈黙は、そうではない。それは、神が語ることを止めたのではなく、沈黙という形でこそ最も深く、最も真実に語りかけておられることの現れである。十字架の沈黙は、神が人間の罪を正面から受け止め、それを赦しへと変える場である。

この主日に読まれる聖書箇所──イザヤ書の「苦難の僕」、ヘブライ人への手紙における「完全な犠牲」、そしてヨハネによる福音書が描く受難の出来事──はいずれもが、神の救いの行為と人間の拒絶の現実が交錯する劇的な瞬間を刻んでいる。苦難の僕は黙して苦しみを受け、イエスもまた裁判の場において沈黙を貫いた。まさにその沈黙のうちに、神の赦しと人間の罪の真実が交差する。

聖金曜日は、神の沈黙が私たちに突きつける問いを受け止める日である。その問いとは、私たちがいかにして他者の苦しみに沈黙し、無関心を装ってきたかということであり、同時に、その沈黙をも包み込む神の愛がいかなるものかを問うものである。私たちは十字架の沈黙の中で、自らの罪と弱さを見つめ直し、そこに示された赦しの力によって、神との和解の道を見いだしていく。

十字架の闇を恐れずに見つめるとき、私たちは初めて、復活の光を受け入れる準備が整う。光は常に闇の中から立ち上がる。沈黙の奥に潜む神の語りかけに耳を澄ませることによって、私たちは希望の萌芽を見いだすことができる。

このプロローグでは、十字架の沈黙という主題を軸に、本説教がこれから語る内容の神学的意義を明確にし、次なる章への道を開くこととする。

第一章 裏切りの園、ゲツセマネの夜

福音書が描くゲツセマネの園は、暗く静かな闇に覆われている。その静寂を破るのは、兵士たちの足音と裏切り者ユダの口づけだった。ヨハネ福音書は、「イエスはその場所をよく知っていた」と淡々と記す(ヨハネ18:2)。その短い言葉の背後に、どれほどの痛みが秘められていることだろうか。そこは、イエスが幾度となく祈り、弟子たちと共に休息を取った特別な場所だった。だがその夜は、神の子が人間の手に渡される、裏切りの舞台となったのである。

この場面の劇的な緊張は、裏切りそのものの残酷さにあるだけでなく、その行為が持つ象徴的な意味にも潜んでいる。イエスを裏切ったのは、単に一人の弟子だけではなかった。弟子たち全員が、さまざまな形でイエスを見捨てた。信仰を誓いながらも肝心な時には離散し、恐怖と混乱の中で自らの身を守ることを選んだ彼らの姿は、私たち自身を映す鏡である。ゲツセマネとは、人間が神の呼びかけを裏切り、自分自身の利益や安全を優先する、普遍的な人間性の現実を示す象徴なのだ。

しかしヨハネ福音書はまた、イエスが逮捕される瞬間においてさえ、自らの使命に毅然として立ち向かう姿を描く。「わたしがそれだ」(ヨハネ18:5)とイエスが口にした瞬間、兵士たちは地に倒れる。この短い出来事には、イエスの中にある神的権威と、同時に無抵抗で逮捕されるという深い謙遜の姿勢が共存している。イエスは自らの運命を受け入れ、暴力に対して暴力で抵抗することなく、むしろその暴力を引き受けることによって神の救済を実現する道を選んだのである。

ここに示されているのは、暴力や裏切りという悪が、最終的に神の目的を挫くことはできないという逆説的な真理である。ゲツセマネの裏切りは、最終的には神の救いの計画の一環として受け入れられることになる。神の子が裏切りを通して引き渡されるこの夜こそ、人間の罪と神の赦しが交差する場となる。

次章では、裁判において沈黙を守り、自らを弁護しなかったイエスの姿を通じて、「裁かれる神」の神秘をさらに深く掘り下げていく。

第一章 裏切りの園──ゲツセマネの夜

ゲツセマネの園──福音書が描くその夜の情景は、重く沈んだ闇と深い静寂に包まれている。その静寂を破ったのは、兵士たちの重い足音と、裏切り者ユダの口づけであった。ヨハネによる福音書は、この出来事をあくまで簡潔に、「イエスはその場所をよく知っていた」(ヨハネ18:2)と記す。しかしその短い記述の背後には、かつて弟子たちと祈りを共にし、憩いの時を過ごしたその場が、今や裏切りの舞台となるという痛みが静かに横たわっている。

この場面に漂う劇的な緊張は、ユダの裏切りという行為の冷酷さだけでなく、その行為が持つ象徴的な重みによってさらに深まる。イエスを裏切ったのはユダ一人ではなかった。弟子たち全員が、さまざまなかたちでイエスを見捨てた。信仰を誓っていたはずの彼らは、恐れと混乱の中で自らの安全を選び、主のもとを離れていった。その姿は、時に神の呼びかけを背にし、自分の利益や安心を優先してしまう私たち自身の姿を映し出している。ゲツセマネの園とは、神との関係において人間がどのように応答するのか、その現実を鋭く浮かび上がらせる場所なのである。

しかし、ヨハネ福音書は同時に、イエスがこの苦難の時にあってもなお、使命に対して毅然と立ち向かう姿を描いている。「わたしがそれだ」(ヨハネ18:5)と語ったその瞬間、兵士たちは後ずさりし、地に倒れた。この短い描写には、イエスの内にある神的権威と、暴力に対していかなる反撃もせず、むしろその暴力を引き受けようとする深い謙遜とが同時に示されている。イエスは自らの受難を逃れようとはせず、それを受け入れ、沈黙と忍耐のうちに神の救いを成就する道を選ばれたのである。

ここに明らかにされているのは、暴力や裏切りといった人間の罪が、最終的に神の救いの計画を阻むことはできないという逆説的な真理である。ゲツセマネにおける裏切りは、神の子を人間の手に渡すという人類の罪深さを象徴すると同時に、その罪をも包み込み、赦しへと変えていく神の働きの一部でもあった。この夜は、神の沈黙と人間の裏切りが交差する、痛ましくも聖なる瞬間である。

次章では、裁判の場で自らを弁護することなく沈黙を守ったイエスの姿に焦点を当て、「裁かれる神」の神秘にさらに深く迫ることとする。

第三章 茨の冠──権力にさらされた真理

「それでピラトはイエスを捕らえ、鞭打たせた。兵士たちは茨で冠を編み、彼の頭にかぶらせ…『ユダヤ人の王、万歳』と叫んだ」(ヨハネ19:1-3)。ここに描かれるのは、権力による冷酷な嘲笑と屈辱の極致である。イエスの額に押しつけられた茨の冠は、単なる肉体的な苦痛では終わらない。それは、支配する者たちによる皮肉と蔑み、そして権力が弱き者に加える見せしめの象徴でもあった。

福音書が提示する逆説は、この茨の冠そのものに宿っている。権力はイエスをあざけり、王としての称号を嘲ることによって、自らの支配構造の優越を誇示しようとする。だが、その滑稽な王冠を戴くイエスの姿にこそ、真の王としての威厳と、権力の虚偽性を暴き出す力が備わっていた。イエスは暴力に抗わず、支配の構造に迎合せず、真理に従って沈黙のうちに耐える。その姿は、真理がいかにこの世の力の中で嘲られ、傷つけられながらも、ついには屈しないものであることを示している。

イエスとピラトとの対話は、その核心を鋭く突いている。ピラトは問う──「真理とは何か」(ヨハネ18:38)。しかしこの問いは、真理を求める渇きからではなく、真理に向き合うことへの回避の姿勢から発せられている。権力の座にある者はしばしば、自らの力によって現実を規定しうると錯覚する。だが、権力は一時的に真理を封じることはできても、真理そのものを裁くことはできない。真理は、支配と暴力の只中にあっても、静かに、しかし確実に、輝きを放ち続ける。

茨の冠を戴いたイエスは、権力のあざけりの中にあって、むしろ最も深く人間の尊厳と神の正義を体現している。その姿は、今日もなお、社会の周縁に追いやられ、差別され、声を奪われているすべての人々に重ね合わされる。神の国は、まさにそのような者たちの中に現れる。嘲笑の声が最も高まるとき、真理は最も鋭く浮かび上がる。十字架の道とは、まさにこのような真理の道、そして神の支配が明らかにされる道なのである。

次章では、ピラトがイエスを人々の前に差し出して叫んだ、「見よ、この人だ」という言葉に秘められた人間の罪責と、その神学的意味をさらに掘り下げていく。

第四章 「見よ、この人だ」──ピラトと民衆の罪責

ピラトがイエスを民衆の前に引き出し、「見よ、この人だ」(ヨハネ19:5)と語った言葉は、福音書の中でもひときわ象徴的かつ挑発的な響きを持っている。この叫びは、単なる劇的演出ではない。それは、イエスという存在を前にして、私たち人間がどう向き合うのかという根源的な問いかけとなって響いている。

ピラトの意図は、もしかすると、鞭打たれ、血まみれとなったイエスの姿に民衆の同情を喚起し、自らの手を汚すことなく決着をつけようとする策略だったのかもしれない。しかし、群衆はその呼びかけに対して「十字架につけろ」と叫び返す。この応答は、真理を前にしながらも、その痛みに耐えられずに暴力へと向かう人間の本性をあらわにしている。ここにあるのは、支配と大衆が結託する構造、すなわち責任の所在を曖昧にしたまま他者を排除するという、普遍的な罪の構図である。

「見よ、この人だ」──この言葉はまた、今を生きる私たちに対しても向けられている。十字架のイエスの姿は、今日の社会において差別され、虐げられ、声を奪われた人々の姿と重なっている。私たちは、そうした人々を前にして、どれほど目を逸らし、沈黙し、自分の立場を正当化してきただろうか。この一言は、私たち自身のあり方を映し出す鏡となる。

この場面は同時に、権力と民衆との共犯関係をも露わにしている。ピラトは自らの権限を保ちながら、群衆に判断を委ねることで責任を免れようとした。民衆は、個としての責任を曖昧にし、集団の力に飲み込まれていく。その構図は、現代社会における沈黙の暴力、無意識の加担、見て見ぬふりといった現象にも通じている。責任が分散され、誰も責任を負わないという構造のなかで、最も脆弱な者が犠牲となる。

だが、この痛ましい場面のただ中に、福音の逆説的な希望がひそんでいる。「見よ、この人だ」と示されたイエスの姿を通して、神は私たちの罪と弱さをあからさまにし、それを直視するように促している。その姿にこそ、神の憐れみと救いが現れる。イエスは、十字架の道を進みながら、私たちの人間性の深みを引き受け、そこに赦しの道を切り開く。

この「人」のうちに、神のまなざしが宿っている。私たちは今なお、イエスの姿を前にして問われている──この人を、いったい誰として見るのか、と。

次章では、その「人」が十字架において体験した極限の孤独に目を向け、そこに隠された究極の赦しの意味を探っていく。

第五章 十字架の上の孤独──究極の赦しの時

「渇く」(ヨハネ19:28)。十字架の上でイエスが発したこの一言は、その瞬間に神の子が味わった絶対的な孤独と放棄の深みを象徴している。それは単なる肉体の乾きではない。精神と霊の領域にまで及ぶ、神からも人からも切り離された極限の飢渇である。イエスはこの瞬間、誰からも顧みられることなく、ただ一人で死に直面していた。十字架の悲劇とは、一人の義人の死ではなく、人間存在が避けがたく抱える孤独の現実そのものである。

しかし、この孤独の深みこそが、神の救済の核心を成す。イエスが体験した絶対的な孤独は、すべての人間が抱える孤独や絶望と連帯するものである。神はこの出来事を通して、人間の苦悩や罪、切り離されることの痛みを知り、そこに最も深く寄り添ってくださる。十字架は、神が人間の傷に触れ、その苦しみを引き受ける場である。ゆえに、この孤独は無意味ではない。それは、赦しを成就するために選ばれた道であり、神の愛が人間の罪を包み込む場なのである。

やがてイエスは、「完了した」(ヨハネ19:30)と告げて息を引き取る。この言葉は、単なる死の宣言ではない。それは、神の救いの業がここにおいて成し遂げられたという確かな宣言である。暴力、拒絶、裏切り、沈黙──あらゆる人間の罪がイエスの死に集中する中で、神の赦しの力がそれを上回って働いた。この「完了」は、敗北ではなく勝利の言葉である。イエスは、その死において、世界を赦し、世界に勝利した。

十字架上の孤独は、神が人間の限界にまで降り立ち、その中で新しい始まりを開いたという福音の中心に位置する。この孤独を通して、神はすべての罪人に和解の道を開かれた。どれほど深い闇の中にあっても、赦しの光は差し込む。十字架は終わりではなく、新しい生命への入口である。そこから、すべての人が招かれ、新たな歩みを始めることができる。

次に続くエピローグでは、この十字架に示された神の赦しと希望が、私たちの日常の中でどのように生きられるべきかを問い、説教全体の締めくくりとする。

終章 砕かれた者と共に、私たちが立つ場所

聖金曜日の十字架の物語を振り返るとき、私たちは改めて問われている──私たちは今、どこに立っているのか、と。ゲツセマネの裏切り、裁判の沈黙、茨の冠の嘲笑、そして十字架上の孤独──イエスが歩まれたその一歩一歩は、現代を生きる私たちに、信仰者として立つべき場所を静かに指し示している。砕かれ、排除され、暴力の犠牲となった者たちの傍らにこそ、私たちが共に立つべき場所がある。

イエスの苦しみは、歴史の中に閉じ込められた過去の出来事ではない。それは今もなお、世界各地で続く苦難、暴力、差別、不正義の中に重ねられている。聖金曜日の本質は、神が苦しみを回避されるのではなく、それを自らのうちに引き受け、世界を贖い、再創造される道を選ばれたという出来事にある。十字架は、神が痛みのただ中に立ち、そこにとどまることを選ばれた愛の証しであると同時に、私たち自身がその愛に応えて歩むことを求められている使命のしるしでもある。

私たちが立つべきは、勝者や支配者の側ではない。むしろ、傷を負い、見捨てられ、声なき声をあげる者たちと共にある場である。そこにおいてこそ、神の赦しと和解の真実が現れ、イエスが示された道が私たちの道となる。砕かれた者と共に歩むことを選ぶとき、私たち自身もまた、神の赦しと新たないのちへの道へと導かれる。十字架の闇を直視し、その闇の中に灯された赦しの光を受け入れるとき、私たちはこの世界に神の愛の輝きを証しする者として立つのである。

この聖金曜日にあたって、私たちはもう一度、自らの立つべき場所を確認しよう。砕かれた者たちと共に立つ勇気を携え、そこから始まる復活への道を、希望と共に歩み続ける者となろう。

聖木曜日 二〇二五年四月十七日 ❖ 説教——愛と奉仕の聖餐、謙遜なる洗足の神秘

【教会暦】
聖木曜日 二〇二五年四月十七日

【聖書箇所】
旧約日課:出エジプト記 第十二章一~十四節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 第十一章二三~三二節
福音書:ヨハネによる福音書 第十三章一~十五節

【要旨】
聖木曜日――それは、キリストの愛と謙遜が、この上ないかたちであらわされた特別な夜である。主イエスは、最後の晩餐において聖餐を制定され、弟子たちの足を一人ひとり洗いながら、奉仕と自己献身こそが、教会という共同体を支えるただひとつの力であることを示された。

この夜に刻まれた主の模範は、遠い昔の出来事としてではなく、今を生きる私たちの日常に具体的に生きられるべきものとして、教会に委ねられている。聖餐の恵みを受け、洗足の精神に生きるとは、すなわち愛と奉仕をもって、社会のただ中へと出ていくことに他ならない。

赦しと癒しを受けた者は、もはや自分のことだけにとらわれてはならない。傷つく人、声をあげられない人、取り残された人々の痛みに寄り添い、平和と正義の実現のために労することこそが、主の弟子とされた者に求められている使命である。

この夜、主は私たちを再び招かれる。新しい命へと、新しい使命へと――主の愛と奉仕の道を、現代という荒野において歩み出すために。

序章 この夜に刻まれるもの――愛と謙遜のはじまりに

聖木曜日とは、いったい何の夜だろうか

それは単なる復活祭を迎える前夜というだけの夜ではない。むしろこの夜こそ、キリストの福音が、その最も純粋なかたちで私たちに迫ってくる時である。愛と謙遜――それは、言葉で語られるだけの理念ではなく、この夜、主イエスの手と行動によって極限にまで具体化された現実である。

最後の晩餐の席において、イエスは聖餐を制定し、弟子たちの足を洗われた。その行為は、奉仕と自己献身こそが共同体の命を支える力であることを、ただ教えるのではなく、ご自身のからだをもって証しされた出来事であった。

この聖木曜日の典礼が私たちに突きつけるのは、単なる儀礼の再現ではない。むしろこの夜に示された愛と奉仕、謙遜と自己省察の精神は、いまを生きる私たち一人ひとりへの切実な問いかけである。

社会は混迷を深め、人々は孤立と不安の中でさまよう。格差と分断、排除と差別――こうした現実が私たちの日常を覆っている。しかし、まさにこの現実のただ中においてこそ、主イエスが弟子たちの足を洗った行為が、何よりも新しく、そして革命的な意味を持つ。

主は力によって支配せず、地位によって人を従わせることもなかった。むしろ最も低い者となり、他者に仕える姿をもって共同体を結び直そうとされた。その愛と謙遜の在り方は、時代を超えて私たちに問いかけ続けている。

今夜、私たちは再び聖餐の食卓に招かれる。そこには過去の物語として消費されるべき出来事ではなく、いまここで生きる者として、実践を求められる霊的現実がある。洗足と聖餐――それは、赦しと回復を受けた者が、他者の痛みに寄り添い、平和と正義のために働く使命へと招かれる道しるべなのである。

この夜、私たちは改めて問われている。

愛とは何か。謙遜とは何か。奉仕とは何か。
そして、私たちはこの夜に刻まれたキリストの姿に、どのように応えて生きるのか――。

これから始まる説教において、この夜の深い霊的な核心が、私たち一人ひとりの心に刻まれ、新たな命と使命への招きとなることを、心から願いつつ、この序章を閉じたい。

第一章 過越の夜――記憶から始まる解放の物語

忘れえぬ夜、心に灯る自由の記憶

「あなたたちにとって、この日は記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたり永遠の掟として祝わねばならない。」(出エジプト記12:14)

人は、記憶によって生きる存在なのだと思う。
どこから来て、誰であり、どこへ向かうのか――。その問いに答えるものは、記憶しかない。だが、それは単に昔の出来事を保存するための箱ではない。むしろ、何度でも新しく、私たちの現在を照らしなおす光である。

聖木曜日は、その光の中でもとりわけ深く、重い。古びない記憶。むしろ語り継ぐほどに鮮やかになる夜。信仰とは、記憶を生き直す営みであることを、あらためて思わされる。

過越の夜――ペサハ。それは、イスラエルの民にとって、ただの歴史の断片ではない。奴隷の民が、神の手によって解き放たれた、その原点である。

モーセの声に従い、彼らは子羊を屠り、その血で家の入口に印をつけた。死をもたらす天使が、そのしるしを見て通り過ぎた夜。恐れと希望とが、きっと胸を引き裂いた夜。そうして、彼らはエジプトを後にする。鎖を断ち切って。

この夜が語るものは、出来事の記録ではない。
それは、今も変わらぬ真理である。
苦しむ者の声を神は聞き、その痛みを我が痛みとし、必ずや解き放つ。――その神の姿が、この夜に刻まれている。

記憶は過去のものではない

この物語の核心は、「記憶」の現在性にある。思い出すとは、昔話に浸ることではない。むしろ今を、ここに生きる私たちを、問い直すための出来事だ。

現代に生きる私たちは、かつてないほど物質的に満たされているようでいて、実はかつてないほど、目に見えない鎖に縛られている。孤独。競争。差別。疎外。名もなき痛み。

エジプトの鎖は鉄でできていた。
現代の鎖は、言葉にしにくい重さで、私たちの心と生活に絡みつく。

だが、過越の神は、今も生きている。
かつて奴隷を解放したその御手は、今も隠れた痛みを見逃さない。
抑圧のただ中で呻く声を聞き、沈黙しない神が、そこにおられる。

記憶が呼びかけるもの

だからこそ、今夜、私たちは問われている。
この夜の記憶を、自分のものとして刻み直すようにと。

「この日は記念すべき日となる」――それは過去を懐かしむための言葉ではない。今も続く神の働きに、あなたはどう応えるのか、という問いである。

抑圧や不正義に沈黙しないこと。
人を傷つける側に自らが立っていないか、自分を問い続けること。

それが、過越の夜に与えられた使命であり、今も私たちに課せられている宿題なのだ。

神の解放の業は、終わった出来事ではない。
むしろ、今この時、私たちを通して、続いていく物語である。

この夜に記憶される解放の光は、時を越えて燃え続ける。私たちがその灯を守り、受け継ぐ限り。

――次章では、この夜の精神がいかにしてイエス・キリストの晩餐制定へと受け継がれたのか。その深い意味を探りたい。

第二章 主イエスの晩餐――その革新性と愛の約束

第一節 新たな契約としての晩餐の夜

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい。」
(コリントの信徒への手紙一 11:24-25)

食卓を囲むこと――それは人間にとって、最も古く、根源的な営みの一つである。人は共に食することで、単なる空腹を満たす以上のものを分かち合ってきた。そこには親密さがあり、信頼があり、目には見えない絆が確かめられていく。しかし、主イエスが最後の晩餐で弟子たちと囲んだ食卓には、それらをはるかに超える、決定的な意味が込められていた。

パンと杯――それはかつてイスラエルの民が守り続けてきた過越の食卓のしるしであった。けれどもこの夜、イエスはそのしるしに新しい意味を吹き込む。パンは主ご自身の体となり、杯はその血となった。それは単なる記念の儀式ではない。神が新たに結ぶ契約――命そのものを代価とする、愛の契約の始まりであった。弟子たちはこの夜、歴史の大きな転換点に立ち会っていたのである。

第二節 愛による共同体――旧い契約から新しい契約へ

旧約聖書に語られる契約は、多くの場合、律法の遵守を条件として結ばれてきた。しかし、主イエスが示した新しい契約は、根本的に異なる。それは、律法を越えてあふれ出す神の愛によって成り立つもの――誰もが条件なしに受け入れられ、赦され、生かされる契約である。

この契約の核心は、宗教的・社会的な境界を打ち壊す愛にある。身分も国籍も、宗教的純粋性も問われない。ただ神の無条件の愛によって、あらゆる人が一つの共同体として結ばれる。その挑戦的なビジョンこそが、この晩餐のもっとも革新的な意味であった。

第三節 記念するという行為――いま、ここに主が生きる

「わたしの記念としてこのように行いなさい。」この主イエスの言葉には、過去を追想する以上の意味がある。記念とは、過ぎ去った出来事を今ここに呼び起こし、その出来事の力と恵みに今もなお生きることにほかならない。

聖餐式は、歴史的な出来事を単なる知識として記憶する儀式ではない。それは、主の死と復活の神秘を、共同体が繰り返し体験し、今ここに生き直す行為なのである。過去と現在が交わり、現在が永遠に開かれていく。その神秘に私たちは招かれている。

第四節 愛による共同体の刷新――聖餐が私たちに問いかけるもの

だからこそ、私たちがこの聖餐を祝うとき、それは単なる宗教的慣習では終わらない。そこに集う者は、キリストが掲げた愛の契約に生きる者として、自らを問い直し、新たにされていく。それは、社会的な境界を超え、あらゆる人が尊重され、愛される共同体を目指す歩みである。

この愛の契約こそが、私たちの信仰生活の核であり、世界に対する証しそのものである。聖餐にあずかる者は、ただパンと杯を受ける者ではない。そこから立ち上がり、愛と奉仕の生き方をこの世界で実践する者である。

――この新しい契約に生きる者として、私たちはどのように歩んでいくべきか。次章では、主イエスがその愛の契約を具体的に示したもう一つの象徴的な行為――弟子たちの足を洗う出来事を通して、革命的な謙遜の精神について考えていきたい。

第三章 弟子の足を洗う主――謙遜が切り拓く世界

第一節 最も低きところに降りた主イエス――愛がもたらす衝撃

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13章1節)

この夜、イエスが弟子たちの足を洗った出来事は、単なる感動的な美談として読むべきものではない。そこには、私たちが生きるこの世界の「常識」を根底から覆す激しい問いかけと挑戦が秘められている。

当時のユダヤ社会において、足を洗う仕事は、奴隷や使用人の務めとされていた。埃まみれの道を歩き、汚れた足を洗ってもらうことは客人へのもてなしの一つであったが、それを担うのは、最も身分の低い者に限られていた。ところが、この夜、主イエスはあえてその最も低い場に自らを置かれた。弟子たちの足元にひざまずき、一人ひとりの汚れを洗い流していったのである。

この行動は弟子たちにとって衝撃であった。ペトロは、その驚きと戸惑いを率直に表した。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」(ヨハネ13:6)――ペトロの拒絶は、彼が抱いていた「上下関係」という常識の崩壊に対する無意識の抵抗でもあった。主はその彼に、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)と語りかけ、愛と謙遜がもたらす新しい世界の入り口へと彼を導いた。

第二節 謙遜という革命――支配と序列への逆説的な挑戦

イエスの洗足は、単なる個人徳目としての謙遜ではない。それは当時の社会秩序――支配と服従、上下関係という枠組みに対する、明確で鮮烈な批判の行為であった。地位や権威によって成り立つ世界の構造そのものを覆し、まったく異なる価値観を示す行動だったのである。

支配する者がへりくだること。権力を持つ者が奉仕すること。イエスのこの逆説的な行為は、今もなお世界に問い続けている。わたしたちは、この洗足の出来事を、単なる過去の美談としてではなく、現代を生きる自らへの鋭い問いかけとして受けとめなければならない。教会が聖木曜日に洗足式を行うとき、それは「形だけの儀式」にとどまってはならない。むしろ、教会が権威や序列に固執する誘惑を拒み、もっとも小さく弱い者たちの側に立つ共同体であり続けるための決意表明にほかならない。

第三節 愛の極みとしての謙遜――共同体を造りかえる力

「この上なく愛し抜かれた」主の行動の核心にあるもの――それは、実践的で、具体的な愛である。自らを低くし、他者のために身を低くして仕える。その姿にこそ、福音が語る愛の真実がある。

愛は言葉ではなく行動において試される。奉仕するとは、自らの快適さや特権を脇に置き、相手のために何ができるかを問い続けることである。イエスが示したこの愛は、共同体を再構築する力を持つ。権力による支配ではなく、愛による奉仕によってのみ、人間関係は癒され、社会の分断や差別は克服されていくのである。

この夜、主が私たちに問いかけていることは明らかである――「あなたがたも行って同じようにしなさい。」(ヨハネ13:15)

私たちはこの愛と謙遜の力を、自らの生き方の中にどのように受肉させていけるのか。その問いを胸に、次章では、洗足の愛がいかに具体的な奉仕として実を結んでいくのかを探りたい。

第四章 愛が奉仕を生み、奉仕が愛を育む

第一節 行動する愛、その真実の力

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13章14節)

この主イエスの言葉は、あまりに率直で、しかも挑戦的である。弟子たちの足を洗われたその行為は、単なる模範や象徴にとどまらない。ここには、愛とは何か、奉仕とはいかなるものかという福音の核心が、驚くほど具体的に示されている。

愛は行動へと向かう。愛が真実であればあるほど、それは目に見えるかたちとなって現れる。心のうちに秘められた感情だけでは不十分である。イエスは弟子たちの足を洗うことによって、ご自身の時間と労力を差し出し、弟子たちの必要に応じた行動を選び取った。愛とは、相手のために自らを開き、その痛みや必要に寄り添い、具体的な行動によってその人を支える意志と実践とが結晶したものである。

第二節 社会を変革する奉仕の力

イエスのこの行為は、当時の社会の価値観を根底から覆すものだった。身分や権力によって人の価値が決まる世界の中で、主が自ら弟子たちの足元に跪いた。これこそが、奉仕の愛がもたらす社会的転倒の力である。主の行動は、今を生きる私たちにも、格差や差別、不平等が深く根を張る現代社会にあって、何をなすべきかを鮮やかに指し示している。

奉仕の精神は、富める者が貧しき者を一方的に助けるという発想ではない。それは、分断された社会をつなぎ直し、共同体を再構築するための根源的な力である。奉仕は弱者の救済であると同時に、奉仕する側自身の変革でもある。そこでは傲慢や自己中心性が砕かれ、人間の内にある閉ざされた心が開かれていく。そして互いが真実に出会い、共に生きる道が拓かれていく。

教会が奉仕の精神をその中心に据えるとき、それは単なる善行の積み重ねでは終わらない。それは、社会全体のあり方を刷新し、正義と平和とが具体的に実現していく歩みとなる。奉仕する教会は、神の愛と恵みのしるしとして、この世界に立つのである。

第三節 奉仕によって生まれる愛の共同体

奉仕とは、ただ与えることでも、一方的に尽くすことでもない。むしろ、奉仕には互いに与え、受けるという動的な交わりが生まれる。そこには新しい愛のかたちが育まれていく。奉仕は、する者とされる者の区別を超え、互いが互いに必要を認め合い、謙虚に支え合う関係を創り出す営みである。

イエスが弟子たちに命じた「互いに足を洗い合いなさい」という言葉は、その相互性を何よりも大切にしている。施しと受け取りの関係を超えて、私たちは誰もが他者の助けを必要とし、また誰かに仕える存在でもある。この真実に生きるとき、奉仕を通して共同体は生き生きとした愛に満たされ、その存在そのものが福音の証しとなる。

第四節 今、私たちへの問いとして

この聖木曜日に与えられた奉仕の精神は、単なる聖書の物語として聴き流されるべきものではない。それは、今ここを生きる私たちへの鋭い問いかけである。主は問われる。「あなたがたは、互いに足を洗い合っているか」と。

愛するとは、容易いことではない。奉仕するとは、なおさらである。そこには不便や困難が伴い、自己犠牲の覚悟が求められることもある。しかし、その歩みの先に、私たちは知っている。神の国がある。真に人間らしい社会がある。愛と平和に結ばれた共同体がある。だからこそ、私たちは主に倣って歩み出すのだ。

次章では、この奉仕の精神を私たちがどのように内面的に深めていくか、すなわち「自己省察」と霊的な成熟について、さらに考えていきたい。

第五章 神の愛に触れるために──自己省察という道

第一節 軽んじてはならない聖餐への備え

「だから、ふさわしくないままでパンを食べたり主の杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになる。だれでも、自分自身をよく吟味してからパンを食べ、杯を飲むべきである。」(コリントの信徒への手紙一 11:27-28)

このパウロの厳しい勧めは、私たちが聖餐にあずかるとき、いかに深い心の備えが求められているかを教えている。パンと杯に与るという行為は、単なる儀式や習慣ではない。むしろそれは、神との契約を新たにし、キリストの愛の共同体に生きる者として歩む決意を、私たち自身のうちに確認する神聖な行為である。

ここでパウロが警告する「ふさわしくないまま」とは、表面的な準備不足のことではない。もっと深く、私たちの心のありよう──罪への鈍感さや偽善、他者への無関心や愛の欠如──そうした状態のままで聖餐に臨むことの危うさを指している。自己を省みることを怠るならば、その無頓着さは、やがて私たち自身を神の命の流れから遠ざけるだけでなく、共同体の健やかさにも影を落とすことになる。

第二節 自己省察とは、神の前に心を開くこと

「自分自身をよく吟味する」とは、一時的な反省や自己批判にとどまるものではない。それはむしろ、神の前に静まり、自らの心の内側にある動機や欲望、行動や態度を正直に見つめ、根本から問い直していく霊的な営みである。

聖餐の食卓は、キリストの死と復活という救いの神秘のただ中に私たちを招く。その神秘にあずかるとき、私たちはあらためて問われる──わたしはどれほど神の愛に支えられ、また、その愛に応えて生きているかと。自己省察とは、その問いの前にとどまり続けることであり、日々の生活の中で知らず知らずのうちに染みついた利己心や無関心、不正への鈍さを、神の光にさらしていく営みなのだ。

第三節 自己省察は、愛と連帯への扉

そして大切なのは、自己省察が決して自己閉鎖や孤立の道ではないということである。むしろそれは、私たちを神の愛のうちに解き放ち、他者への深い連帯へと導く道なのである。自らの罪深さや限界を認める者こそ、他者の弱さや欠けにも寄り添い、寛容と謙虚さをもって接することができる。

真実な自己省察は、自己中心からの解放であり、愛と赦しの共同体へと歩み出すための力となる。神の前に心を開き、自らの影を認めるとき、そのすべてを包み込む神の恵みの深さを、私たちは初めて知ることができるからだ。

第四節 自己省察から築かれる教会の姿

聖餐にあずかることは、個人の霊的健康にとどまらず、共同体全体の健やかさと深く結びついている。私たち一人ひとりが真摯に自己を省み、神と人との関係を正しく整えていくとき、その歩みこそが、教会を愛と平和に満ちた共同体として育てていく土台となる。

もし私たちが、この大切な営みを軽んじるならば、聖餐は共同体を結び合わせるどころか、その内側から崩してしまう危険を孕んでいる。だからこそ、今夜、私たちが聖木曜日を迎えるこの時、あらためて心を整えたい。神の前に静まり、自らの心を深く省みながら、愛に生きる者として新たに歩み出す決意を、いまここに刻みたい。

終章 謙遜と奉仕――日々の歩みに宿る聖木曜日の光

第一節 この夜が、私たちの生き方に問いを投げかける

聖木曜日の晩、私たちの心に深く刻まれるのは、キリストの愛のかたち、静かに足もとにひざまずいたあの謙遜、そして自己を省みるという霊的な営みである。だがそれは、年に一度の儀式の中だけに留めておくものでは決してない。むしろこの夜に示された出来事は、私たちの日々の在り方を、根っこから問い直すためにある。

主イエスが弟子たちの足を洗い、「互いに足を洗い合いなさい」と言われたあの呼びかけ――それは、教会が共同体として何を目指すべきか、何を忘れてはならないのかを明確に指し示している。謙遜に、仕える者として生きること。そこに、キリストが残された模範がある。

第二節 表面ではなく、奥行きあるつながりへ

現代の私たちは、しばしば忙しさの中に埋もれ、人との関係も浅く、形ばかりのやりとりに終始してしまう。だが、イエスの謙遜とは、そんな表層をなぞるだけの善意や儀礼とは根本から異なる。主の足を洗う姿に示されたのは、自分の地位や正しさを手放してでも、他者のために低くなろうとする心である。

その精神をこの夜に受け取った私たちは、家庭でも、職場でも、地域社会でも、そして教会でも――日々のあらゆる場面で、具体的なかたちの奉仕を生きてゆかねばならない。それは、ただ何かをして「与える」のではない。誠実な関係性を、時間をかけて築き上げるという、静かで力強い歩みそのものだ。

第三節 教会が担うべき「謙遜の革命」

主の謙遜に倣うとは、ただ慎ましくあることではない。それは、愛を根本に据えた「革命」でもある。教会共同体がこのキリストの道を真に生き始めるとき、それは社会の優先順位を覆し、人と人との関係のありようを揺さぶる力を持ちうる。

私たちは今、それぞれの日常にあって、見返りを求めず、声なき者の声となり、弱い立場の人に寄り添うことを選び取っていくよう招かれている。その選択の積み重ねこそが、共同体の標となり、やがて私たち自身が「仕える者としてのキリスト」を映し出す存在となるのである。そうして教会は、沈黙を破る光となり、真の福音を生きる証人となってゆく。

第四節 受難から復活へ――旅の出発点に立つ

聖木曜日は、受難週という深い旅路の入口にあたる。このあと私たちは、主の十字架の苦しみ、死、そして復活という、神秘の中心へと分け入ってゆくことになる。だがその旅路の意味を深く知るためには、まずこの夜に示された「奉仕」と「謙遜」の精神を、私たちの心にしっかりと根づかせねばならない。

今夜、私たちはその精神を新たに胸に刻んだ。その灯火を手に携え、復活という栄光の頂を目指す旅を、共に歩んでいこうではないか。この夜が、ただの通過点で終わらぬように――私たちの心と行いが、ここから真に変えられてゆくことを、主ご自身が導いてくださるよう祈り願う。

復活前主日 二〇二五年四月十三日 ❖ 説教——沈黙する神、十字架に宿る声

【教会暦】
復活前主日 二〇二五年四月十三日

【聖書箇所】
旧約日課:イザヤ書 第四五章二一~二五節
使徒書:フィリピの信徒への手紙 第二章五~一一節
福音書:ルカによる福音書 第二三章一~四九節

【説教要旨】
この説教は、復活前主日に与えられたルカによる福音書第23章を中心に据え、イエス・キリストの受難の物語、そのなかでも特に「沈黙」という主題に深く迫るものである。ピラトの躊躇、兵士たちの嘲笑、群衆の盲目な声、婦人たちの見つめる眼差し、そして百人隊長の驚きの告白──そうした登場人物たちの振る舞いのひとつひとつが、イエスの沈黙と対峙しながら、信仰者に問いを投げかけてくる。

その沈黙は、決して無関心ではない。むしろそれは、愛の極みであり、共に苦しむ者としての神の連帯のしるしである。また、それは神ご自身の沈黙と重なり、現代社会において声を奪われた者たちの苦しみとも深く響き合っている。

説教はさらに、イザヤ書第45章における「わたしのほかに神はいない」という唯一神信仰の宣言と、フィリピの信徒への手紙第2章に記されたキリスト讃歌を交差させることによって、へりくだりと受苦によって救いを示される神の姿を描き出す。栄光に輝く神ではなく、十字架に下られる神。力ではなく、愛と犠牲によって世界を包み込む神。

信仰とは、言葉を持つことではなく、沈黙に聴くことから始まる。神の沈黙の深みに耳を澄ませるとき、そこにこそ生ける言葉が響き始める。わたしたちは、その沈黙への応答として、祈りと行動をもって世界に仕える者として召されている。

序章 王なき王、沈黙の始まり

復活前主日は、受難週への扉口として、信仰の旅路における峻烈な峠にあたる。歓呼とともにイエスを迎えた「枝の主日」を目前に控えながらも、この日の典礼は、すでに苦難のただ中へと私たちを導いてゆく。ルカによる福音書第23章──そこに刻まれたのは、十字架刑に至るイエスの受難の極点であり、沈黙と死の深淵が記されたものである。神の子が裁かれ、黙し、辱められ、そして命を奪われてゆく。その場面には、救いの兆しも、劇的な転換も存在しない。ただ苦しみがあり、沈黙があり、死がある。そしてその沈黙こそが、言葉よりも深く、神の真実を宿している。

イザヤ書第45章に響くのは、「わたしのほかに神はいない」という断固たる信仰告白である。バビロン捕囚の苦境に沈む民に向け、預言者は語った──たとえ沈黙に覆われているように思えても、神はなお、生きて働いておられるのだと。「わたしを仰ぎ見る者は救われる」という宣言は、まさしく受難のキリストに向けられるまなざしと響き合う。イザヤの言葉は、沈黙を通して現れる救いを先取りしていた。

フィリピ書に記された古代教会の「キリスト讃歌」もまた、神の逆説的な在り方を証ししている。神である方が、自らを低くされ、人となり、辱めと死に至るまで従順であり続けた──その徹底した自己放棄の姿の中に、神の栄光がかえって顕された。「神のかたち」を手放したキリストは、「僕のかたち」をとられた。神の栄光とは、人間の論理とは逆に、へりくだることの中に宿るものなのである。その姿が、いま十字架上に、沈黙のなかにさらされている。

この主日に与えられた三つの聖書箇所は、それぞれ異なる次元から、神の沈黙、神の苦しみ、そして神の逆説を指し示す。私たちは、この峠に立たされている。キリストの沈黙とどう向き合い、その向こうにどのような神の声を聴き取るか──その問いは、信仰者としての私たちの存在を根底から揺さぶる。

これから語られる説教では、イエスの受難の物語を通して、現代における正義と暴力、権力の構造を見据えながら、神の沈黙がわたしたちに突きつけてくる霊的かつ倫理的な問いに深く向き合っていく。神の沈黙は、決して無関心ではない。それは、限界まで身を差し出す愛の姿そのものである。そしてその愛が、十字架においてすでに啓示された。これから始まる各章を通して、その沈黙にこめられた神の意志と真理とを、一つひとつ紐解いていきたい。受難週を迎えるために、わたしたちの内なる準備の旅が、いま静かに始まろうとしている。

第一章 告発される義人、崩れゆく正義

ルカ福音書第二三章が描き出す受難の物語は、ひとつの法廷劇として幕を開ける。イエスは総督ピラトのもとに引き出され、国家への反逆者として、社会秩序を脅かす扇動者として、そして自らを王、すなわちメシアと称する者として告発される。告発の言葉は巧みに仕組まれている──「この男は民を惑わし、皇帝への納税を拒ませ、自らを王だと言っている」(ルカ23:2)。事実と虚偽を織り交ぜた訴えは、正義の名のもとに殺意を正当化する構造を巧妙に作り上げている。

イエスは沈黙する。自らを弁護することなく、語ることを拒むこの沈黙が、かえって周囲の喧騒のなかで異様なほどに際立つ。ピラトは繰り返しイエスに罪を見出せないと述べた。「この人には罪がない」と三度も明言する(同23:4,14,22)。だが群衆の声は止まらない。ついに「十字架につけよ」という怒声がすべてを押し流し、法も正義も沈黙し、暴力が主導権を握る。

ここに描かれているのは、単なる過去の宗教的弾圧ではない。むしろ、権力の構造のなかで正義がいかにして瓦解するのか、その普遍的な仕組みが赤裸々に示されている。制度が正義を守る役割を放棄し、むしろ大衆の激情や支配者の都合に奉仕するようになるとき、どれほど明白な無実であっても守られる保証はない──その現実が、この短い叙述の中に容赦なく刻み込まれている。

ピラトの態度には、現代社会の姿が透けて見える。良心と公的責任の狭間で揺れながらも、最終的には波風を立てぬことを選び、真理よりも安定や秩序を優先する姿。それは中立を装いながら、実際には沈黙によって不正に加担するという、逃避の構図である。知っていながら従わないこと──それこそが、神のまなざしの前で最も深い裏切りとなる。

この章がわたしたちに突きつけるのは、「なぜ正しい者が苦しまねばならないのか」という問い以上に、「正しい者が苦しむとき、わたしたちはどこに立っているのか」という決定的な問いである。裁かれているのはイエス一人ではない。わたしたち自身の態度、立ち位置、そして沈黙の選択が、問われているのだ。

次の章では、イエスの沈黙そのものに焦点を当てていく。その沈黙は逃避ではない。むしろ、それこそが神の言葉となる沈黙であり、抗議であり、救いの起点である。その意味を、深く掘り下げてゆくことにする。

第二章 キリストの沈黙、声なき抗議

受難の物語において、イエスは一貫して沈黙を守り続けた。その沈黙は、決して弱さやあきらめの表れではない。言葉の限界を知り、それを超えようとする、まさに最も強靭な抗議のかたちであった。ピラトの追及に、ヘロデの嘲りに、兵士たちの侮辱に対して、イエスは一言も発しない。福音書記者たちはその様子を丁寧に描き出し、イエスの沈黙がただの沈黙ではなく、非常に力強い応答であったことを読者に訴えている。

沈黙とは、単に言葉を止めることではない。むしろ、語ることを拒みつつ、存在そのものが語りかけとなる状態である。イエスの沈黙は、支配者にとっては不気味な異物であり、群衆には理解の隙を与え、弟子たちには信仰を試す試練であった。そしてその沈黙は、神の沈黙でもあった。旧約聖書のなかで、神はしばしば「沈黙する神」として現れる。詩編の詩人は嘆きながらこう叫ぶ──「主よ、いつまで沈黙しておられるのか」(詩編94:3)。イザヤは静かに示唆する、「主は沈黙し、そこに救いをもたらす」(イザヤ30:15)。

この神の沈黙は、放任でも逃避でもない。むしろ、裁くことも癒すこともできる神が、あえて沈黙を選び、そのなかに深い愛と緊張を孕んでおられる。イエスの沈黙は、まさにその「神の愛としての沈黙」を人間の歴史のただ中に生きた現れであった。彼は沈黙によって、神の真理をまっすぐに指し示していたのである。

やがてその沈黙は、十字架の上でふと破られる。イエスが発した数少ない言葉のうちの一つ──「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)──それは、沈黙のなかに潜んでいた神の意志が、ついに言葉となってあふれ出た瞬間であった。そこにあるのは弁明でも告発でもなく、ただ赦しの祈りであった。

いまもなお、この世界には、語ることすら許されずにいる者たちがいる。暴力の下で口を閉ざし、制度のひび割れの中で忘れ去られる声なき存在たち。その沈黙は、「無」ではない。それは、社会が向き合うことを避けてきた根源的な問いであり、神のかたちをした抗議そのものである。教会とは、本来その沈黙に耳を澄まし、それに代わって語るために存在している共同体なのではないか。

イエスの沈黙を見つめるとき、わたしたちは「語られなかった言葉」に耳を傾けることを求められる。それは、神の声を、響きではなく沈黙の奥に探すこと。受難週とは、その沈黙を聴き取るための、最も深い霊的修練の時なのである。次章では、そうした沈黙のなかであえて語り続けた預言者──イザヤ──の声に導かれ、「唯一なる神の救い」とは何かを見つめてゆく。

第三章 イザヤの神、唯一の救いとしての十字架

「わたしのほかに神はいない。わたしは神、正義の神、救いを与える神。わたしのほかにいない。」(イザヤ45:21)

このイザヤの預言の一節には、時代と歴史を貫く神の自己宣言が宿っている。それは専制でも独占でもなく、ただひとつの救いにおいて現れる「唯一性」の告白である。民が敗北と屈辱の中にあったバビロン捕囚の時代──神の沈黙が人々の心を満たし、信仰の灯は風前のともし火のように揺れていた。しかし、預言者はその沈黙のなかにこそ、見捨てられたと思われた神の臨在を読み取り、再び天を仰ぎ見るようにと呼びかける。

神の沈黙は、神の不在ではない。むしろそれは、歴史の深部で静かに動いておられる神のかたちである。そして、この沈黙は新約において、十字架のイエスという姿となって顕れる。イザヤが語った「仰ぎ見る者は救われる」という約束(45:22)は、まさに十字架に架けられたキリストにおいて成就したのだ。声を荒げず、抗わず、ただ沈黙のうちにすべてを引き受けたイエス──この方を仰ぎ見ることが、神の救いへの扉となる。

とはいえ、この「唯一の神」という言葉が、現代では容易に排他主義や宗教的優越の文脈と結びつきやすい危うさを孕んでいるのもまた事実だ。しかしイザヤの神は、そうした独善とは決定的に異なる。彼が否定するのは他者ではなく、偶像と偽りである。そして彼が肯定するのは、低くされ、忘れられた人々の只中に立つ神の真実だ。栄光の神ではなく、屈辱を共にする神──それがイザヤの描いた神の唯一性なのである。

その視点を、いまこの時代に置き換えてみるとどうだろうか。格差と孤独、排除と暴力が蔓延する社会のなかで、わたしたちは本当に「唯一の救い」を見つけることができているだろうか。神の名は掲げられていても、その実体は権威や制度にすり替えられてはいないか。十字架の神は、そのような歪んだ構造に対して、静かながらも激しい抗議として存在している。

救いとは、勝利の瞬間に輝くものではない。それは、沈黙と敗北のただ中でなお共にいてくださる神の現れである。だからこそ、十字架は終わりではない。それは神の真実が、この世界の最も深い闇にまで届くことを示す徴(しるし)である。「わたしのほかに救いはない」と語る神は、支配者ではない。イエスという人格において、見捨てられた者たちと共に歩む者として、沈黙のうちに立たれている。

その沈黙は、何よりも真実に近い声だ。鋼のように静かで、しかし岩をも砕くような力を宿している。十字架における神の姿とは、すべてを失った者に差し込む最後の光であり、すべてを奪われた者がなお希望にしがみつける唯一の拠り所なのだ。

次章では、パウロがフィリピの信徒たちに向けて記した「キリスト讃歌」に焦点をあててゆく。そこには、十字架の神がいかにして「栄光を受ける神」となるのかという、神学的逆説の核心が刻まれている。

第四章 屈辱の道を歩む神、フィリピ書のキリスト讃歌

「キリストは、神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして、僕のかたちを取り、人間となられた」(フィリピ2:6-7)。
このパウロの言葉──いわゆる「キリスト讃歌」は、初代教会において繰り返し告白され、歌われてきた信仰の核心である。だがその讃歌が指し示すのは、栄光に包まれた神ではない。むしろ、栄光を手放し、徹底してへりくだられた神の姿である。自らを低くし、最も深い屈辱にまで身を委ねた、その生き方のうちにこそ、神の本質が示されている。

神の「栄光」は、ここで逆説として描かれる。すなわち、神が神であることの最も深い表現は、神が人間と等しくなり、さらに低くなられたその瞬間にあった。十字架に至るまでの従順──それこそが、この賛歌の中心である。十字架は、単なる刑罰ではなく、神の愛が全存在として形をとった場所であり、義ではなく、慈しみの最終形態なのである。

この神学的構図は、あらゆる世俗の権力構造や成功のイデオロギーを根底から揺さぶる。神の栄光は、天上に浮かぶ神殿の中にあるのではない。むしろ、地に倒れ、唾を吐きかけられ、嘲笑と苦しみの中に沈む存在のうちに、その真実を放つ。それは神の栄光が「遠くにあるもの」ではなく、「誰よりも近く、低くあるもの」として現れることを意味する。

そしてこの神の姿は、現代の支配的な価値観と鋭く対立する。強さを誇り、声の大きさが正義を凌駕する世界において、神はあえて弱さを生きられた。勝利の論理ではなく、奉仕の姿勢によって、神は神であることを貫いた。上昇ではなく、下降を選ぶというこの神の運動は、単なる受難ではない。そこには、地の底にある者たちをも引き上げようとする神の愛の重力が働いている。

この讃歌をパウロは、抽象的な神学理論としてではなく、教会共同体の具体的な生き方の基準として語っている。「この思いをあなたがたの間で抱きなさい」と、彼は勧める(フィリピ2:5)。キリストに倣い、へりくだり、互いに仕え合う姿勢こそが、信仰共同体の証しなのである。十字架は、歴史の彼方の出来事ではない。それは今も、わたしたちの関係と在り方を問う、現在進行形の真理である。

そして、この道を歩み抜かれた方に、神は「すべての名にまさる名」を与えられた(2:9)。それは苦難の賛美ではなく、苦難のなかでも神への信頼を貫いた者の真実が、神の記憶として永遠に刻まれるという約束である。すなわち、神の栄光とは、痛みのなかでそれでもなお人を愛し、赦し、仕え抜いたその行為の中にこそ宿るのである。

次章では、受難物語の終盤──十字架の下に立つ百人隊長と婦人たちのまなざしを通じて、人間が神の真実をどう目撃するか、その問いに迫る。沈黙のただ中で、神の栄光がどのように現前するのか。その光景をともに見つめていくことにしよう。

第五章 十字架の下のまなざし、百人隊長と婦人たち

イエスが最後の息を引き取ったそのとき、誰もが沈黙していた。ただ一人、異邦人である百人隊長だけが声を発した。「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)。この言葉は、あまりにも場違いなほど率直で、誰の耳にも鋭く突き刺さる。宗教指導者たちが沈黙を決め込み、弟子たちですら声を失っていたその場所において、このローマ兵士の言葉だけが、真実に触れた。

この瞬間、神の沈黙のなかにある真理が、突如としてあらわになった。嘲り、暴力、死が交錯するあの午後、神の義は、力ではなく沈黙と死を通して、鮮烈に世界の只中に示された。ルカは、イエスの死を単なる悲劇として描かない。むしろ、その死によって開かれる神の義の啓示として描き出す。群衆は、見物に来たはずだった。しかし彼らはやがて、その場を去るとき胸を打ちながら帰っていった(ルカ23:48)。何を見たのか──それは、無関心のまなざしが悔い改めの眼差しへと変わる、その刹那の変化だった。

十字架を見つめるという行為は、ただの傍観ではない。まなざしは、見ている対象によって、そして見ている自分自身によって、変容していく。見つめるということは、内なる変化を引き受けることである。

あの場には、もう一群の人々がいた。イエスに従ってきた女性たちである。ルカは、「遠くから見守っていた」(23:49)とだけ書く。その一文に込められているのは、深い悲しみと揺るぎない忠誠心だ。男たちが逃げ去った後にも、彼女たちはそこに留まり、沈黙のなかで主の死を見つめ続けた。声を発することも、行動を起こすこともできず、ただ沈黙のまなざしを保ち続けた。その姿に、復活の最初の証人となる者たちの気高さが宿っていた。

彼女たちは何も語らなかった。誰も福音を叫ばなかった。誰も信仰を告白しなかった。ただ、死にゆくキリストを見つめるという、その深く静かな行為のなかで、神の真実は開かれていた。十字架は、見る者の魂にゆっくりと、だが確実に変化を刻む。言葉を超えて、沈黙を通して──そこに神の声が響いている。

百人隊長と女性たちの姿から浮かび上がるのは、「信仰とは何か」という問いそのものである。それは理屈でも主張でもない。ただ、神の沈黙を受け止めること。黙して、見続けるという応答。声を上げる前に、わたしたちはこの十字架の下に立つことができるのだろうか。その場に居続けることの困難を引き受ける覚悟はあるのだろうか。

物語は、この章を経て終わりへと向かう。しかしそれは、同時に新しい始まりへの門でもある。復活前主日が私たちに開いてくるのは、神の沈黙の向こうから差し込む新しい光である。その光に向かう旅路が、ここから静かに始まっていく。

終章 沈黙の向こうにある応答、私たちの受難週

わたしたちは、福音書に描かれたイエスの受難の物語を読むたびに、一つの鋭い問いを前にする。──「自分は、この出来事の中のどこに立っているのか」。ルカによる福音書23章に記されているのは、抽象的な神学体系ではない。そこにあるのは、沈黙、誤解、侮辱、暴力、そして死といった、極限の現実そのものだ。そして、その中心に黙して立つイエスの姿がある。彼は抗わず、否認せず、ただ十字架に身を委ねる。

ピラトの迷い、群衆の狂乱、兵士たちの嘲り、百人隊長の驚き、婦人たちの悲しみ──そこに登場する人々はみな、何らかのかたちでイエスの沈黙と出会い、その深い沈黙の奥に潜むものに向き合わされてゆく。そして彼らの一人ひとりの反応は、そのままわたしたちの可能性でもある。沈黙に直面したとき、黙して見守るのか、それとも声をあげるのか。嘲笑うのか、悔い改めるのか。立ち去るのか、それとも残るのか。

この受難の物語は、傍観者でいることを許さない。イエスの沈黙は、ただの無言ではない。それは、わたしたちに対して発せられた問いなのである。神が語るのでなく、わたしたちに語らせる。神は、わたしたちの行為や選択、祈りや証しのうちに、沈黙を通して再び語ろうとされる。その沈黙が、わたしたちの生のうちに言葉となって響き始めるのだ。

復活前主日は、あらゆる音が吸い込まれるような静寂のただ中に置かれている。賛美の声も、歓喜の叫びもまだ響かない。だがまさにその静けさこそ、わたしたちが神と向き合うにふさわしい場所となる。神が沈黙しているように見えるこの世界の隅で、神はなおも沈黙をもって語り続けている。

わたしたちは、いま受難週へと歩を進めようとしている。そこでまずなすべきことは、声を上げることではない。沈黙の中にとどまり、その深みに身を委ねることだ。その沈黙のうちに、かすかに見えてくるもの、かすかに聴こえてくるもの、それこそが、神の言葉の最も真実な響きである。その響きに応えるために、わたしたち自身の人生が、ひとつの応答となるように生きる。その応答こそが、主の受難を見つめる者たちに与えられた使命にほかならない。

大斎節第五主日 二〇二五年四月六日 ❖ 説教——見捨てられた葡萄園、なお語られる希望

【教会暦】
大斎節第五主日 二〇二五年四月六日

【聖書箇所】
旧約日課:イザヤ書 第四三章一六節~二一節
使徒書:フィリピの信徒への手紙 第三章八節~一四節
福音書:ルカによる福音書 第二〇章九節~一九節

神の語りかけは、しばしば人間に拒絶される。
それでもなお、神は語ることをやめない。
ぶどう園の譬えは、壊された契約と殺された愛の物語であり、
それと同時に、拒まれた者こそが救いの礎となるという逆転の福音である。
過去の栄光にすがる信仰ではなく、今も創造し続ける神への信頼が求められている。
パウロのように、すでに得たものを失ってもなお、神に捕らえられる生を選び取ること。
私たちが砕かれた石にひざまずくとき、そこに新しい共同体が築かれる。
大斎節は、その再創造の道を共に歩み始めるための、神からの召しなのである。

序章 枯れた大地に注がれる水、復活に向けた予兆

大斎節第五主日は、復活祭へと向かう道程の終盤に位置し、キリストの十字架と復活の神秘が、より鮮明に視界に迫る転換点である。悔い改めと節制の中にある私たちの霊性は、いまや単なる自己省察の段階を超えて、神の大いなる更新の計画と出会う時を迎えている。そこではもはや、悔い改めとは沈黙や痛みに沈潜する行為ではなく、新しい命の兆しに向かって立ち上がるための霊的跳躍である。

この第五主日に与えられた三つの聖書箇所──イザヤ、パウロ、そしてルカ──はいずれも、「神の語る声が拒まれた現実」から、「それでも語られつづける希望」へと、深い逆説を通して信仰を照らす。イザヤは、バビロン捕囚の地にあって、荒れ野に道を拓く神の創造を預言した。パウロは、すべてを失ってでもキリストを得ようとする霊的な執念を語る。そしてイエスは、ぶどう園の譬えをもって、神からの使者を殺す人間の暴力と、それにもかかわらず隅の親石となるという神の逆転を宣言する。

ここには一貫して、こうした問いが突きつけられている──「人は神の語りかけを拒みながらも、それでもなお神と向き合うことができるのか?」という問いである。拒絶されてもなお語る神。殺されてもなお甦る神の子。この神の論理は、私たちの倫理や制度や計算を軽々と超えてくる。それゆえ、この主日に語られる福音は、人間の不忠実を責めるものではなく、それをも超えて忍耐強く関係を織り直そうとする神の情熱を伝える。

このプロローグにおいて、わたしたちは大斎節第五主日が持つ神学的・霊的重みを確認しながら、説教全体の展開への序曲を奏でる。焦点はただ悔い改めに留まることなく、「すでに芽生えている」神の新しい業への洞察に向かう。荒れ果てたぶどう園に、なお注がれる神の愛の水。その水が復活へと導く豊かな流れであることを信じて──今、わたしたちは物語の核心へと踏み込んでいく。

第一章 葡萄園の譬え、壊された契約の物語

ルカによる福音書第二〇章に記された「ぶどう園と農夫の譬え」は、数あるイエスのたとえ話の中でも、ひときわ鋭く、心をえぐるような響きを持っている。それは単なる寓話ではない。神とその民との契約がどのように破られてきたか、その現実を突きつける証言にほかならない。

物語の幕開けは静かである。ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに任せて遠くへ旅に出る。収穫の時期になると、その実りを受け取るために僕を遣わす。しかし、農夫たちはその僕を打ち叩き、辱め、手ぶらで追い返す。二人目も三人目も、まったく同じ仕打ちに遭い、やがて主人は最後の望みをかけて、自らの「愛する息子」を遣わす。だが農夫たちは言う、「これは跡取りだ。これを殺せば、相続財産は手に入る」。そして彼らは息子をぶどう園の外へ放り出し、命を奪ってしまう。

この譬えは、表層的な倫理の話ではない。それはむしろ、イスラエルの信仰の記憶と痛みを内包する、深い霊的現実を語っている。ぶどう園とは、申命記や詩編において神がその民に託した豊かな祝福の象徴であり、農夫たちはその管理を任された宗教的指導者、すなわち祭司や律法学者、長老たちを指す。そして、遣わされた僕たちは歴代の預言者たち、最後に遣わされる「息子」とは、イエス・キリストに他ならない。

ここで語られているのは、神が忍耐と愛をもって織り続けた関係が、何度も人間の手で断ち切られてきたという現実である。神の声が語られるたびに、それは拒まれ、時には暴力で黙らされてきた。これは過去の話ではない。神の呼びかけに対して耳を塞ぎ、自らの正しさを絶対視する心の傾向は、今を生きるわたしたちの中にも、静かに、しかし確かに息づいている。

注目すべきは、神が一度や二度の拒絶で関係をあきらめないという点にある。むしろ繰り返し、僕を、そして息子を遣わすのだ。その姿は、気まぐれな支配者のものではない。傷つきながらも、関係を回復しようと願い続ける、深く痛む心を持った存在の姿である。

この譬えは、イエスがエルサレムの神殿という、まさに権力の中心で語ったものだった。語られた言葉の矛先は、当時の宗教体制の中枢にいた者たちに向けられていた。しかしそれは、彼らだけの問題ではない。この問いは、今を生きるわたしたちにも、同じように差し出されている。

わたしたちは果たして、神から託されたぶどう園を誠実に耕しているだろうか。それとも、神の語りかけを自分の都合に合わせて解釈し、耳障りな声を遠ざけていないだろうか。

譬えの最後には、福音の核心ともいえる驚くべき言葉が置かれている。「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった」(詩編118:22)。それは単なる引用ではない。人間が拒んだものを、神は救いの礎として選ばれる──そんな逆転の真理がそこに刻まれているのである。

次の章では、この「捨てられた石」がどのようにして救いの中心へと据えられるのか、拒まれた神の声と、なお語り続ける神の忍耐について、もう一歩深く掘り下げていくことにする。

第二章 拒まれた神の声、拒まれる神の子

「これは跡取りだ。これを殺して、相続財産を手に入れよう」(ルカ20:14)──この言葉には、どうしようもないほど剥き出しの人間の欲望が見え隠れしている。ぶどう園の譬えに出てくる農夫たちは、主人の意志を引き継ぐどころか、それを乗っ取り、自分のものにしようと企てる。そして、彼らが手をかけようとしたのは「僕」ではなく、「息子」。つまり主人の心そのものであり、愛そのものであった。この譬えが突きつけるのは、神が差し出す愛が、どれほど徹底的に拒まれうるかという、厳しくも重たい現実である。

神の声は、時を越えて、預言者たちの口を通して語られ続けてきた。アモスは社会の不正を鋭く糾弾し、エレミヤは捕囚の影に泣き崩れた。イザヤは「耳があっても聞こうとしない民」に向けて、なおも語りかけ、ホセアは裏切りを繰り返す妻ゴメルとの関係に神の愛と人の背信を重ねた。それでも、そうした預言者の言葉は、多くの場合、聞き流され、侮られ、そして最終的には排除された。彼らが味わった苦しみは、神の意志が人の現実といかに激しくぶつかり合っていたかを物語っている。

その極みに現れたのがイエスであった。イエスは、もはや単なる預言者ではない。神の意志そのものを、言葉と生き方を通して体現するお方だった。しかし、人びとはこの「神の子」ですら受け入れず、その声を封じようとした。ここでいう拒絶は、ただの無関心ではない。むしろそれは、神の臨在がもたらす不都合さ──居心地の悪さへの反発だったのではないかと思う。イエスは律法主義の空虚を暴き、見捨てられた人々を抱き寄せ、宗教体制の偽善を突いた。だからこそ、神の名を都合よく使っていた者たちにとって、彼の存在は真っ向からの脅威だったのだ。

イエスが拒まれたという出来事は、単なる一度きりの歴史的事件ではない。それは、今も続く、神と人とのあいだにある緊張関係の、まさに象徴なのである。神は、真っすぐな愛をもって近づいてくる。でもその愛があまりにもまっすぐすぎて、私たちは時にそれに耐えきれず、むしろ背を向けてしまう。まるで、自分の中にある闇を照らされるのを怖れて、光から逃げるかのように。

この構造は、現代社会の中でも、何度でも繰り返されているように思う。神の意志は、ときに、難民の叫びや、貧しさにあえぐ人々の呻き、差別され沈黙を強いられている者たちの中に潜んでいる。でも、私たちはそうした声を「騒音」だと決めつけて遠ざけ、「秩序」という名のもとに抑えつけようとする。神の声は、むしろ最も耳をふさぎたくなるような場所から届いてくることがある。そして、その声にどう向き合うかが、わたしたち一人ひとりの信仰の姿勢をあぶり出す。

拒絶されたイエスは、その拒絶のただ中でこそ、神の愛の深さを示された。殺されることによって、支配と暴力の構造がどれほど空しいものであるかを暴き、そこに神の義と愛の力を静かに対置されたのである。

次の章では、この拒絶のただ中でもなお、神が語り続けた幻──イザヤの預言に描かれた「新しい創造」の希望について、深く味わっていくことにしたい。

第三章 イザヤの幻、忘却された救いの記憶

「主はこう言われる。海の中に道を通し、大水の中に通路を開かれた方…見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:16,19)

このイザヤの言葉――旧約日課として与えられた一節は、神がどれほど壮大な救いの業を行われたかという記憶と、その記憶すらも曖昧になっていく人間の現実とを、驚くほど鮮やかなコントラストで描き出している。あの出エジプト。イスラエルにとって信仰の歴史を形づくった、決定的な出来事だった。自然の摂理さえ超えて、海に道が拓かれた。あれはまさしく、神の介入そのものだった。

けれど、ここで預言者はその記憶を頼みにしてはならないと語る。「初めのことを思い出すな。昔のことを考えるな」(18節)。あれほどの奇跡の記憶すらも、今やそれにしがみつくことは警告の対象となっているのだ。

これは過去そのものを否定するのではない。むしろその逆だ。過去の体験が、もはや生きた信仰ではなく、ただの懐古と化してしまったことへの厳しい問いかけなのである。人はどうしても、かつての信仰の高揚や、うまくいった記憶に縋りたくなる。だがそれは、今を生きる神ではなく、どこかで「語り終えた」神として扱ってしまう危うさを孕んでいる。

イザヤは、バビロン捕囚という苦難の中にいる民に向かって、「いま語られる神」に耳を澄ませと呼びかけた。神は、かつて偉大だっただけの存在ではない。現在進行形で、荒れ果てた地に泉を湧き立たせ、誰も通らない荒野に道を拓いておられる方なのである。

この幻は、大斎節という特別な季節と深く呼応する。悔い改めとは、過去の罪にただ囚われることではない。神が過去に行われた救いを忘れずに胸に刻みながらも、「新しいこと」がいま始まっているという希望に、心から賭ける行為である。目の前の現実がどれほど荒んでいても、そこに神の創造が芽吹く余地を信じ抜くという、思い切った信仰のジャンプなのだ。

第五主日を迎える私たちは、心のどこかで「神はもう語っていない」と感じてはいないだろうか。社会の閉塞、宗教への失望、戦争、環境の危機、孤立や差別…。あまりに乾いたこの時代にあって、「主が新しいことを起こされる」という響きは、非現実的にすら聞こえてしまうかもしれない。けれど、それでもなおこの言葉は、私たちの信仰の芯を揺さぶる力を持っている。「今や、それは芽生えている」という神の声に、どれほどの眼差しと耳を向けられるか。そこに、信仰という名の“視力”が問われている。

そして、教会という共同体もまた、過去の栄光にすがる誘惑と無縁ではない。「あの頃はよかった」「あの時代には信仰が生きていた」といった懐古の言葉が、いま直面している沈黙や変化への不安を覆い隠してしまうことがある。しかし神は、過去の神話に満足することをお望みではない。「いま、語られる神の声」に応答するよう、私たちを招いているのだ。

イザヤが示した幻――それは、過去の奇跡を出発点としながらも、今と未来を見据える大胆な希望の宣言である。

次の章では、パウロの言葉を手がかりにしながら、この希望をただの理想で終わらせないために、私たちが何を手放し、どこへ向かうべきかを、霊的な筋道として掘り下げていきたい。

第四章 失われたものを追う者、パウロの執念

「キリストを得るためなら、すべてを失っても構わない」──パウロは、フィリピの信徒への手紙の中でそう語っている(フィリピ3:8)。この一言には、単なる決意を超えた、切羽詰まったような響きすら感じられる。彼が語っているのは、ある理想のために何かを手放すという話ではない。もっと根源的な出来事、それも、自分の意思すら凌駕してしまうような経験についての証しである。

「キリスト・イエスに捕らえられた」(同12節)──この一節がすべてを物語っている。パウロは、追いかけていたのではない。むしろ、彼自身が出会いにおいて、突如として捕らえられてしまったのだ。その逆転のなかで、彼はかつての誇り──律法に従って積み上げた義、血統、社会的な名誉──それらすべてを「塵あくた」と見なすようになった。

思えばパウロは、神に近づこうとして、自らの努力を極限まで高めてきた人間だった。ファリサイ派の律法学者として、宗教的に妥協のない姿勢で、むしろ信徒を迫害する側に立っていた。それほどまでに彼は、自分なりの「正しさ」を生きていた。しかし──あのダマスコ途上の出来事によって、すべてがひっくり返される。そこには、もう神に至る「道」などなかった。ただ、向こうからやって来たキリストが、自ら近づいて来てくださったという一点の事実だけが残ったのだった。

その瞬間、信仰は彼にとって何かの「手段」ではなくなった。自己実現でも、心の安らぎを得るための手立てでもない。もはや信仰とは、ただそこにある「現実」そのものとなったのである。

このパウロの証言は、現代に生きるわたしたちにも深い問いを投げかけている。──私たちは信仰を、何かを得るためのツールにしていないだろうか。心の平和がほしいから、孤独が嫌だから、あるいは死後の保証が欲しいから──そんな目的のために「信仰」を用いてしまっていないか。だが、パウロにとって信仰とは、何かを手に入れる手段ではなかった。むしろ、それは「出会い」によって全存在が作り変えられたという事実であり、すでに自分ではなくなった存在として生きていくという、根源的な変容そのものだったのだ。

彼は言う。「既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもないが、捕らえられているから、それを追い求める」と(同12節)。この逆説の中にこそ、信仰者としての生き方の本質がある。わたしたちはすでに「与えられて」いながら、なお「求め続ける」者である。神の恵みに包まれているがゆえに、ますます深く知りたくなり、より純粋に生きようとする。その絶えざる緊張の中に、信仰のリアルがある。

もしこの緊張を失ってしまえば、信仰は次第にぬるま湯のような安心に変わっていく。あるいは、ただ形式的な繰り返しだけが残る、惰性の宗教になってしまう。パウロの言葉には、そうした信仰の怠惰さへの強烈な拒絶がある。彼は一歩ずつ、復活へ向かって進もうとした。死をも抱きしめながら、「キリストの苦しみにあずかる」道を選び取っていった。そこを通ることでしか、彼は復活の力に本当に触れることができないと信じていたのである。

大斎節は、この霊的な緊張感をもう一度思い出すための季節である。パウロのように、まだ手にしていないものを誠実に、ひたむきに追い求めること──しかもそれは、自分の力ではなく、すでに注がれている恵みに突き動かされるかたちでの追求である──それこそが、この季節における信仰のリアリズムと言えるだろう。信仰とは、安らぎであると同時に、静かな戦いでもある。

次の章では、ルカによる福音書に登場する「隅の親石」のたとえを通して、拒絶と受容がひっくり返るという神の救いの構図を、もう少し掘り下げてみたいと思う。

第五章 石の上に落ちて砕け、なお語られる希望

「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった」(ルカ20:17)。
この一節には、福音が持つ逆説の核心が凝縮されている。ぶどう園の譬えに続いて語られるこの言葉は、詩編118編22節からの引用であると同時に、イエス自身の歩みの象徴でもある。

「捨てられた石」──それは、人々に見限られ、価値がないと判断され、拒まれ、除外された存在を指している。しかし、神はその石を、新しい建物の土台となる「隅の親石」に据えられる。ここには、人間の価値判断を根底から覆す、神の計画の鮮やかな転回がある。

この譬えが語られた背景には、イエスに対して敵意を募らせていた宗教的エリートたちの存在がある。彼らは律法を熟知し、儀式を守り、民衆からの尊敬を集めていた。にもかかわらず、神の言葉が肉となって現れたイエスを、彼らは理解しなかった。いや、それどころか、脅威として恐れ、排除しようとさえした。まさにその只中で、イエスは「捨てられる石」としての自らの使命を語る。自らが見捨てられ、排斥されることを知りながら、神はその「石」をもって新しい共同体の礎を据えようとしているのだ。

ここには、計り知れないほど深い逆転の論理が働いている。人間の目には価値がないとされたものが、神の視点では最も重要な礎とされる。神の国とは、敗者や痛みを受けた者、疎外された者たちのうちに築かれていくものなのである。イエスが担った苦しみや拒絶、そして十字架の死は、敗北ではない。それは神が選び取った救いの道であり、回復と希望への扉である。

「この石の上に落ちる者は砕け散り、この石が落ちかかれば、その人を粉々に砕くであろう」(ルカ20:18)。
この一節は、どこか不穏な響きを持っているかもしれない。しかし、この砕かれるというイメージは、ただの裁きを意味しない。それはむしろ、再創造のための砕けなのである。自らの傲慢が砕かれ、偽りの自己像が崩れ去ったとき、初めて人は、神の真実に立つ新たな存在として立ち上がることができる。砕かれることなくして、神の国の民となることはできないのだ。

では、この譬えは現代を生きるわたしたちにとって、どのような問いを投げかけているのだろうか。
わたしたちは日々、何を「捨てられた石」として遠ざけているだろう。社会の規範に馴染めない者、制度に苦しむ者、声を上げる少数者、信仰に違和感を覚える者、あるいは貧困に沈む者たち…。そのような人々の中にこそ、神の声が響いているのではないか。もし教会が彼らの声を聴かず、沈黙を強いてしまっているなら、教会自身が「隅の親石」を見失ってしまっているのではないか。

大斎節は、自らが砕かれることを恐れずに、神の前に立ち返る時である。「捨てられた石」のうちにこそ築かれる神の国に、わたしたち自身が本当に参与しているのか──今、この問いが一人ひとりに投げかけられている。

次章では、この問いを軸に据えながら、大斎節第五主日という教会暦の意味と重ねて、すべての章の基調となる神の召命へと、読者を導いていく。

終章 殺された跡に立ち尽くす者たちへ

ぶどう園の譬えは、容赦なく幕を下ろす。跡取りは殺され、ぶどう園は奪われる。ルカによる福音書は、語りを締めくくる余白をほとんど与えず、ただ人々の叫び──「そんなことがあってはなりません!」(ルカ20:16)という抗議の声──を記す。だが、イエスはその叫びに同意しない。むしろ、「では、家を建てる者の捨てた石が隅の親石になったとは、どういう意味か」と問いを投げ返す。

わたしたちは、この譬えの「その後」に生きている者たちだ。ぶどう園の外で殺された「跡取り」の死を見つめ、その死の痕跡に沈黙する者たちである。世界は今も、あの殺された者の血の上に積み重ねられている。イエスは殺された。しかし、その死が空虚でなかったことを、復活という出来事が物語っている。そして、その復活を信じる者は、もはやただ沈黙に立ち尽くすだけの存在ではない。捨てられた石が、共同体の基礎として据えられるという、あの逆転の物語に参与する者となる。

では、わたしたちにできることとは何か。わたしたちは、かつて農夫たちがそうであったように、神の声を拒み、神の子を遠ざけた者の系譜に連なっている。それを否定することはできない。けれど、それと同時に、「それでもなお語りかけられる希望」の継承者でもある。拒み続けてきた歴史を正面から見据えつつ、その裂け目から始まる新しい関係の回復と赦しを信じて歩む者──それが、大斎節のただ中を生きる信仰者の姿ではないだろうか。

悔い改めとは、過去をなかったことにする営みではない。それは、傷ついた歴史を直視しながら、そこに未来への扉をこじ開けようとする行為だ。殺された者の名を呼び、沈められた声に耳を澄まし、顧みられなかった石に跪く。そのような霊的姿勢こそが、復活の光へと至る歩みの始まりとなる。わたしたちは、隅の親石とされた主イエス・キリストの上にこそ、自らの共同体の礎を据え直す必要がある。

この大斎節が、わたしたちにとって単なる内省や感傷で終わるものではなく、砕かれた現実を受けとめつつ、そのただ中に差し込む復活の光を見出す旅路となることを、心から願っている。語り尽くされた言葉の向こうに、まだ沈黙のうちに響いている神の声がある。その声を聞き取る者として、大斎節の終わりに身を置きたい。

大斎節第四主日 ▼ 二〇二五年三月三十日 説教——赦しの帰郷、和解の福音

【教会暦】
大斎節 第四主日 二〇二五年三月三十日

【聖書箇所】
旧約日課:ヨシュア記 第四章一九節~二四節、第五章九節~一二節
使徒書:コリントの信徒への手紙二 第五章一七節~二一節
福音書:ルカによる福音書 第一五章一一節~三二節

【第一章】
《放蕩の帰還、赦しの神秘への序曲》

大斎節は、教会暦の中でとりわけ深遠な霊的内省を求める季節である。復活祭へと向かうこの時節において、私たち信仰者は神との関係を再確認し、自らの内面にある罪や弱さと真摯に向き合うことを促される。特に、大斎節第4主日は伝統的に「喜びの主日」(Laetare Sunday)とも呼ばれ、悔い改めの重苦しさの中にも赦しと希望の喜びを垣間見る日とされる。この主日の典礼は、大斎節の真ん中を過ぎ、キリストの復活の光がすでにほのかに差し込んでいることを示唆している。
この日に私たちに与えられる福音書の日課は、ルカによる福音書の「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)である。この物語はおそらく、キリスト教が持つあらゆる比喩や寓話の中で、最も広く知られ、また最も人々の心を強く打つものである。その理由は、このたとえが単なる道徳的教訓を超え、人間存在の最も深いところに触れる真理を明確に示しているからであろう。それは罪と赦し、喪失と再生という人間の普遍的経験を映し出す、永遠の物語である。
しかし、このたとえをあまりにも単純な「放蕩と帰還」のストーリーとして解釈することは、その真の意義を見落とすことになるだろう。この物語は単に過ちを犯した息子が赦されるという話ではなく、神の赦しの神秘と、人間がその赦しの中でどのように新しくされるかという、壮大な神学的テーマを秘めている。父のもとに帰った息子の姿は、単なる悔い改めの象徴ではなく、人間が神の圧倒的な恵みによって霊的に新たな存在として再創造されるという劇的なプロセスを象徴しているのである。
本説教において、私たちはこの物語を次のように深く掘り下げる。第二章では弟息子の自由とその裏に潜む真の喪失を考察し、第三章では極限の苦難の中で起こる悔い改めの霊的意義を探求する。第四章では父の赦しという神の奔放な恵みを描き、第五章では兄息子の姿を通じて「義の罠」という精神的課題を浮き彫りにする。そして、第六章では、コリント書の使徒パウロが語る「新たに造られた者」の神学的・実践的意義を明らかにしていく。
私たちは、この大斎節第4主日において、「赦し」という言葉を再び新鮮な心で受け取ることが求められている。それは単なる言葉ではなく、人生を根本的に作り変える力であり、神と人間、人間同士を深く結びつける絆なのである。本説教を通じて、放蕩息子の物語が私たち自身の信仰生活にどのような光を投げかけるのかを深く掘り下げ、神の赦しという神秘への序曲として、この第一章を始めることとする。

【第二章】
《家出の自由、喪失の代償》

ルカによる福音書が描く放蕩息子の物語は、単なる教訓譚として語られるにはあまりに鮮烈で、あまりに痛切である。この弟息子は父のもとを去るにあたり、財産を分け与えられるとすぐに旅立つ。実に軽やかな足取りで父の家から遠ざかっていく若者の背に映るものは何か。それは一見、自由への希求であり、未踏の地への憧憬であり、何にも縛られない新たな人生への期待であったに違いない。

しかし、この一見爽やかな出発の背後には、父の家――すなわち神との関係性――からの意識的な離反が横たわっていることを見落としてはならない。弟息子が父に求めたものは、自らがいずれ継ぐであろうはずの財産であったが、彼はあえてそれを「今ここで」求めたのである。父が生きているうちに財産の分与を願うという行為は、古代ユダヤ社会においては、父の存在自体を否定するに等しい無礼であり、極めて挑戦的であった。

弟息子は、この冒険的な離脱によって、自由を手にしたと確信しただろう。だが、それは本当に自由だったのだろうか。そもそも彼の願った自由とは何だったのだろうか。ここには深い神学的命題が隠されている。すなわち、人間が神から離れようとするとき、その動機は往々にして自己の意志への盲目的な信頼と自己中心的な欲望に基づくものであるということである。聖書の物語に描かれた弟息子の姿は、実はすべての人間の原初的な罪――自己の限界を否認し、自分が自分自身の主人であると錯覚する罪――の象徴でもある。

弟息子は、遠い異郷で「放蕩の限りを尽くして」全財産を使い果たす。放蕩とは、単に道徳的逸脱を意味するだけではない。それはむしろ、存在そのものを浪費することであり、与えられた神の恵みを無為に消尽することである。この放蕩によって彼はやがて全てを失う。だが財産の喪失以上に深刻なのは、自身の尊厳と霊的な価値の喪失であった。この霊的喪失こそ、神との関係を自ら断ち切った代償として、彼が背負わねばならない最も深い喪失であったのだ。

現代社会に生きる私たちもまた、この弟息子と無関係ではない。多くの人が、伝統や共同体、そして神との関係性を抑圧的であると感じ、そこから離れようとする時代である。確かに個々の人間には、自己の生き方を選択する自由がある。しかし、自由を自分勝手に定義し、神や隣人との関係性を無視してしまえば、その行き着く先には真の孤独と喪失しか待っていない。

この弟息子の姿を、私たちは鏡として見る必要がある。自由を求めることは人間として自然であり、決して悪ではない。しかし、その自由が神との関係性を断絶させるものであれば、それは真の意味での自由ではなく、自滅への道でしかない。神との関係の中においてこそ、人間の自由は本当の意味を持つ。なぜなら、真の自由とは神とともに在る自由だからである。

それゆえ弟息子の家出は、自由の獲得どころか深刻な喪失をもたらすことになった。次章では、この喪失のどん底で彼がどのように自己と対峙し、悔い改めの道を歩み始めるのかを深く掘り下げることにする。

【第三章】
《遠い異国での目覚め、痛みと悔悛》

放蕩息子はすべてを失い、「遠い異国」において飢饉に見舞われ、豚の世話をするまでに身を落とした。ユダヤの民にとって豚とは不浄な動物であり、その世話をするということは、単に経済的に窮したというだけではない。自己の尊厳が、精神的にも宗教的にも、徹底的に破壊されてしまったということを意味する。ここで彼は、生きるためには豚の食べる「いなご豆」でさえ食したいと願った。しかしそれさえも与えられず、飢えの極限に追いやられる。

この苛酷な現実が息子の目を覚まさせる契機となる。だが、この覚醒は単なる後悔や表面的な反省とは質的に異なる。それは、自己存在の根源を直視し、自己欺瞞という幻影から目覚めることである。このとき彼が真に気づいたのは、彼が失ったのは財産でも自由でもなく、自分を存在させていた根源的な関係性そのものであったという真実である。

彼は言う。「父のところでは、雇われている人でさえ食べ物に不足していない。だが私はここで飢え死にしそうだ。」(ルカ15:17)これは自己への率直な問いかけであり、彼が自身の置かれた状況を客観視した最初の瞬間である。この「自問」の始まりは、すなわち彼が自己と向き合い、自己の限界と弱さを認めることを意味している。この瞬間に至るまで、彼は自己の欲望を追求する自由だけを見つめていたが、この自問を通じて初めて自己の実存的空虚を発見したのである。

この状況は、実は神学的にも深い意義を孕んでいる。人間が神から離れて自己中心的に生きる限り、その魂はやがて根源的な飢餓と虚無感に襲われる。この飢えこそが、まさに神への渇きである。息子が覚醒した飢えは、彼が切り離したはずの「父」への飢え、すなわち神との関係の回復を希求する魂の叫びにほかならない。この叫びこそが真の悔い改めをもたらす動力となる。

放蕩息子は続けて言う。「立って父のところへ帰り、こう言おう。『お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」(ルカ15:18-19)この言葉に現れる悔い改めは、単なる後悔や罪悪感の域を遥かに超えている。それは、自らがもはや自己を支えることのできない存在であると認識し、根源的な愛に立ち戻る意志の表明である。この「父への帰還」は、神学的に見れば、人間が神への依存という本来の自己理解へと戻る決定的な転換点を意味する。

現代に生きる我々もまた、息子のこの姿に自己の真実を見いだす。現代社会は「自己実現」や「自己啓発」を強調し、自力で生きることを美徳として称える。しかしその背後に隠された実態は、終わりのない虚無感や自己喪失という現代的な「遠い異国」である。この「異国」において私たちは初めて、本当の自己、神との真の関係を切望する存在であることを発見するのである。

放蕩息子の物語が示すのは、自己破滅の淵に立って初めて、人間は真実の自己を知り、神への道を見出すという逆説である。苦しみや痛み、そして自己嫌悪という「負の体験」を通じてのみ、私たちは自己の限界性と神への依存性を認識するのである。それは悔悛という深い霊的な変容であり、再び神の元へ戻るための道を拓く。

次章では、この悔い改めの道を歩み出した息子を迎える父の姿を通して、神の赦しの本質を見ていくことにする。

【第四章】
《父の眼差し、赦しの奔流》

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、駆け寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15:20)――この一文に凝縮された父の姿は、単に美しい情景として描かれているに留まらない。それは神が人間に向ける眼差しそのものを象徴している。息子が自らの犯した過ちを言い終えるより前に、いや、それを語り始めることすら許さずに、父は奔放な赦しの奔流を息子の上に注ぎ込むのである。

この父の行動は、当時の文化的文脈では極めて異例であり、むしろ衝撃的であった。年長者が若い者に駆け寄るということ自体が、当時のユダヤ社会の伝統に反している。にもかかわらず、この父は自らの威厳を顧みず、ただひたすら息子への愛と憐れみに駆り立てられて疾走したのだ。ここには、まさしく神の赦しの本質が描かれている。神は人間が自分のもとに戻るのを、静かに座して待つのではなく、自らその存在を投げ打って、人間を追い求め、迎えに出るのだ。

さらに注目すべきは、この父の眼差しである。父は「まだ遠く離れていた息子」を見つけた。つまり、この父の眼差しは日々地平線を見つめ、息子が帰ってくることを絶えず望み続けていた眼差しなのである。その眼差しは裁きや非難ではなく、ただ憐れみと愛に満ちている。ここには人間の罪を裁くことよりも、人間を赦すことを切望する神の心が明確に表現されている。

父は息子を抱きしめ、接吻するという行為を通して、彼の罪を赦し、存在そのものを回復させている。これは単に息子を許したということを超えている。それは息子が失った尊厳を回復させ、新しい人間としてもう一度受け入れるという、深い霊的和解の象徴である。だから父は即座に僕たちにこう命じる。「いちばん良い服を出してこの子に着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせなさい。」(ルカ15:22)服や指輪、履物は単なる物質的な品々ではない。それらは息子が父の子としての身分を再び得たことの象徴であり、罪の赦しと霊的再生の具体的なしるしである。

神学的に深く掘り下げるならば、この父の赦しの行為は、神の恵みがいかに先行的かつ無条件なものであるかを示している。人間が真に悔い改めることが可能なのは、まず神の赦しが私たちの心に届いているからに他ならない。神の赦しは人間の行動や言葉によって獲得されるものではなく、むしろ私たちの悔い改めの出発点そのものなのである。私たちはこの神の赦しという奔流に身を浸して初めて、自らの罪を直視し、新しい道を歩む勇気を与えられる。

現代の私たちにとって、この神の赦しの物語は実に挑戦的である。現代社会はしばしば「赦し」を軽視し、自己責任や正義の名のもとに、他者への容赦のない裁きを正当化する。しかしキリスト教信仰はこのような論理を根底から覆す。キリスト教信仰においては、真の正義とは裁きや報復ではなく、和解と回復をもたらす赦しの中にのみ成就するものだからである。私たちが赦し合いを拒否するならば、神との真の和解もまた閉ざされる。

だからこそ、この父の姿――赦しに満ちた神の眼差し――は私たちの信仰生活の原点であり、私たちが追い求めるべき理想の姿となるのだ。次章では、これとは対照的な兄息子の存在を取り上げ、私たちが陥りがちな精神的な落とし穴について論じることにする。

【第五章】
《兄という存在、義の罠》

父と弟の再会に、物語は感動的なピークを迎える。だが、ルカ福音書の鋭さは、感動的な和解で物語を安易に終わらせないところにある。放蕩息子の帰還を祝う宴の音を遠くに聞きつけた兄息子が家に近づく場面へと、物語は転調する。この兄息子こそ、私たちが見落としてはならない、もうひとりの重要人物である。なぜなら彼は、私たちが自己の義に陥る危険性、すなわち「義の罠」に絡めとられる精神的現実を鮮やかに映し出す存在だからである。

兄息子は父のもとで「忠実に」仕え、父の戒めに背いたことがないと自負している。「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、私には友だちと楽しめと言って子山羊一匹さえくださらなかったではありませんか。」(ルカ15:29)彼は自分の義務を果たしてきた自負心と、それに対する報酬や評価を求める思いに囚われている。この兄の苦悩は道徳的で忠実な人間が直面する「義の罠」そのものだ。

ここで注意すべきは、兄の怒りや失望が決して不当な感情ではないという点である。むしろ極めて自然で、人間的でさえある。しかし、その自然で人間的な怒りの背後には、危険な霊的落とし穴が隠されている。兄は弟に注がれた父の赦しを理解できない。なぜなら兄の心は、「功績」や「義務」の世界観に固く閉じられており、「赦し」とは人間が獲得すべき報酬ではないという真理が見えなくなっているからである。

この兄の心理状態は、教会共同体に属する私たちが特に注意しなければならないものである。私たちは信仰生活を送るなかで、自らの行動や献身、義務や規律への忠実さに意識を集中するあまり、「正しさ」という自らの基準に固執し、他者の弱さや過ちに対して狭量になりかねない。その結果、神の赦しという寛大な恵みの現実を見失い、自らが赦しを必要としている存在であることを忘れてしまう。兄息子は、こうした私たち自身の内面の危険を映し出す存在である。

父はその兄に対して穏やかに語りかける。「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」(ルカ15:31)この言葉に秘められた真意は深い。父が示しているのは、兄もまた、父の赦しと愛の中に常に生きているということである。兄はこの事実を当然の権利や義務の履行として捉えていたために、父の愛の無償性や赦しの深遠さに気づくことができなかった。兄の悲劇は、愛を報酬や功績の枠組みで捉えることによって、愛そのものの喜びを味わえなかったところにある。

ここに、信仰における「義」の本質的なパラドックスがある。自分自身の義に固執する者ほど、実は神との真の交わりから遠ざかる傾向にある。自己の功績や正しさを意識するあまり、恵みの本質――無条件で無償な神の赦し――を見落としてしまうのである。真の義とは自分の義を手放し、ただ神の赦しと愛を感謝のうちに受け入れることにあるのだ。

ルカ福音書が兄息子を通して問いかけるのは、私たちが日常生活や信仰生活において自らの義や正しさに拘泥し、赦しや和解に対して冷淡になってはいないかという鋭い問いである。父の赦しという喜びに入るためには、自らの義を手放し、赦しという神の愛に自己を明け渡す必要があるのだ。

次章では、こうした自己の義を超えて、「新たに造られた者」として生きるという、キリスト教的な和解の深層を探っていくことにする。

【第六章】
《新たに造られた者、和解の福音》

使徒パウロはコリントの信徒に対してこう記している。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者である。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二 5:17)ここにはキリスト教の最も大胆で、また最も革新的な主張が鮮やかに提示されている。人間はキリストにおいて「新たに造られる」というのである。この「新しく造られた者」という概念は、単に個人の霊的な刷新にとどまらない。それは、神や他者との根源的な和解を含んだ存在の全面的な変容を示唆している。

放蕩息子の物語は、このパウロの言葉と密接な関連を持っている。弟息子は父の赦しを通じて、文字通り新たに造り変えられた者となった。彼は単に父のもとに帰ったのではない。むしろ、彼は父との関係性の中で新しく生まれ変わり、以前とはまったく異なる存在として再び息づき始めたのだ。父が息子に新しい服を着せ、指輪を与え、宴を催したという行動は、まさにこの霊的再創造を具体的に示す象徴的行為である。

ここにあるのは、人間が神との関係の修復を経験することによって、真の自己理解を回復し、存在の本質的な再構築がもたらされるという福音のメッセージである。私たちが新しく造られるということは、自分がこれまで背負ってきた罪や過去の重荷がもはや自分の本質を規定しないという自由を得ることである。神の赦しは単に罪を帳消しにするというだけでなく、人間をまったく新しい存在へと変貌させる驚くべき力を持つのである。

パウロはさらに続けてこう述べる。「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちにお授けになった。」(コリント二 5:18)和解とは、神との関係回復を意味するばかりか、人間同士の関係修復も含む。キリスト者は、自らが神との和解によって新しく造られた者として、今度はその和解を世界に向けて広げていく使命を与えられているのである。放蕩息子の父が兄弟の和解を切に願ったように、私たちにもまた、自己の内なる兄弟、すなわち周囲の他者との和解を積極的に実践する使命が託されているのだ。

現代社会を見渡すとき、私たちがこの和解の福音をどれほど切実に必要としているかが分かる。世界中で分断と敵意、無関心や排除が蔓延し、人間同士の関係性が断絶し、破綻する事態が日常化している。こうした状況の中で、教会が提供すべきものは、この世の価値観を超える、赦しと和解によって築かれる新たな関係性のモデルである。和解の福音は、この世界の分裂を癒し、憎しみの連鎖を断ち切る唯一の力なのである。

和解の実現には、勇気が必要である。なぜなら、それは自らの正しさや義を主張することを放棄し、自分の過ちや弱さを認め、他者との新たな関係性を築くことを意味するからだ。しかし、その勇気を可能にするのがまさにキリストによって示された神の赦しである。私たちが他者を赦すことができるのは、まず自分自身が神によって赦され、和解された存在であるからに他ならない。

こうして放蕩息子の物語は、私たち自身の信仰の核心を照らす。人は皆、「新たに造られた者」として神に迎え入れられ、世界に向けて和解の福音を携えて送り出される。私たち一人ひとりが神との和解を体験し、その和解を周囲に広げていくならば、この世界は今とはまったく異なる新しい地平を迎えるであろう。

次章(エピローグ)では、私たちがこの和解の道を日常生活の中でどのように具体的に生きるべきかを深く考察し、大斎節における実践的意味を再確認して説教を締めくくることにする。

【第七章】
《和解への道程、私たちの大斎節》

大斎節の意味とは何か。それは単なる儀礼的習慣や季節的義務ではない。むしろそれは、自らの内面を深く見つめ、神との本来あるべき関係を回復する霊的な旅路である。私たちは放蕩息子の物語を通して、自分自身がどのように父なる神のもとを離れ、またどのように再びそこへと帰ることができるのかを、鮮烈に追体験した。
息子の放蕩と帰還、その赦しをめぐるドラマは、決して私たち自身と無関係な過去の逸話ではない。それはまさに私たち一人ひとりの内なる物語であり、現在進行形の信仰の現実なのである。弟息子のように自由という名の自己欺瞞の中で道を見失うこともあれば、兄息子のように自己の義に固執して他者を赦せないという葛藤にも苦しむ。私たちが抱えるこのような霊的課題こそが、大斎節という季節が私たちに問いかけているものである。
和解とは、決して容易いものではない。それは自らの弱さと直面し、自己の義を手放し、神の恵みに自己を委ねるという深い決断を要するからである。しかし、私たちはこの和解という道を避けて通ることはできない。なぜなら、この和解こそが神との真の交わりをもたらし、また人間同士の真の交わりを築き直す唯一の道であるからだ。
具体的には、私たちの日常の中でこの和解をどのように実践することができるだろうか。例えば、赦すことが難しいと感じる相手に対して、まずは祈りを捧げてみることがその始まりであろう。自分自身の内にある自己中心性や無理解を率直に認め、神の前にそれを差し出すことによって、心の内に赦しの可能性が芽生える。こうした小さな歩みこそ、和解への道を拓く具体的な一歩となる。
さらに、私たちが赦しと和解の生きた証し人となることが求められる。私たちは神に赦されている者として、周囲の世界に対して和解の使者となる使命を担っている。家庭や職場、教会の共同体の中で赦しと受容を実践することにより、分断と排除ではなく、真の平和と連帯を築き上げるための礎となるのだ。
この大斎節がもたらす霊的な成長と新たな自己理解を通じて、私たちはまさにパウロが語ったように、「新たに造られた者」として生きるよう招かれている。過去の罪や失敗はもはや私たちを縛るものではない。むしろ、それらを神の赦しの恵みの中で超克し、前進するための力となるのである。
私たちの大斎節の道程は、ここで終わりを迎えるわけではない。むしろここから、復活祭へと向かう希望の旅路が再び始まるのだ。神の赦しと和解を受け取った私たちは、その新しい生命を生きることで、世界に福音を証しする存在となるよう促されている。この希望に満ちた使命を胸に、喜びをもって日々を歩み始めようではないか。
この説教を通して私たちが真に目指すべきもの、それは神との和解であり、その和解の恵みを世界に広げることにほかならない。この大斎節が私たち一人ひとりにとって、赦しと和解という神の恵みを深く実感する特別な季節となることを祈念して、本説教の結びとしたい。

大斎節第三主日 二〇二五年三月二十三日 ▼ 説教——悔い改めの時、赦しの猶予

▼ 説教——悔い改めの時、赦しの猶予

【教会暦】
大斎節第三主日 二〇二五年三月二十三日

【聖書箇所】
旧約日課:出エジプト記 三章一節~十五節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 十章一節~十三節
福音書:ルカによる福音書 十三章一節~九節

【第一章】(プロローグ)
〈悔い改めと再生——霊的な旅の出発〉

大斎節は、復活祭に向けた霊的な旅路の季節である。この期間、私たちは日常の喧騒から一歩退き、自らの内面を静かに見つめ直すよう招かれている。特に大斎節第三主日は、悔い改めとその具体的な実践を強調する重要な主日である。今日私たちが耳にする福音書は、ルカによる福音書第十三章の「実を結ばないいちじくの木のたとえ」であり、この物語が説教全体の主題を深く導くことになる。

私たちは人生の中でしばしば立ち止まり、自分がどのような実を結んでいるかを問い直すことが求められる。実を結ばない木が切り倒されようとしている緊張感あふれる描写は、単に裁きや恐怖を意識させるだけではない。それはむしろ、神が私たちに与えられた猶予という恩寵の時を、どのように生きるかという問いを真摯に受け止めるよう促しているのである。

本説教では、この悔い改めというテーマを、災害や不条理といった人間が直面する深刻な現実と関連付けながら考察することにしたい。第二章では、不条理な災害に遭遇した際に人間が抱く問いを取り上げ、第三章ではいちじくの木のたとえを通じて神が与える猶予された時について掘り下げる。そして第四章では、モーセが燃える柴の前で経験した神との出会いを通じて、召命と悔い改めの関係を見つめ直し、第五章ではパウロが語る試練と誘惑への神の備えを探究する。さらに第六章では、私たちの日常生活における具体的な悔い改めの実の結び方を提言する。

私たちはこの大斎節第三主日において、自らの霊的な旅路を改めて深く意識し、その中で神が私たちに何を望んでおられるかを見極めることが必要である。悔い改めとは単なる自己否定ではなく、自分自身をより深く知り、神との真の交わりを回復するための肯定的な行為である。私たちのこの霊的な旅路が悔い改めを通じて、新たな自己理解と霊的再生へと至る出発点となるよう願いつつ、本説教を始めることとする。

【第二章】
〈不条理な災禍、人間の問い〉

ルカによる福音書第十三章一節から五節において、イエスのもとにガリラヤ人の悲劇的な死について知らせが届く。ピラトが彼らの血を犠牲の動物の血と混ぜるという凄惨な出来事は、当時のユダヤ社会において衝撃をもって受け止められたに違いない。それは単なる偶発的悲劇にとどまらず、神学的・政治的意味を伴って人々の心を揺さぶった事件であった。

ここで注目すべきは、人々がイエスに対して示した反応である。彼らは、こうした惨劇に遭った人々が「他の人よりも罪深かったから」その運命を受けたのではないかという、当時の一般的な因果応報的世界観に基づいた解釈を示唆している。つまり、悲劇や災害に見舞われることは、その人自身の罪深さの結果であるという考え方だ。この因果応報の論理は単純で分かりやすく、ある意味では人々に心理的な安心感を与えさえする。なぜなら、それは自分が災禍を免れている理由を、自らの道徳的優位性に帰結させることが可能だからである。

だが、イエスはこうした浅薄な道徳的論理を徹底して否定する。「あのガリラヤ人たちが、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人より罪深い人だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:2-3)ここでのイエスの言葉は鋭く、また深遠である。イエスは人間の苦難を単純な罪と罰という図式に閉じ込めることを拒絶し、むしろ人間存在の根本的な実存的課題へと私たちを導いている。

さらにイエスは、エルサレムのシロアムの塔が倒壊し、十八人が亡くなった別の惨事を例に挙げる。このような不条理な事故や災難は、現代においても私たちが日常的に直面する出来事である。地震、津波、事故や病気など、理不尽な苦難は人間の歴史を通じて絶えることなく起こり続けている。私たち人間は、しばしば「なぜ自分が?」と問い、「なぜ善良な人々が?」と叫ぶ。これは人間が普遍的に抱える神学的かつ実存的問いであり、決して軽んじることはできない問題である。

しかし、ここでイエスが求めているのは、苦難の理由を外面的な道徳的尺度で判断することではなく、苦難という現実を直視することで自らの内なる真実を深く見つめ直すことである。イエスの「悔い改めよ」という呼びかけは、この文脈において、人生の根源的問いかけとして私たちに突きつけられている。苦難の前に立つとき、私たちはその出来事を神の裁きや報いとしてではなく、自己の存在そのものを深く問い直す契機として受け止めるよう求められているのである。

私たちが災禍や不条理に遭遇した際、それを単純な因果論に閉じ込めるのではなく、悔い改めと新しい人生への霊的な召命として理解することこそが、イエスの言葉が持つ神学的核心なのである。

次章では、この問いをさらに深めるために、イエスが語った「いちじくの木のたとえ」を掘り下げ、神が人間に与える「猶予の時」とは何かを考察していく。

【第三章】
〈いちじくの木のたとえ——猶予された時〉

イエスは続けて一つのたとえを語る。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておいたが、実を探しに来ても見つからなかった。園丁に言った。『もう三年もこのいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つからない。切り倒せ。なぜ土地を無駄に使わせるのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。そうすれば来年は実を結ぶかもしれません。もしそれでも駄目なら、切り倒してください。』」(ルカ13:6-9)

このたとえは一見単純でありながら、その背後には深い神学的真実が隠されている。ここに示されているのは、神が私たち人間に対して示す驚くべき忍耐と慈悲、そして悔い改めのために与えられた猶予期間である。「いちじくの木」は聖書の伝統においてしばしばイスラエルの民、さらには信仰者ひとりひとりを象徴している。三年間も実を結ばないというのは、人間の頑なさや不実さを象徴し、それに対して園丁が懇願する「今年も待つ」という言葉は、神の忍耐深い慈愛の表現として理解される。

ここで特に心を打つのは、「切り倒せ」という主人の厳しい言葉と、「もう一年待ってください」という園丁の慈悲に満ちた訴えの対比である。この緊張感のある対話は、神の義と神の憐れみという二つの属性が絶妙なバランスを保ちながら人間に関わっていることを示唆している。神の義は、実を結ばない人間に対して当然の裁きを求めるが、同時に神の憐れみは人間に対して、変化と成長、悔い改めの機会を提供しようとする。

「猶予された時」、それはまさに恩寵の期間であり、人間が真剣に自らの内面を見つめ直し、自己改革を果たすための貴重な時間である。いちじくの木がもう一年間猶予を与えられるのは、園丁が愛情を込めてその周囲を掘り起こし、肥料を与えようと決意したからに他ならない。この行動は、神が私たちの人生に介入し、私たちを霊的に成長させるために働きかけていることを象徴する。私たちに与えられた人生の時間が、この「もう一年」に相当する猶予の時であることを忘れてはならない。

大斎節は特にこのような「猶予の時」を意識する季節である。この時期に私たちは自分の人生を深く吟味し、どれほど実を結んでいるか、あるいは結んでいないかを正直に見つめ直すことを促されている。だが、この吟味の背後にあるのは単なる恐れや裁きの意識ではなく、私たちが悔い改め、新たな実を結ぶことを心から望む神の深い慈悲と期待である。

このたとえが私たちに投げかける最も鋭い問いかけは、私たちが神から与えられた猶予の時をいかに用いているのか、ということである。私たちはその時間を自己中心的な欲望のために浪費しているのだろうか、それとも深い悔い改めと霊的な再生に向けて活用しているのだろうか。

次章では、この猶予された恩寵の時において、神がどのように私たちに語りかけ、具体的な召命を与えるのかを、旧約のモーセの召命の物語を通じて深く掘り下げる。

【第四章】
〈モーセの召命——燃える柴と神の現存〉

出エジプト記第三章には、神がモーセを召命する場面が鮮烈に描かれている。荒れ野の中、燃えているのに燃え尽きることのない不思議な柴を目にしたモーセは、「道をそれてこの不思議な光景を見届けよう」(出エジプト記3:3)と決意する。ここで描かれている燃える柴とは、単なる奇跡や超自然的現象ではなく、神の臨在そのものを象徴している。この出来事を通じて、モーセは神との直接的な対話の機会を得、その人生は決定的な変容を遂げることになる。

神はこの燃える柴の中からモーセを名指しで呼び、「ここに近づいてはいけない。あなたの立っている場所は聖なる土地である」(出エジプト記3:5)と告げる。神の臨在の前では、あらゆる場所が聖なる場所に変容することを示しているのである。神が臨在する場所は日常を超越し、そこに立つ人間の存在もまた本質的に問い直される。そのような聖なる場所でモーセは自らの使命を受け取るのだ。

ここでモーセが直面した神は、自らを「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)という謎めいた表現で明かしている。この言葉は神学的に極めて重要な意味をもつ。神は自らを特定の名前や属性に閉じ込めず、ただ存在そのものとして啓示しているのだ。この「わたしはある」という表現は、神があらゆる人間的概念を超え、あらゆる存在の根源であることを示している。つまり、神は過去や未来に制約されず、常に現在として私たちと共にあり続ける永遠の現存なのである。

モーセがこの永遠なる神の前に立ったとき、彼は自分がそれまで抱いていたすべての確信や自信を打ち砕かれ、自分自身の無力さを痛感する。だが、ここに召命の真の意味がある。神の召命は、人間が自分の能力や価値によって達成できる何かではなく、神の現存の力を通じてのみ実現される。モーセの召命が示しているのは、神が私たちを召し出すとき、私たちは自分の力ではなく、神の力によってその使命を果たす存在となるという真理である。

私たち自身の人生にも、このモーセの経験が照射されている。私たちもまた、日常生活という荒れ野を歩む中で、時に神の現存という燃える柴に直面することがある。それは深い内省の瞬間や祈りの中で起こるかもしれない。あるいは人生の苦難や試練の中で突然現れるかもしれない。だが重要なのは、私たちがその燃える柴の前に立ち止まり、「道をそれて見る」決意をすることである。神は私たちがその聖なる現存に気づき、自分の人生の真の目的を発見するための招きを絶えず与えているからだ。

次章では、神の現存に触れ、召命を受けた私たちが直面する試練と誘惑について、パウロの言葉を通してさらに考察を深めていく。

【第五章】
〈試練と脱出——パウロの語る誘惑と希望〉

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の十章において、人間が経験する試練と誘惑について鋭く洞察している。彼は旧約のイスラエルの民が経験した出来事を引き合いに出し、次のように語る。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずだ。神は真実な方であり、耐えられないほどの試練をあなたがたに負わせることはなさらない。むしろ、試練と共に、それに耐え抜く道をも備えてくださる」(一コリント10:13)。この言葉は、私たちが直面する試練の意味と、それを乗り越えるための神の約束を鮮やかに示している。

人間の生は、大小さまざまな試練に満ちている。私たちは時に、試練や誘惑に直面した際、自らの弱さや限界に圧倒され、絶望や諦めに陥りやすい。だがパウロは、そのようなときこそ神の真実さとその約束を見つめるよう私たちに呼びかけている。パウロが強調するのは、人間が試練にさらされること自体が問題なのではなく、むしろその試練に対してどのように応答するかが重要であるということだ。

旧約のイスラエルの民が荒れ野をさまよった経験は、まさしく人間が直面する試練の象徴である。彼らは神による奇跡的な解放を体験したにもかかわらず、荒れ野での試練に直面するとすぐに不平や疑念を抱き、偶像崇拝にさえ陥った。ここに示されているのは、人間が試練に直面したとき、その根底にある信仰の脆弱さや不安定さがあらわになるという現実である。

だが、パウロはこの現実を示した上で、人間に希望を提示する。神は人間が試練に耐えることができるよう、「脱出の道」を備えてくださるというのである。この「脱出の道」とは、単に苦難や試練からの物理的な解放を意味するものではない。むしろ、それは試練のただ中で神が共にいてくださるという確かな現存であり、私たちが試練を通して成長し、神に対する信頼を深めるために与えられる霊的な支援である。

ここで私たちは、前章で論じたモーセの召命との関連を見出すことができる。モーセもまた荒れ野で、召命の重圧という大きな試練に直面した。彼は自らの力の不足を強く感じ、自分にはできないと何度も神に訴えた。しかし、神がモーセに示したのは「わたしはある」という永遠の現存であった。この神の現存が、モーセにとって究極の「脱出の道」となり、彼は試練を乗り越えて使命を果たすことができたのである。

私たちも人生の試練の只中で、自分の弱さや不信を認めることから始める必要がある。その上で、神の現存という唯一の真の支えに目を向け、試練を通じて自らを深く成長させることを学ばねばならない。試練の意味とは、まさにそこにある。それは私たちが神との関係を深め、真の自己理解へと至るための重要な機会なのだ。

次章では、試練の中で神に依り頼みながら私たちがどのようにして具体的な「悔い改めの実」を結ぶことができるのか、その実践的な側面について深く考察していくこととする。

【第六章】
〈悔い改めの実を結ぶ人生〉

ルカ福音書で語られた「実を結ばないいちじくの木」のたとえに再び戻り、私たちは「悔い改めの実」とはいかなるものかを深く考えねばならない。イエスが繰り返し求める悔い改めとは、単なる道徳的改善や行動の修正以上のものである。それは人間の内面の根本的変容であり、その変容が生活の具体的な場面で結ぶ霊的な実こそが重要なのだ。

悔い改めとは第一に、自らの自己中心的な生活から離れ、神を中心とする新しい存在様式へと方向転換することである。実を結ばない木は、自らの根が養分を吸い取るだけで、その恵みを実りとして周囲に還元しない。それと同様に、人間が自己の欲望や利益のみを追求する限り、本当の意味での実りを結ぶことはない。イエスが語る悔い改めとは、この自己中心性を克服し、隣人や社会全体に対する責任と愛の行動に移ることである。

では具体的に、私たちの人生において悔い改めの実を結ぶとはどういうことだろうか。それはまず日常生活における謙虚さと寛容さに表れる。人間は往々にして自己の義や正しさを主張し、他者を裁きがちである。しかし悔い改めの本質は、自らの弱さを率直に認め、隣人への理解と共感を深めることである。これによって生まれるのは赦しと寛容の精神であり、他者との真の共同性を形成する基盤となる。

さらに悔い改めの実とは、他者への具体的な配慮や慈善、社会正義への積極的関与にも表れる。キリスト教信仰は決して内面的な信念に閉じこもることを許さず、その信仰を社会に向けて具体的な行動として表現することを求める。例えば、社会的不公正や貧困、差別という現実に対して沈黙せず、それらを克服するための具体的な取り組みに参加することは、まさに悔い改めの実を結ぶことの一例である。

また私たちは、自分自身が神の現存に触れた者として、常に祈りの中に生きることが求められる。祈りは単に何かを神に願うための手段ではなく、自らを神の現存に絶えず開き、その中で自己の内面を深めていくプロセスである。祈りの生活によって、私たちは常に自分自身を見つめ直し、日常のあらゆる場面で悔い改めの実を結ぶ準備を整えるのである。

私たちが日常生活の中で悔い改めを真摯に実践するならば、それはやがて私たち自身のみならず、家庭や地域社会、そしてさらに広い共同体全体に及ぶ霊的な実りをもたらすだろう。私たちが結ぶべき真の実とは、まさしくこの愛と正義と和解の具体的な行動である。

次章(エピローグ)では、大斎節という特別な霊的な期間を、私たちが具体的な行動を通して悔い改めの実を結ぶ契機としてどのように活用するかを確認し、説教全体を締めくくることにする。

【第七章】(エピローグ)
〈赦しと変容への旅路——私たちの大斎節〉

私たちは大斎節の旅路を通じて、悔い改めというテーマを深く掘り下げてきた。この旅路は単なる宗教的儀式や季節的な習慣に終わるものではない。むしろ、それは私たちが真の自己理解へと至り、神との関係を回復し、新しい生命へと変容される霊的な旅路である。

実を結ばないいちじくの木のたとえが私たちに教えるのは、神が与える猶予という恩寵の時を決して無駄にしてはならないということであった。神は私たちに対して驚くほど忍耐強く、その慈しみによって、私たちが悔い改め、真の霊的成長を遂げることを絶えず待ち望んでいる。その神の慈愛に応答するとは、私たち自身が具体的な愛と赦しの行動を通じて実を結ぶことにほかならない。

私たちはまた、モーセの召命と燃える柴の物語を通じて、自分の人生においても神の現存を感じ取り、神が私たちをそれぞれの場所で召しておられることを深く自覚する必要があることを学んだ。そして、パウロが示したように、私たちが経験するあらゆる試練は神の忠実さに支えられており、神は私たちがその試練を乗り越えるための脱出の道を備えてくださっていることも心に刻んだ。

大斎節の旅はここで終わりを迎えるのではない。むしろ、この旅路はここから復活祭へと向かう新たな霊的な歩みの始まりなのである。私たちは悔い改めを通じて古い自己を脱ぎ捨て、新しい自己へと日々生まれ変わっていくことが求められている。この変容のプロセスこそが真の意味での復活の体験であり、それはキリストの復活を記念する復活祭への最高の準備となる。

私たちがこの旅路の中で出会った霊的な問いかけや試練、神の召し、そして悔い改めを具体的に日常生活で実践していくことこそが、まさに私たちに与えられた召命である。この使命を胸に、日々の生活の中で実りある生を追求し続けようではないか。

この大斎節が私たち一人ひとりにとって、赦しと変容、そして新たな出発を心から体験する特別な期間となることを切に祈りつつ、本説教を締めくくることにする。

大斎節第2主日 2025年3月16日 教会時論 説教——「信仰の旅路—狭き門の向こうへ」

教会時論と説教においては、伝統に従い、丁寧語は用いない。改めてご理解願いたい。

▼ 教会時論

《未来を決する選択――責任ある歩みを求めて》

核兵器の拡散、原発事故の教訓、国家的プロジェクトの意義――これらの問題はすべて、私たちがどのような未来を築こうとしているのかを問うものだ。政治的・経済的な決定が、単なる一時的な選択ではなく、世代を超えて影響を及ぼすものであることを、私たちは十分に認識しているだろうか。

核禁条約会議における「抑止論の拒絶」は、単なる理想論ではなく、現実に即した警鐘である。核兵器を保持することが、かえって世界を不安定にし、拡散のリスクを高めることは歴史が示している。日本がそのメッセージに背を向け続けることは、唯一の被爆国としての責任を放棄するに等しい。

また、福島第一原発事故の無罪判決は、「想定外」という言葉を盾にして、企業の安全対策の不備を正当化する危険な前例を生んだ。裁判の結果はともかく、事故がもたらした現実――故郷を追われた人々、終わりの見えない除染作業、膨大な賠償と国民負担――は決して消え去るものではない。過去の悲劇を未来に繰り返させないためには、「予見可能性」をめぐる法的な議論を超えて、組織としての責任をどう問うかを真剣に考えなければならない。

さらに、大阪・関西万博は、「未来社会のデザイン」を掲げながらも、その計画の不透明さが露呈しつつある。莫大な公費が投入される一方で、その意義や成果は曖昧なままだ。私たちは、「一時的な賑わい」に惑わされることなく、国家的事業が本当に社会に価値をもたらすものかどうかを厳しく見極めるべきだ。

すべての選択には責任が伴う。そして、その責任を誰がどのように負うのかが、未来を決する。無関心は、誤った決定を許し、結果として私たち自身の生活を脅かすことになる。だからこそ、今この瞬間に、私たちは何を選び取るのかが問われている。

【核禁条約のメッセージ――「抑止」の罠を超えて】

〈「核のない世界」の現実性を問う〉

核兵器禁止条約(核禁条約)会議において、非核国の声が一層強調されたことは、単なる理想論ではなく、人類存続のための現実的課題として受け止めるべきだろう。「核抑止」という言葉は、冷戦以来の安全保障の枠組みの中で語られ続けてきたが、その前提は「相手が恐れるからこそ撃たない」というきわめて危ういバランスの上に成り立つ。核抑止論の本質は、「使う可能性がある」ことを示すことで成り立っている。その結果、「偶発的な核使用」「誤解によるエスカレーション」のリスクは常に排除できない。核兵器の使用は、それが意図的であれ偶発的であれ、人類に「破滅的な結果」をもたらす。今回の会議が改めて示したのは、この危機的な状況を「前提」とすること自体が誤りであるという指摘だった。

〈核抑止の拡大――安全保障の矛盾〉

会期中、フランスのマクロン大統領は自国の「核の傘」を欧州全体に広げる構想を示した。NATOの一部加盟国が核禁条約会議に不参加となった背景には、ウクライナ戦争や米国のNATO政策への不信感が影を落としている。フランスが欧州の「抑止力」を担うというのは、NATOの一体性が揺らぐ中での対応策だが、皮肉なことに、それは核兵器の存在意義をさらに強調する結果を招く。仮想敵とするロシアに比べ、フランスの核戦力は劣るが、それを拡大しようとすれば、さらなる核軍拡の誘発につながるだろう。欧州の核戦略は、これまでも「自衛のための最小限の抑止」とされてきたが、それが他国の防衛のために拡大されるならば、核兵器の役割は拡散し、結局のところ、核を持つことで安全を確保しようとする矛盾を際立たせる。

〈拡散の危機――アジアの現状と日本の責務〉

核拡散の懸念は欧州だけにとどまらない。アジアでは、北朝鮮の核開発が進み、韓国国内では核保有論がくすぶり続けている。日本においても、「核共有」や「核持ち込み」に関する議論が繰り返されている。だが、核兵器が存在する限り、その使用リスクは消えず、むしろ増大する。抑止が強調されるほど、それに対抗する新たな軍拡競争が始まる。まさにこの悪循環が、核禁条約の主張する「抑止論の拒絶」の本質である。世界は、核兵器の「使用される可能性」に依存するのではなく、その存在自体を否定する方向に舵を切るべきではないか。

日本政府は今回も核禁条約会議に参加しなかった。その決定がどのような外交的計算に基づくものであれ、唯一の戦争被爆国として果たすべき役割を放棄することは許されない。核兵器の不使用を確実にするために、核軍縮の実現と並行して、「核の傘」に頼らない安全保障の構築こそが、日本の進むべき道である。

【原発事故と「想定外」という責任放棄】

〈無罪判決が問いかけるもの〉

東京電力福島第一原発事故をめぐる刑事裁判で、旧経営陣の無罪が確定した。検察官役の指定弁護士が立証したのは、東電が2008年の時点で巨大津波を予見し得たこと、そして適切な対策を取らなかったことであった。しかし、最高裁は「予見可能性を認めることはできない」と結論づけた。これは、裁判所が「科学的予測の不確実性」を根拠に、企業側の責任を否定したことを意味する。

だが、ここで問われるべきは「予見可能性」の解釈ではない。原発は、ひとたび事故が起きれば、甚大な被害をもたらす。そのリスクを前提に、安全対策を講じるのが当然の責務である。「想定外だった」という言葉が責任回避の口実として機能するならば、それは原発という技術そのものの持つ危険性を再確認することに他ならない。

〈経営判断の本質――人命よりもコスト〉

福島第一原発事故は、「想定外の天災」ではなく、「想定すべきだった人災」だった。証言によれば、東電は長期評価に基づいて最大15メートル級の津波を想定していた。しかし、その対策は先送りされた。その背景には、コストがあった。防潮堤を整備するには数百億円の予算が必要だったが、それが経営上の負担として忌避されたのである。

旧経営陣の一人である元所長が「一番重要なのはお金」「最後は経営はお金」と語ったことは、企業文化の本質を象徴している。安全対策を後回しにし、リスク管理を軽視する姿勢が、原発事故の根本的な原因であった。このような経営判断が許容されるならば、同じ過ちが繰り返されることは避けられない。

〈組織の責任をどう問うか〉

刑事裁判では、個人の責任が焦点となるため、組織全体の責任を追及することが難しい。今回の無罪判決が、刑事責任の限界を示したことは間違いない。しかし、それで終わってはならない。組織としての安全管理体制が欠如していた場合、責任を問う枠組みが必要だ。企業の意思決定に対する法的責任を強化するために、組織罰の導入も検討すべきである。

民事裁判では、株主代表訴訟において「長期評価には相応の信頼性があり、津波は予見可能だった」との判断が下され、旧経営陣に13兆円の賠償命令が出た。この矛盾をどう捉えるべきか。民事と刑事の違いを超えて、社会全体として「企業の安全意識」を問い直す必要がある。

福島の事故は終わっていない。避難生活を強いられる人々は今も存在し、汚染水の問題も未解決のままだ。無罪判決によって「責任なし」として幕を引くのではなく、この判決を契機に、原発のリスク管理のあり方を根本から見直すべきではないか。

【万博――未来への投資か、それとも浪費か】

〈迫る開幕、広がる不安〉

大阪・関西万博の開幕まで1カ月を切った。しかし、その準備状況は理想とは程遠い。展示館の建設が遅れ、入場券の販売も目標に達していない。こうした混乱は、万博が「国家プロジェクト」であるにもかかわらず、計画性に欠けていたことを示している。

加えて、会場整備費は当初の1.9倍、2350億円に膨らみ、その3分の1を国が負担する。さらに、日本館建設や安全対策費などで追加の1000億円、インフラ整備費を含めると10兆円を超える支出が見込まれる。この膨大な予算は、果たして適切な未来への投資なのか、それとも無責任な浪費なのか。その答えは、万博の収支やレガシーの成否にかかっている。

〈「いのち輝く未来社会」――理想と現実の乖離〉

今回の万博は「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げている。日本館では「循環」をテーマに、廃棄物の再利用やエネルギー転換を象徴する展示が行われる。しかし、その一方で、「持続可能性」という理念とは裏腹に、開催後の施設の再利用計画は未定のものが多い。

特に世界最大の木造建築「大屋根リング」は、木材の需要低迷や輸送費の高騰の影響もあり、引き取り手が決まっていない。これでは「環境配慮」を謳う万博の理念が形骸化しかねない。また、統合型リゾート(IR)との関係性も指摘されており、「万博はIR整備のための布石だったのではないか」という疑念が拭えない。

〈公共事業の透明性と説明責任〉

万博の収支計画も不透明だ。入場料収入で運営費を賄う方針だが、販売状況が低迷している以上、赤字が発生する可能性は高い。問題は、その穴埋めを誰が負担するのかという点にある。公費負担が膨らむのであれば、政府・与党、そして開催を推進した日本維新の会には明確な説明責任が求められる。

さらに、安全面の課題も残る。工事中の会場では昨年ガス爆発事故が発生した。万博の開催には多くの来場者が見込まれるが、人工島・夢洲という立地の問題もあり、交通手段の不足や、災害時の避難計画などが十分に検討されているのか、疑問が残る。

〈未来に何を残すのか〉

万博は一時の賑わいだけで終わるべきではない。科学技術や文化芸術の発信、環境問題への意識喚起という観点から、未来への投資となることが理想である。しかし、現在の計画を見る限り、「浪費の祭典」となる可能性も否定できない。

「成功」とは何か。それは単なる入場者数や経済効果の問題ではない。終了後に何が残るのか、どのような価値を次世代に引き継げるのか。それを見極めるためにも、冷静な評価が必要である。

《プロローグ 歴史の転換点に立つ私たちへ》

私たちは、時代の大きな転換点に立っている。核兵器をめぐる国際的な緊張は高まり、原発事故の教訓が風化しつつあり、国家的プロジェクトの意義が問われる中で、未来を決する選択を迫られている。

この時代において、私たちは何を守り、何を変え、何を問い続けるべきなのか。それを考えることは、単に政治や経済の問題を超えて、社会の倫理と価値観に関わる課題である。核抑止を前提とする安全保障の在り方、巨大技術と企業責任の境界、公共事業に対する説明責任の欠如——いずれも、無関心のうちに容認されてはならないものだ。

教会の使命とは、時代の流れにただ従うことではなく、その根底にある倫理と正義を問い直すことである。聖書にはこう記されている。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、それを見いだす者は多い。しかし、命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書 7:13-14)

多くの人が流される大きな道の先にあるのは、破滅かもしれない。しかし、正しい道を探し求めることが、たとえ困難であろうとも、私たちに託された責務である。

今、私たちは歴史の転換点に立っている。未来を築くのは、一部の政治家でも、巨大な企業でもなく、この時代を生きる一人ひとりの決断にかかっている。だからこそ、教会は問い続けなければならない——この世界に、私たちはどのような希望を残すのか、と。

 

▼ 説教——「信仰の旅路—狭き門の向こうへ」

(教会暦)
大斎節第2主日

(聖書箇所)
旧約日課:創世記 15章1-12節、17-18節
使徒書:フィリピの信徒への手紙 3章17節-4章1節
福音書:ルカによる福音書 13章(22-30節)、31-35節

【信仰の旅路を歩む】

私たちは皆、それぞれの旅路を歩んでいる。信仰の旅は、平坦な道ではない。ときに疑い、ときに不安を抱きながら、それでも神の約束にすがり、一歩一歩前へと進む道のりである。

アブラハムは、星を仰ぎながら、目に見えぬ神の約束を信じた。彼にとって、それは現実の条件を超えた約束であり、理屈では説明できない信仰の決断であった。彼は長い間、子を持つことができなかった。それでも、神の言葉を信じ、その約束にすべてを委ねた。そして、神は彼の信仰を「義」と認められた(創世記15:6)。信仰とは、目に見えない未来に対して、神の語る言葉を信じることである。

パウロもまた、信仰の旅路の中で、人々に「わたしたちの本国は天にある」(フィリピ3:20)と語った。彼の生涯は、迫害と困難の連続であった。しかし、彼は「主に結ばれて堅く立ちなさい」(フィリピ4:1)とフィリピの信徒たちに励ましの言葉を送る。地上の価値観に流されることなく、神の国の市民として生きるようにと呼びかけるその姿勢は、今日の私たちにとっても重要な指針となる。

そして、イエスは、エルサレムへの道を歩まれた。彼は、人々の拒絶と迫害を知りながらも、その道を進む決意を固めていた。ファリサイ派の人々が「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と警告したとき、イエスは「わたしは今日も明日も、その次の日も、わたしの業を行い続ける」(ルカ13:32)と答えられた。彼にとって、その歩みを止めるという選択肢はなかった。なぜなら、彼の歩みは単なる個人的な使命ではなく、神の救いの計画そのものだったからである。

私たちもまた、自分のエルサレムへと向かっているのかもしれない。信仰の道は時に険しく、理解されないこともある。しかし、イエスのように、神の導きを信じ、恐れることなく歩む者でありたい。私たちが神の約束を信じて歩むとき、神は私たちを義と認め、その道を祝福してくださる。

「狭い門から入るよう努めなさい」(ルカ13:24)。イエスのこの言葉は、私たちに問いかける。私たちは、本当に神の国を求めているだろうか。楽な道ではなく、神の愛と正義のために歩む道を選び取ることができるだろうか。答えは、私たちの生き方に委ねられている。

アブラハムの信仰、パウロの確信、そしてイエスの決意を私たち自身のものとして受け入れ、神の約束に生きる者となろう。信仰の旅は、私たちの思いを超えた豊かさと希望に満ちている。私たちが目に見えぬ約束を信じて歩むとき、そこには神の国が確かに現れるのである。

【星を仰ぎ、約束を信じる】

創世記15章は、アブラハムと神との対話を描く場面であり、ここで神はアブラハムに「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかける(創世記15:1)。この言葉は、神が人間に向ける確かな約束と、信仰の旅路における支えを象徴するものだ。

アブラハムはこの時点で、すでに長い年月を神と共に歩んでいた。しかし、彼には依然として子がなく、神の約束が果たされる気配は見えない。彼は正直に自らの疑問を神に投げかける。「わたしには子がありません。だから、わたしの家を継ぐのはダマスコのエリエゼルになるでしょう」(創世記15:2)。彼の言葉には、約束を信じながらも、それが実現しない現実への戸惑いと不安がにじんでいる。

このアブラハムの心情は、現代を生きる私たちにも通じるものがある。信仰を持って歩んでいても、すぐに結果が見えず、不安に駆られることがある。神の導きを信じながらも、時に「本当にこの道で良いのか」と迷うことがある。そんな私たちに向けて、神はアブラハムに語ったように、「恐れるな」と呼びかけておられるのではないだろうか。

ここで、神はアブラハムを外に連れ出し、星空を見上げるよう促される。「天を仰いで星を数えられるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)。これは、単なる比喩的な励ましではない。神は、無限に広がる宇宙の中で、人間が自らの限界を超えて神の約束を信じるよう促している。アブラハムが見た星々は、彼にとって「今はまだ見えない未来」を示すものであった。

今日の私たちも、このアブラハムのように、神の約束を信じる信仰を持つよう招かれている。目に見える証拠がなくとも、神の言葉を信じ、忍耐強く待つことが求められる。それは決して消極的な忍耐ではなく、積極的に希望を持ち続ける姿勢である。

アブラハムはこの約束を信じた。そして、「主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。信仰とは、目に見える確証を得た上で成り立つものではなく、神の言葉を信じて歩む決断そのものにあるのだ。この「義」とは、人間が成し遂げた業績によるものではなく、神の約束を受け入れ、それに信頼を置くことで与えられるものだ。

私たちは、時にアブラハムのように、自らの未来に確信を持てず、迷いの中にいる。しかし、神は常に私たちに「恐れるな」と語りかけておられる。そして、目に見えない希望の星を示し、「信じなさい」と招いておられるのではないだろうか。神の約束に信頼を置くとき、私たちの人生の歩みもまた、神の義に包まれていくのである。

【天に国籍を持つ者として】

パウロの手紙は、迫害のただ中にあっても喜びを持ち続けることを勧める力強い言葉に満ちている。フィリピの信徒への手紙3章17節から4章1節において、パウロは「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と記し、キリストにある者の真の所属を明確に示している。この言葉は、現代を生きる私たちにとっても、希望と挑戦を同時に与えるものだ。

〈地上に生きる者、天に属する者〉

フィリピの教会は、当時ローマ帝国の植民都市として、軍人や政治的な影響力を持つ者が多く住んでいた都市であった。彼らにとって「国籍」とは、自らのアイデンティティを規定する重要な要素であり、ローマ市民権は特権であった。しかし、パウロはそのような価値観を超えて、「私たちの本国は天にある」と言う。この言葉は、単なる比喩ではなく、キリスト者の生き方そのものを示している。

パウロは続けて、「主イエス・キリストを待ち望んでいます。主は、万物を従わせることのできる力によって、わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:20-21)と述べている。これは、キリストにある者の終末的希望であり、神の国の到来を待ち望む信仰の姿勢を示している。

〈地上の価値観と対峙する〉

しかし、この「天に国籍を持つ」という言葉は、単に未来の希望を語るものではない。それは、地上においてどのように生きるかという具体的な指針を示している。パウロは、「わたしにならう者となりなさい」(フィリピ3:17)とフィリピの信徒に呼びかける。これは傲慢な勧めではなく、キリストに従う者として、地上の価値観に流されることなく、神の国にふさわしい生き方をするよう求めるものだ。

地上の価値観は、成功、名声、富を重んじる。パウロがここで「彼らの神は腹であり」(フィリピ3:19)と述べるとき、それは単なる貪欲を指しているのではなく、物質的な満足や快楽を人生の最優先にする生き方を指している。現代においても、消費社会の中で、私たちは自らの欲求を満たすことが人生の目的のように錯覚してしまうことがある。しかし、パウロはそのような価値観と対峙し、キリスト者としての生き方を示している。

〈天に属する者の生き方〉

では、「天に国籍を持つ者」として、私たちはどのように生きるべきなのか。パウロは、「だから、愛する兄弟たち、堅く立ちなさい」(フィリピ4:1)と勧める。「堅く立つ」とは、単に信仰を持ち続けるという消極的な態度ではなく、神の国の価値観に根ざし、この世の価値観に流されることなく生きることを意味する。

これは決して容易な道ではない。キリストに従う者は、この世において異質な存在となることを避けられない。しかし、それこそが福音の証しとなる。「天に国籍を持つ者」として生きることは、決してこの世を否定することではない。それは、この世のただ中で、神の愛と正義を証しし、平和を実現していく生き方なのだ。

私たちが「天に国籍を持つ者」として生きるとき、私たちの行動はこの地上に神の国の現れとなる。パウロの言葉にあるように、「主に結ばれて堅く立つ」ことは、信仰を持ち続けること以上に、この世にあって神の国の価値観を生きることにほかならない。

【狭い門を求めて】

ルカによる福音書13章(22-30節)は、イエスが神の国に入るためには「狭い門から入るように努めなさい」(ルカ13:24)と語る場面である。この言葉は、単なる道徳的な教訓ではない。むしろ、神の国へと向かう生き方に関する挑戦であり、私たちに対する深い問いかけである。

〈神の国への道は狭い〉

イエスは「狭い門」について語った後、多くの人がそれを通ろうとしても入れないと述べている(ルカ13:24)。これは、神の国が特権階級のためのものだという意味ではない。むしろ、イエスはここで「神の国へ入るためには努力が必要である」ことを強調しているのだ。

この「狭い門」とは何を指しているのか。それは、キリストに従う者の生き方そのものである。福音書を通してイエスが示す生き方は、自己犠牲と謙遜、そして愛と正義に根ざしたものだ。世の価値観に従えば、人は広い道を選びたくなる。つまり、楽で、目に見える成功を求めたくなる。しかし、イエスはそうした生き方ではなく、狭い門を選ぶよう促される。

この言葉は、今日の私たちにとっても極めて挑戦的だ。現代社会は、効率や利益を重んじ、できるだけ少ない努力で最大の成功を得ることを是とする傾向にある。しかし、イエスの言葉は、そのような価値観に対する明確な問いかけとなる。神の国は、ただ単に宗教的な肩書きを持つことで入れるものではない。それは、信仰に基づいた生き方を選び取ることによって与えられるものなのだ。

〈「あなたがたを知らない」と言われる恐れ〉

さらに、イエスは「家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまうと、あなたがたが外に立って戸を叩き、『御主人様、開けてください』と言っても、主人は『お前たちがどこの者か知らない』と答える」(ルカ13:25)と語る。これは何を意味しているのか。

ここでの「戸を閉める」行為は、神の審判を象徴するものだ。つまり、信仰とは、ただ名ばかりのものではなく、真に神との関係を築くものでなければならないことを示している。たとえ人が「主よ、主よ」と呼びかけたとしても、心が神に向かっていなければ、イエスは「あなたがたを知らない」と言われるのである。

これは、形式的な信仰ではなく、実践を伴った信仰の重要性を強調するものだ。日曜に礼拝へ行くことが神の国への鍵ではない。むしろ、日常生活の中で、どのように神の愛と正義に生きるかが問われている。狭い門とは、単なる宗教的な立場ではなく、実際に神の価値観を生きることなのだ。

〈「先の者が後になり、後の者が先になる」〉

最後に、イエスは「先の者が後になり、後の者が先になる」(ルカ13:30)と語られる。この逆転の原則は、神の国の大きな特徴である。世の中では、権力や名声を持つ者が先に立つ。しかし、神の国では、そうした地位や名誉ではなく、心の姿勢が問われるのだ。

イエスのもとには、社会の周縁にいた人々—徴税人や罪人、病者—が集まった。そして彼らこそが、神の国に招かれる者となった。一方で、宗教的な指導者たちは、自らの正しさを誇るあまり、神の国の招きを受け取ることができなかった。

この言葉は、私たち自身への問いかけでもある。私たちは、信仰を「自分が選ばれている」という自己満足のために持っていないだろうか。あるいは、信仰を「世で成功するための手段」として考えていないだろうか。もしそうであるなら、私たちは自ら神の国の狭い門を通ることを拒んでしまっているのかもしれない。

〈狭い門を求め続ける〉

イエスが「狭い門から入るよう努めなさい」と語られたのは、私たちが日々の選択において、神の国の価値観を選び取るよう促すためである。神の国への道は決して簡単ではない。しかし、その門を通る者には、神が約束された豊かな命が待っている。

今日の社会では、狭い門を選ぶことは容易ではない。正直さ、誠実さ、愛と平和を実践することは、ときに嘲笑されたり、損をすることにつながるかもしれない。しかし、それでもなお、イエスは「狭い門を通れ」と呼びかける。なぜなら、その先には、神の国の豊かさが約束されているからだ。

私たちは、目に見える成果や世の価値観に惑わされず、神の国の門を目指して歩んでいるだろうか。イエスの呼びかけに応え、狭い門を求め続ける者でありたい。

【エルサレムへの道を歩む決意】

ルカによる福音書13章31-35節には、イエスがエルサレムへと進む決意を語る場面が描かれている。この箇所では、イエスが自らの使命を貫く強い意志を示しつつ、エルサレムの頑なな心に対する深い嘆きを表している。この短い一節の中には、神の国の到来に向けた確固たる歩みと、人間の不信に対する神の痛みが交差している。

〈「この人を殺したいと思っている」〉

この場面の冒頭、ファリサイ派の人々がイエスに近づき、「ここを立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(ルカ13:31)と警告する。彼らのこの忠告は、イエスを本気で心配していたのか、それとも彼を遠ざけようとする策略だったのか、はっきりとは分からない。しかし、明確なのは、この時点でイエスの存在が政治的な脅威と見なされ始めていたということだ。

ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを処刑した人物であり、権力を維持するためならば手段を選ばない統治者だった。彼がイエスの活動を脅威と感じ、排除しようとするのは、ある意味で予測可能な展開だった。しかし、イエスはこの警告に対して怯むことはなかった。

〈わたしは今日も明日もその次の日も〉

イエスは、ファリサイ派の警告に対し、毅然とした態度で答える。「行って、あの狐に言いなさい。『わたしは今日も明日も、その次の日も悪霊を追い出し、病気を癒やし、三日目に完成するのだ』」(ルカ13:32)。ここで「狐」とはヘロデを指している。イエスは彼を猛獣のような恐るべき王ではなく、ずる賢いが本質的には取るに足らない存在として捉えている。

イエスの言葉には、神の計画に従い、使命をまっとうする決意が込められている。「今日も明日も」という表現は、イエスがどのような妨害を受けようとも、神から託された働きを最後まで続けるという意志を示している。イエスは、世の権力者の策略や脅威に動じることなく、エルサレムへと進んでいくのだ。

〈エルサレムよ、エルサレムよ〉

この場面の後半で、イエスはエルサレムの町に対して深い嘆きを表す。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺し、遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(ルカ13:34)。エルサレムは、神の民の中心でありながら、歴史を通じて神の預言者たちを拒み続けてきた。イエスは、この町に対する愛と、そこに住む人々の頑なな心に対する悲しみを込めて呼びかける。

「めんどりが雛を翼の下に集めるように、わたしはお前たちを集めようとしたが、お前たちは応じようとしなかった」(ルカ13:34)。この表現は、神の憐れみ深い愛を象徴している。イエスは、人々を裁こうとするのではなく、むしろ愛をもって包み込もうとしている。しかし、人々はそれを拒み続けてきた。これは、今日に生きる私たちにとっても、重い問いかけとなるのではないだろうか。

〈拒まれる愛、しかし変わらぬ使命〉

エルサレムの拒絶にもかかわらず、イエスは自らの使命を果たすために歩みを止めることはない。この場面は、キリストの受難へと続く物語の序章とも言える。イエスは、拒まれることを知りながら、それでも人々のために進んでいく。これは、神の愛の本質を示している。神の愛は、人間がそれを拒んだからといって消え去ることはない。それはなおも私たちを追い求め、抱きしめようとする愛なのだ。

イエスの嘆きは、単なる絶望ではなく、救いへの希望を含んでいる。イエスは最後にこう言う。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、『主の名によって来られる方に、祝福あれ』と言う時が来るまでは、決してわたしを見ることはない」(ルカ13:35)。この言葉には、エルサレムが今は神を拒んでいても、やがて神の救いを認める日が来るという希望が込められている。

〈エルサレムへの道を歩む私たち〉

イエスは、困難や拒絶が待ち受けていることを知りながら、それでもなおエルサレムへと向かった。その道の先には十字架があることも知っていた。しかし、彼は神の御心を行うために、ためらうことなく進んでいった。

私たちもまた、それぞれの「エルサレム」へと向かう道を歩んでいるのではないだろうか。信仰の道は決して平坦ではなく、しばしば困難や拒絶に直面する。それでもなお、イエスのように、神の御心に従い歩み続けることが求められている。

この世の価値観は、しばしば私たちに「楽な道を選べ」と囁く。しかし、イエスの生き方は、そのような道を選ばなかった。むしろ、愛と正義のために苦難を受け入れ、それでも前へと進む道を選んだのだ。私たちがどのような試練の中にあろうとも、神は決して私たちを見捨てない。むしろ、イエスが歩まれた道を私たちもまた歩むようにと、私たちを導いておられるのだ。

イエスのように、私たちも自らの「エルサレム」へと歩み続けよう。たとえ困難が待ち受けていようとも、神の愛は決して私たちを見放さず、共に歩んでくださるのである。

【目に見えぬ約束を生きる】

アブラハムが星空を見上げながら神の約束を信じたように、パウロが天に国籍を持つ者としての生き方を示したように、そしてイエスがエルサレムへと向かう決意を固めたように、信仰とは目に見えぬ約束を生きることである。人はしばしば、確かな証拠がなければ信じることができない。しかし、神の国の約束は、目に見える証拠がないからこそ、信仰によって生きることが求められる。

〈神の約束を信じることの難しさ〉

信仰とは、すべてを理解した上で選び取るものではない。むしろ、先が見えない中で、それでもなお神の言葉を信じる決断である。アブラハムは子のないまま老いていたが、神は「お前の子孫は星のように増える」と約束された。現実の状況を見る限り、それはありえないことだった。しかし、アブラハムは信じた。「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

この「義」とは、単なる道徳的な正しさではなく、神の言葉を受け入れる信仰の姿勢である。信仰とは、現実の見える証拠に基づくものではなく、神の約束をよりどころとするものなのだ。

しかし、それは容易なことではない。私たちは、結果が見えなければ不安になり、神の導きを疑うこともある。アブラハムもまた、長い間子が与えられなかったとき、不安に駆られ、神に問いかけた。「主よ、わたしには子がありません」(創世記15:2)。この叫びは、信仰を持つ者の現実的な苦悩を象徴している。

〈「天に国籍を持つ者」としての生き方〉

パウロは、キリスト者の生き方を「天に国籍を持つ者」と表現した(フィリピ3:20)。この言葉は、単に「死後の世界の希望」を示すものではない。それは、地上に生きながら、神の国の価値観を生きることを意味する。

今日の世界では、多くの人が地上の価値観に囚われている。成功、財産、名誉、快適さ——これらは確かに人間にとって重要に思える。しかし、パウロは「彼らの神は腹であり、彼らの誇りは恥ずべきことであり、地上のことしか考えていない」(フィリピ3:19)と語る。つまり、世の中の価値観に縛られ、それがすべてであるかのように生きることは、神の国に生きる姿勢とは異なるのだ。

「天に国籍を持つ者」として生きるとは、日々の選択において神の国の価値観を選ぶことを意味する。愛、誠実さ、謙遜、正義、そして隣人への思いやり——これらは、目に見える報いがあるとは限らない。しかし、それでもなお、キリスト者はこの道を歩むように召されている。

〈「狭い門」を通る選択〉

イエスは、「狭い門から入るよう努めなさい」(ルカ13:24)と語られた。これは、「楽な道」ではなく、「信仰に生きる道」を選ぶようにという招きである。狭い門を通ることは、容易ではない。世の中の価値観とは逆行する生き方をすることになるからだ。

しかし、イエスははっきりと「広い道は滅びに至る」と警告されている(マタイ7:13)。この世の価値観に流され、安易な選択をすることは、一見すると賢明に思えるかもしれない。しかし、信仰の道とは、容易な道ではなく、それでもなお価値ある道なのだ。

「狭い門を通る」とは、他者を愛し、仕え、誠実に生きることを選ぶことを意味する。それは、時に損をしたり、理解されないことがあるかもしれない。しかし、その道こそが、神の国に至る道である。

〈エルサレムへの歩み〉

イエスは、危険が待つと知りながらも、エルサレムへと進んだ。「あの狐(ヘロデ)に言いなさい。『わたしは今日も明日も、その次の日も、わたしの業を行い続ける』」(ルカ13:32)。この言葉には、どんな困難があっても、自らの使命を貫く決意が込められている。

イエスは、エルサレムに入ると人々から「ホサナ」と迎えられたが、その同じ人々が後に「十字架につけろ」と叫ぶことになる。それでもなお、イエスは最後まで歩み続けられた。彼の歩みは、私たちへの招きでもある。困難があっても、神の約束に従って歩むこと。それが、キリスト者としての使命なのだ。

〈信仰によって歩む〉

信仰とは、目に見えないものを信じること。アブラハムは、子を授かるという神の約束を信じた。パウロは、世の価値観ではなく、神の国の価値観に従って生きることを選んだ。イエスは、拒絶されると知りながらも、神の救いの計画をまっとうするために歩まれた。

私たちはどうだろうか。目に見える成功や報いばかりを求め、神の約束を信じることを忘れてはいないだろうか。神の導きを信じ、たとえ結果がすぐに見えなくとも、信仰の道を歩み続けること。それが、神の国に生きる者の姿勢である。

信仰とは、神の約束を受け入れ、それを生きることである。目に見えないからこそ、それは信仰を必要とする。そして、神の約束を信じて歩む者には、必ず神の恵みが備えられている。私たちもまた、この信仰の道を歩み続けよう。

【旅立ちの時】

旅に出るとき、人は何を思うのだろうか。期待と不安が交錯し、未知なる世界に踏み出す勇気を試される。信仰の旅もまた、それと同じである。先が見えない道のりに、神の約束だけを頼りに歩み続けること。それは決して容易ではないが、確かな希望がそこにはある。

アブラハムは、神の言葉に従い、故郷を離れて旅立った。彼には確かな行き先は示されていなかった。ただ「わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)という神の招きに応え、見えぬ未来へと向かった。そして、神は「星を数えよ」と語り、彼に壮大な約束を与えた(創世記15:5)。その約束はすぐに実現しなかったが、アブラハムは信じた。その信仰が、彼の歩む道を照らした。

パウロは、天に国籍を持つ者として生きるようにと語る。「主に結ばれて堅く立ちなさい」(フィリピ4:1)。彼が語った信仰は、単なる思想ではない。それは、人生のすべてを懸けて歩む旅路であった。彼は迫害を受け、投獄され、数えきれない苦難に直面しながらも、神の国を求め続けた。彼の旅は、決して順風満帆ではなかったが、確かな希望に満ちていた。

そして、イエスはエルサレムへと向かった。彼は人々の拒絶を知りながらも、その道を選び取った。「今日も明日も、その次の日も、わたしの業を行い続ける」(ルカ13:32)。この言葉には、どんな困難が待ち受けていようとも、神の使命を果たし続ける決意が込められている。十字架への道は、痛みと苦しみの道だった。しかし、それはまた、救いの完成へと至る道でもあった。

信仰とは、神の約束に生きる旅である。その道は広く楽なものではなく、狭く険しい道かもしれない。しかし、その先には、神が約束された希望がある。私たちは、それぞれの旅路を歩んでいる。恐れずに進もう。アブラハムのように、パウロのように、そしてイエスのように。信仰の旅は、神の御手の中で、確かに導かれている。

今、旅立ちの時である。神の約束を信じ、その道を歩み続けよう。

大斎節第1主日 2025年3月9日 「教会時論」 「説教——荒野を越えて、御言葉に生きる」

皆様、主の平和が共にありますように。

三寒四温とはよく言ったもので、近頃の気候の寒暖差には目を見張るばかりです。春の兆しを感じさせる陽気が訪れたかと思えば、冬の厳しい寒さが再び顔をのぞかせる日もあり、皆様の体調が崩れていないか気にかかっております。どうかご無理をなさらず、お身体をいたわってお過ごしください。先日、実家の庭で梅の花がひっそりと咲き始めている写真を目にしました。その清楚な美しさに、心が和み、神の恵みを思わずにはいられませんでした。四季の移ろいの中で、自然が見せてくれる小さな喜びにも、主の恵みが隠されていることを改めて感じております。

本日は教会暦において、大斎節第1主日を迎えております。この日から、私たちは主イエスが荒野で四十日間を過ごされ、悪魔の誘惑に立ち向かわれた出来事を覚えつつ、祈りと節制、そして内なる省察の時を歩み始めます。ただ節制や断食を行うだけではなく、この期間は私たち自身が神と向き合い、心の奥深くにある本当の願いや思いを問い直すための特別な季節であります。このような尊い季節に皆様と共に祈りを捧げ、思いを分かち合えることを心から感謝しております。

そして、説教に入る前に、この一週間の社会の出来事にも少し目を向けたいと思います。私たちの生きる社会は、いつも以上に揺れ動き、心を乱す出来事が次々と起きています。女性の権利向上を願って国連で制定された「国際女性デー」が半世紀を迎えたものの、日本では依然としてジェンダー平等への道のりは険しく、男女の格差は深刻なままであります。さらに、東日本大震災から12年が経ち、福島第一原発事故をめぐる裁判では東電旧経営陣への無罪判決が下されましたが、それが事故によって傷つき、苦しむ人々の痛みを和らげるものでは決してありません。また米国では、トランプ大統領が排他的な言動を繰り返し、民主主義や国際協調を大きく揺るがしています。さらには兵庫県知事が公益通報者を追い詰め、その命を奪うという倫理的な問題を引き起こし、岩手県大船渡では大規模な山火事が発生し、多くの方々が避難生活を余儀なくされています。

このような社会の現実を私たちは決して無関係なこととして傍観してはいられません。今この時代に、私たちは何によって生きるのかを問い直し、神の言葉に耳を傾ける必要があります。揺れ動く社会の現実を前に、私たちの生き方そのものが試されています。荒野で誘惑と向き合いながら、神の言葉を生き抜かれた主イエスに倣い、私たちもこの時を心新たに歩み出しましょう。

荒野を越えて、神の言葉に生きる――それが今日の私たちへの招きです。

教会時論と説教においては、伝統に従い、丁寧語は用いない。改めてご理解願いたい。

■教会時論■

私たちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決して私たちと無縁ではない。社会の変容や事件の深層には、私たちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、私たちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそ私たちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。

【国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき】

今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。

日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。

企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根深く残っている。その背景には、男性が外で働き、女性は家庭を守るという旧弊が、見えない圧力として社会の深部に巣くっている現実がある。

制度的に女性が不利益を被っている例として、夫婦同姓の原則が挙げられる。結婚時の改姓は95%以上が妻側であり、そこに潜むアイデンティティの喪失や煩雑な手続きといった負担は、圧倒的に女性へと押し付けられている。選択的夫婦別姓の導入が求められて久しいが、未だ制度は動かないままだ。

パウロは『ローマの信徒への手紙』でこう述べている。「主は、すべての人を分け隔てなく豊かにお恵みになる」(ローマ10:12)。この教えを現代の視点で捉え直せば、性別による不合理な差別は神の望むところではなく、私たちは制度と意識の両面で変革を迫られていることになる。

人権とは常に制度と人々の意識という二本の柱の上に立つ。私たちは、男女が真の意味で平等な社会を築くために、単なる理想論に留まらず、自らが行動する義務を負っている。50年という節目に問われているのは、日本社会そのもののあり方だ。改革を急ぎ、次の世代へ、性別で差別されることのない未来を手渡すことこそ、私たちの課題である。

【原発事故「無罪」判決——私たちが背負う記憶と責任】

去る3月6日、福島第一原発事故をめぐる東京電力旧経営陣への刑事裁判は、最高裁の無罪確定で終止符が打たれた。司法としての結論は、予見不能との判断である。だが、司法の扉が閉じられたからといって、東電が負うべき社会的、道義的な責任が免除されることは決してない。

2011年3月11日、巨大な津波が福島第一原発を襲い、史上最悪とも言われる原発事故が発生した。以降、日本社会は重く苦しい教訓を抱え続けている。事故を巡る裁判は、旧経営陣がその甚大な被害をもたらした津波を予測できたかが最大の焦点だった。だが最高裁は、「長期評価」の情報に信頼性が乏しく、事故の予見は困難だったとして、無罪の判断を下した。裁判としては一区切りとなる。しかし、問題はここからだ。

人間が運営する組織には常に責任というものがある。その責任は法律の文言を超えたところにまで及び、とりわけ生命や安全に直結する原子力事業においては、なおさら厳しく問われる。事実、日本原電の東海第二原発は同じ長期評価を受け止め、津波対策に具体的措置を講じていた。ならば、東電にそれができなかったのか。経営陣の刑事責任が問われずとも、事故を防ぐことができなかった組織としての責任は決して薄れない。これは裁判の有罪・無罪を超え、倫理的・社会的な観点から問い続けなければならない問題である。

聖書はこう語る。「愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。」(ローマ13:10)私たちの社会において、隣人への愛とは、安全と安心を最優先することだろう。予見が困難であることを理由に安全を後回しにしてよいわけはない。安全への配慮は単なる法的義務ではなく、人間の生命と尊厳を重んじる信仰的・倫理的な義務でもある。

原発事故の被害者たちは、今なお生活再建の途上にある。司法の無罪判決は、彼らの苦難を消し去るものではない。私たちがこの裁判の結果に納得できないなら、それは司法の限界を超え、企業や政治、さらには社会全体の意識のあり方を根底から問わねばならないことを示している。

我々に問われているのは、再び同じ過ちを繰り返さないための覚悟と実践である。司法の判断で区切りをつけて終わるのではなく、これを機に社会全体が原発の安全性、エネルギー政策のあり方、そして人間の命と生活を守るという根本の課題に向き合わなければならない。東電はもちろん、私たち市民一人ひとりが責任の主体として、真摯に、かつ誠実に、未来の世代に対して答える義務がある。

【自由世界を揺るがすもの——トランプ演説に見る民主主義の危機】

トランプ米大統領が二期目の就任後初となる議会演説を行った。3月5日のことだ。高らかに語られたその言葉は、「アメリカは再び強くなった」という自己陶酔的な宣言に満ちていた。だが、その強気の姿勢とは裏腹に、演説の端々からは米国が自ら築き上げたはずの自由で民主的な国際秩序を、自らの手で揺るがしかねない危うさが垣間見えた。

トランプ氏は演説で、自身の政権が短期間で大きな成果を上げたと誇示した。特に強調されたのが「アメリカ湾」という名称の提唱や、英語の公用語化といった排他的ナショナリズムに傾斜する政策である。また「関税を課す国には関税で応じる」と宣言し、露骨な保護主義への回帰を鮮明にした。自由貿易を柱とする国際協調の流れから逆行するこの動きは、世界経済に新たな不安をもたらしている。

外交分野では、ウクライナ戦争終結への意欲を口にしたものの、その裏では前日までウクライナへの軍事支援停止をちらつかせ、和平の名のもとに圧力を加える姿勢を示した。自由と民主主義を標榜しながら、侵略したロシアに歩み寄る姿勢を隠さない彼の言動は、戦争で傷つく人々への裏切りに等しい。トランプ氏が称賛する実業家イーロン・マスク氏を要職に据え、途上国支援を担う対外援助機関の閉鎖を打ち出したこともまた、国際社会への貢献という米国本来の理想を手放す兆候にほかならない。

聖書は「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださいました。だからしっかりしなさい。二度と奴隷の軛に繋がれてはなりません」(ガラテヤ5:1)と語る。民主主義と自由は、私たちが守り抜かねばならない普遍の価値であり、その軛を再び負わされることがあってはならない。トランプ氏が掲げる「アメリカ第一主義」が、やがて国際社会において「力による支配」という軛を再びもたらす恐れを、私たちは鋭敏に察知すべきだ。

国際秩序は一国の利益のためにのみ存在するものではない。そこにはすべての人間が尊重される公正な社会を目指す、普遍的な原則があるべきである。私たちキリスト者は、世界のあらゆる抑圧や不正に目を向け、共に苦しむ者に寄り添うことを教えられている。その使命を忘れることなく、私たちはトランプ政権が推し進める内向きの孤立主義や権威主義の流れに注意深く抗わねばならない。

この演説をただ遠くの出来事とせず、自由と民主主義の危機を私たち自身の課題として心に刻むときである。

【権力の驕り——兵庫県知事の資質を問う】

兵庫県の斎藤元彦知事をめぐる問題は、単なる地方の不祥事で済ませられるものではない。3月初旬、県議会の調査特別委員会(百条委)は、斎藤氏が元県民局長からの公益通報を受けたのち、その告発者本人を不当に懲戒処分にした可能性が高いと断じた。この告発者は昨夏、命を絶った。社会的な孤立と圧迫が彼の命を奪ったとの指摘がある。知事という権力の重みと、それに伴う責任の大きさを改めて考えさせられる事件だ。

斎藤氏は問題の核心に真摯に向き合うどころか、百条委の結論を「一つの見解」と軽視し、「最終的には司法が判断する」として、道義的な責任を放棄した。議会は住民を代表し、知事を監視する役割を負っている。その議会が調査を尽くして出した結論を単なる「見解」と片づけることは、二元代表制の根幹を揺るがす態度であり、自治と民主主義への侮辱にも等しい。

さらに問題なのは、斎藤氏が百条委で自身の倫理観を問われた際、「道義的責任が何なのかよくわからない」と発言したことである。知事の職にある者が、公私の区別や倫理を理解できないというのであれば、県政が正常に機能するはずもない。指導者の倫理感覚の欠如は行政の腐敗を招き、最終的にその被害を受けるのはいつも市民である。

聖書はこう告げる。「高ぶる心は破滅をもたらし、謙虚な霊は名誉をもたらす」(箴言18:12)。斎藤氏に問われているのは、単に一連の疑惑に対する釈明ではない。その地位に伴う権力に謙虚さを持って向き合い、住民のために奉仕する者としての倫理観を再確認することだ。権力を私物化することは、社会の倫理を蝕み、公平性を失わせる。兵庫県民は、この問題を決して看過してはならない。

公益通報者が報復を恐れず安心して声を上げられる環境を整備することも急務である。組織の透明性は社会正義を実現するための不可欠な条件であり、それが守られなければ、行政そのものが不信に包まれる。今回の事件をきっかけに、県庁内部の仕組みを再構築する必要があるだろう。

私たちは、社会の問題に目を背けることなく、権力を持つ者の責任を厳しく問わねばならない。沈黙は社会を劣化させる共犯に等しい。斎藤知事が取るべき道は明白である。自らの行動を深く省みて、誠実に、県民に対し説明責任を果たすことだ。県政に信頼を取り戻すためにも、それは避けて通れない道である。

【炎に奪われた森——大船渡山火事が私たちに問いかけるもの】

2月26日に岩手県大船渡市で発生した山林火災は、平成以降最大規模にまで広がった。炎は乾燥した空気と強風に乗り、わずか数日で約2900ヘクタールを焼き尽くし、住宅約80棟を巻き込み、多くの人々を避難生活へと追いやった。消火活動は険しい三陸の地形が妨げとなり難航し、自衛隊を含む全国から集まった消防隊員たちが連日奮闘を続けた。発生から8日を経てもなお、完全な鎮火には至らず、住民は先の見えない不安と闘っている。

今回の火災は、私たちに二つの重要な問いを突きつけている。一つは、防災への意識と自然との向き合い方だ。この冬の大船渡市は観測史上最も乾燥していた。日常の延長線上で起きる小さな火の不始末が、これほどまでの災害を引き起こすという教訓を私たちは忘れてはならない。近年、日本だけでなく世界各地で頻発する山火事は、もはや他人事ではなく、自然環境への配慮や防災意識を日々の暮らしの中心に据える必要性を示している。

もう一つは、地域社会における共助の精神だ。避難生活が長引く中、多くのボランティア団体や民間企業がいち早く被災者支援に乗り出した。「空飛ぶ捜索医療団ARROWS」もその一つで、医療支援だけでなく避難所の環境改善にも尽力し、住民の生活を支えた。このような草の根の支援活動こそ、苦難の中で人間同士の絆を確かめ合う重要な営みである。

私たちキリスト者は、こうした共助の精神を信仰の原点とする。「互いに重荷を担い合いなさい。そうすることでキリストの律法を満たすのです」(ガラテヤ6:2)。この教えは、私たちが災害時にこそ身をもって実践すべきものだ。さらに、「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)というキリストの言葉は、困難の中にある人々に手を差し伸べ、共に苦しみを分かち合う姿勢を私たちに求めている。

森林は一度焼失すると、その再生には長い年月を要する。自然の豊かさを享受する者として、私たちは自然を支配するのではなく、自然と調和して生きることを神から求められている。「主なる神は人をエデンの園に置いて、それを耕し、守らせた」(創世記2:15)との御言葉が示すように、自然との共生を深く心に刻むべき時である。

大船渡の人々が、この災害から再び立ち上がるためには、社会全体の継続的な支援と関心が必要である。共助と信仰を胸に刻み、この苦難の中からより強い絆を紡いでいこうではないか。

■説教——荒野を越えて、御言葉に生きる■

【はじめに】

大斎節の四十日間が始まる。この期間、教会は祈り、節制し、悔い改めに心を向ける。イエスが荒野で過ごされた四十日間を思い起こしながら、信仰の旅路を共に歩む時だ。

大斎節は単なる宗教的な習慣ではない。それは、人が本当に生きるとはどういうことかを問い直す時だ。人は何によって生きるのか。何を頼りにし、何に希望を置くのか。私たちは日々、数えきれないほどの誘惑と戦いながら生きている。自分の力でどうにかしようとする心、富や権力に支配される心、神の愛を試そうとする心——それらすべてが、信仰を曇らせる。

イエスは、荒野で悪魔の誘惑に立ち向かわれた。四十日間、何も食べず、極限まで飢えたとき、悪魔は「この石に、パンになれと言え」と囁いた。人が生きるためには何が必要なのか。それを問う悪魔の言葉に、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えられた。

大斎節のこの期間、私たちは何によって生きるのかを問われる。何を手放し、何を求めるのか。その問いに向き合うため、私たちも、イエスと共に荒野を歩むよう招かれている。

【誘惑に打ち勝つ力——御言葉に立つ信仰】

荒野の夜は冷え込む。昼間の灼熱が嘘のように、砂は急速に冷たくなり、星々が果てしない天に煌めいている。風が砂丘を削り、孤独と沈黙が支配するその地で、イエスはただひとり、御父と向き合っておられた。

「イエスは聖霊に満たされ、ヨルダン川から戻られると、神の霊に導かれて荒野に行き、そこで四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。その間、何も食べず、四十日が過ぎると、ひどく空腹を覚えられました」(ルカ4:1-2)。

この四十日間は、ただの空腹や肉体的な忍耐ではない。それは、神に委ねる信仰を試される期間だった。

1. なぜ悪魔の誘惑は危険なのか

悪魔は、最初にパンの誘惑をもってイエスに迫った。

「もし、お前が神の子なら、この石にパンになれと言ってみろ」(ルカ4:3)。

四十日間、何も食べていないイエスにとって、この誘いは極めて現実的である。人は食べなければ生きていけない。だが、ここで問われているのは単なる空腹ではなかった。

この誘惑の本質は、「神の導きに頼らず、自分の力で満たせ」ということだった。

私たちは、何かを求めるとき、神の導きを待つのではなく、自分の力で何とかしようとしてしまう。生活の安定、成功、人からの評価——それらを、自分で手に入れようとする。しかし、イエスは答えられた。

「聖書にはこう書いてある——『人はパンだけで生きるのではなく、神が語るすべての言葉によって生きる』」(ルカ4:4/申命記8:3)。

本当に生きるために必要なのは、目に見える糧ではない。神の言葉こそが、人を支える力なのだ。

2. 誰に仕えるのか——富と権力の誘惑

悪魔は次に、イエスを高い場所へと連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして言った。

「この世のすべての権力と栄光を、お前にやろう。もし、私にひれ伏して礼拝するならば」(ルカ4:6-7)。

人は、成功や権力を求める生き物である。多くの人が、より良い地位、より多くの財産、より大きな影響力を得ようとする。しかし、それは本当に価値のあるものなのか?

イエスは、答えられた。

「聖書にはこう書いてある——『あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい』」(ルカ4:8/申命記6:13)。

私たちは、何を第一にするのかを常に問われている。神に従うのか。それとも、この世の価値観に従うのか。

・仕事の成功のために、大切なことを犠牲にしていないか?
・人からの評価を気にしすぎていないか?
・神よりも、目に見える富や権力を優先していないか?

イエスは言われた。「ただ神に仕えよ」と。地上の栄光がどれほど魅力的に見えても、それが神から引き離すものであるならば、それは決して真の宝にはなり得ない。

3. 神を試してはならない——信仰の本質

悪魔は最後に、イエスをエルサレムの神殿の頂に立たせ、こう言った。

「ここから飛び降りてみろ。聖書にも『神は天使たちに命じて、お前を守らせる』と書いてあるではないか」(ルカ4:9-11/詩編91:11-12)。

これは、「神が本当にお前を愛しているなら、証明してみろ」という挑発だった。

しかし、イエスは答えられた。

「聖書にはこうも書いてある——『あなたの神である主を試してはならない』」(ルカ4:12/申命記6:16)。

信仰とは、神の愛を「証明」することではない。神に従い、すべてを委ねることである。

私たちは、人生の中で、「神は本当に私を守ってくださるのか?」と疑いたくなることがある。しかし、神の愛は、私たちが試すまでもなく、すでに注がれている。

4. 御言葉に立つ信仰の力

イエスは、悪魔の誘惑に対して、自分の力を誇ることもなく、議論することもなく、ただ御言葉によって答えられた。

「聖書にはこう書いてある」

イエスの武器は、神の言葉だった。

・困難の中で、神の言葉を思い出しているか?
・自分の判断だけで進もうとしていないか?
・御言葉に立ち、信仰の道を選び取っているか?

誘惑は、いつの時代にも、どんな人にも訪れる。しかし、それに打ち勝つ道は、御言葉の中にある。

私たちは、この四十日間を、何に耳を傾けながら歩むのか。自分の欲望の声か、それとも、神の御言葉か。

「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる。」

これは、大斎節を歩む私たちへの大切なメッセージである。

御言葉に立つ者でありたい。

【大斎節の四十日間——私たちの霊的な荒野】

荒野は、ただの風景ではない。そこは人が試される場所であり、神と向き合う場である。乾いた空気が心の奥底まで染み渡るような静寂の中で、人は自らの限界を知る。思い悩み、立ち止まり、そして、どこへ向かうべきかを問われる。

イエスは四十日間、荒野にとどまり、断食し、祈り、御父の御心に従う決意を新たにされた。

「イエスは聖霊に満たされ、ヨルダン川から戻られると、神の霊に導かれて荒野に行き、そこで四十日間、悪魔から誘惑を受けられました」(ルカ4:1-2)。

この四十日間は、単なる孤独の時間ではなかった。それは、神の沈黙の中で、信仰が試され、精錬されるときだった。

1. 荒野とは何か——神の沈黙と対話の場

荒野は、神の言葉を聞く場所である。だが、そこには人の思うような答えはすぐには与えられない。むしろ、沈黙が支配し、試練が襲う。

モーセは、エジプトの王宮を逃れ、荒野で四十年を過ごした。その間、彼は羊を飼いながら、神の召しを待っていた。そして、神は燃える柴の中から語りかけられた(出エジプト記3:1-12)。

エリヤは、絶望の果てに荒野へ逃れた。疲れ果て、ただ死を願うばかりだった。しかし、神は彼を荒野からホレブの山へと導き、静かなささやきの中で、再び使命を示された(列王記上19:11-13)。

荒野は、苦しみと孤独の場であると同時に、神が語られる場でもある。

私たちもまた、霊的な荒野を歩むときがある。

・祈っても答えがないように感じるとき
・自分の限界を痛感するとき
・神の沈黙が重くのしかかるとき

しかし、そのような時こそ、神は最も深い仕方で私たちに語りかけておられるのではないだろうか。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11)。

2. 何を手放し、何を得るのか——大斎節の目的

大斎節は、単なる自己犠牲の期間ではない。それは、何を手放し、何を受け取るのかを問う時間である。

・自分の思い通りにしようとする心を手放し、神の導きに委ねる
・執着しているものを手放し、神が備えられる恵みを受け取る
・自分の弱さを認め、神の強さのうちに生きる

大斎節の断食や節制は、単なる「食事を控えること」ではない。それは、何を第一とするのかを明確にすることである。

イエスは言われた。

「あなたがたは、何を食べるか、何を飲むか、心配してはならない。あなたがたの父は、それが必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、それらのものは加えて与えられる」(ルカ12:29-31)。

私たちは何を求めるのか。神の国か、それともこの世のものか。その選択が、私たちの生き方を決定づける。

3. 霊的な戦い——誘惑との戦いをどう生きるか

イエスが荒野で試みを受けられたように、私たちもまた、人生の中でさまざまな誘惑に直面する。

・物質的な豊かさが、心の豊かさよりも大事だと思わされる誘惑
・他者の評価を気にしすぎて、神の目よりも人の目を恐れる誘惑
・祈りや御言葉を後回しにし、忙しさに流される誘惑

これらの誘惑と戦うために、私たちはどうすればよいのか。

イエスは、悪魔の誘惑に対して、ご自身の知恵や力で応じられたのではなかった。ただ、神の言葉をもって戦われた。

「聖書にはこう書いてある——『あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい』」(ルカ4:8/申命記6:13)。

御言葉こそが、試練の中で私たちを支える力となる。

4. 荒野の先にある希望——神の招きに応える

荒野の旅は、終わりではない。それは、新しい始まりへの準備である。

イスラエルの民は、四十年間の荒野の旅を終え、約束の地へと導かれた。エリヤは、神の声を聞いた後、新たな使命へと向かった。イエスは、荒野での試練を経て、公の宣教を始められた。

神は言われる。

「わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)。

神のなさる新しいことを、私たちは悟ることができるだろうか。

大斎節は、ただの儀式ではない。それは、神の新しい働きに心を開くための準備期間である。

この四十日間、私たちは何を手放し、何を受け取るのか。

・自分の思い通りにする心を手放し、神の計画を受け取る
・神よりも大切にしているものを手放し、神との関係を深める
・恐れを手放し、神の愛のうちに生きる

イエスが荒野を歩まれたように、私たちもまた、この四十日間を、神の御前に静まり、御言葉を聞き、祈りと共に歩んでいこう。

この四十日間が、私たちの信仰を深め、新しい命へと導くものとなるように。

【神の言葉に生きる——信仰の歩み】

荒野を越えたイエスは、ただちに宣教を始められた。ヨルダン川での洗礼、荒野での試練を経て、今、御言葉を語る者として歩み出される。人々の暮らす町へ入り、悩める者たちのもとに行き、「神の国が近づいた」と告げられた。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)。

この宣言は、単なる知らせではなかった。それは、人々の生き方そのものを問い直す呼びかけだった。神の国は、遠い未来に訪れるものではなく、今、ここに迫っている。そのことを悟り、悔い改め、神の言葉に生きるように、と。

この呼びかけは、今日を生きる私たちにも向けられている。

1. イエスは、知識としてではなく、御言葉に生きる者であった

私たちは聖書を読む。礼拝で聞き、日々の生活の中で御言葉に触れる。しかし、それを「知る」だけで終わらせてしまっていないだろうか。

神の言葉は、単なる知識ではない。それは、日々の歩みを導き、生きる力となるものだ。

申命記には、イスラエルの民が約束の地に入る前に、モーセが語った言葉が記されている。

「この律法の言葉を心に刻み、子どもたちに語りなさい。家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも語りなさい」(申命記6:6-7)。

これは、「神の言葉を常に思い起こし、それに生きるように」という教えである。

イエスは、荒野で試みを受けられたとき、「聖書に書いてある」と答えられた。御言葉こそが、イエスの歩みを支え、導きとなっていた。

私たちの生活の中で、神の言葉はどう働いているだろうか?

・困難なとき、御言葉を思い出しているか?
・選択をするとき、神の導きを求めているか?
・誰かを励ますとき、神の言葉を語っているか?

神の言葉に生きるとは、ただ「知る」ことではなく、「実践する」ことなのだ。

2. 信仰の歩みは旅である——荒野を越えて

イスラエルの民は、エジプトを出たとき、すぐに約束の地へ入ることはできなかった。彼らは四十年間、荒野を旅しながら、神の導きを学ばなければならなかった。

信仰の歩みも同じである。

・すぐに答えが見えないことがある
・神の導きを待つ時間がある
・時には、荒野のように感じるときがある

しかし、神は決して私たちを見放されない。

「あなたの神、主は、あなたを見放すことも、見捨てることもない」(申命記31:6)。

神の御言葉に立つ者は、どんなときにも希望を持つことができる。

イエスは、荒野で神の言葉に信頼し、それに従い抜かれた。そして、公の宣教を始められた。私たちもまた、神の言葉に信頼し、信仰の歩みを続ける者となりたい。

3. どのように神の言葉に生きるのか

では、私たちは具体的にどのように御言葉に生きることができるのか。

・毎日の祈りの中で、御言葉を味わう
・生活の選択において、御言葉を基準にする
・困難の中で、神の約束を信じて歩む

イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」(ルカ4:4/申命記8:3)と言われた。

私たちは、この言葉をどれほど真剣に受け取っているだろうか。

・自分の思いを優先し、神の言葉を後回しにしていないか?
・神が語られることよりも、この世の価値観を重視していないか?
・神の言葉に立ち、信仰をもって歩んでいるか?

神の言葉に生きるとは、それを「聞いて終わる」のではなく、「選び取る」ことである。

4. 神の言葉に生きる者として、新たな歩みを始める

イエスは荒野を越え、新たな歩みを始められた。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)。

この言葉は、私たち一人ひとりに向けられている。

・神の言葉を心に刻み、それを実践する者となる
・信仰を旅路として受け入れ、神に導かれることを信じる
・大斎節のこの期間、神の言葉に生きる決意を新たにする

大斎節の四十日間は、単なる「準備の期間」ではない。それは、神の言葉に生きる者として、具体的に歩み出すための時である。

イエスが荒野を越え、新たな宣教の道を歩まれたように、私たちもまた、この大斎節を通して、神の言葉に生きる者としての新たな歩みを始めよう。

神の言葉は、ただ聞くためではない。それに生きるために与えられているのだから。

【大斎節の旅路——信仰を深める四十日間】

夜明けの静寂の中、荒野を吹き抜ける風が砂を舞い上げる。長い試練のときを経て、イエスはついに歩みを進められる。四十日間の断食と祈り、悪魔の誘惑との対峙、そして御言葉への徹底した忠実——すべてを経た今、イエスは神の国の福音を告げ知らせるために、民のもとへと向かう。

イエスの荒野の旅は、私たちにとって何を意味するのだろうか。大斎節の四十日間は、単なる宗教的な儀式ではない。それは、私たちが信仰の核心へと立ち戻るための霊的な旅である。私たちはこの期間、何を手放し、何を受け取るのか。どのようにして、神の御前に歩むのか。

1. 大斎節の本質——何を手放し、何を得るのか

大斎節は「節制の期間」として語られることが多い。しかし、それは単なる「食を控える」「何かを断つ」ための期間ではない。むしろ、何を手放し、何を神から受け取るのかを深く問うためのときである。

・執着しているものを手放し、神への信頼を新たにする
・神の御言葉を心に刻み、それを生きる決意をする
・隣人への愛を実践し、神の愛をより深く受け取る

イエスが荒野で「神の言葉によって生きる」ことを選ばれたように、私たちもまた、自分の力ではなく、神の恵みによって生きることを学ぶ。

この期間、私たちは何を求め、何に生きるのかをもう一度見直さなければならない。

2. 荒野を歩む意味——試練と恵み

荒野は、孤独と試練の場である。そこでは、快適さも保証もなく、人はただ自分の弱さと向き合うことを強いられる。しかし、聖書を見れば分かるように、神はしばしば大いなる計画の前に、まず人を荒野へと導かれる。

・モーセは、エジプトの王宮を逃れた後、ミディアンの荒野で四十年間を過ごし、そこで神の召しを受けた(出エジプト記3:1-12)。
・イスラエルの民は、約束の地へ入る前に四十年間荒野を旅し、神の導きを学んだ(申命記8:2-3)。
・エリヤは、迫害から逃れた後、荒野で神の声を聞いた(列王記上19:11-13)。
・そしてイエスもまた、公生涯を始める前に、荒野での試練を経験された(ルカ4:1-13)。

私たちもまた、人生の中で「荒野のとき」を経験する。

・祈っても答えが得られないと感じるとき
・自分の力ではどうにもならないとき
・神の沈黙を感じるとき

しかし、荒野の沈黙の中にこそ、神の語りかけがある。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11)。

荒野は、ただの試練の場ではない。それは、神との対話の場であり、信仰が精錬される場なのである。

3. どのようにこの四十日間を歩むのか

この大斎節の四十日間を、私たちはどのように歩むのか。

・祈りの中で、神の声を聞く
祈りは、神との対話である。しかし、ただ願いを伝えるだけでなく、静かに御前にとどまり、神が語られることに耳を傾ける時間を持つことが大切である。

・御言葉に生きる
イエスは荒野で「聖書に書いてある」と答えられた。御言葉こそが、信仰の根となる。毎日、聖書を開き、その言葉に耳を傾けることを心がけたい。

・隣人への愛を実践する
大斎節は、自分を苦しめるための期間ではない。それは、神の愛を知り、それを他者へと分かち合うための期間である。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

この四十日間、私たちは何を手放し、何を受け取るのか。それは、自分だけの問題ではなく、私たちがどのように他者と関わり、どのように神の愛を示すのか、という問いでもある。

4. 復活への備え——信仰の新たな始まり

荒野の旅は、終わりではない。それは、新しい始まりへの準備である。

・イスラエルの民は、荒野を越えて約束の地へと導かれた。
・エリヤは、神の声を聞いた後、新たな使命へと向かった。
・イエスは、荒野での試練を経て、公の宣教を始められた。

神は言われる。

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)。

私たちは、この四十日間の旅の終わりに、キリストの復活を迎える。そして、その復活の命は、私たち自身のうちにも生きるものである。

この四十日間が、私たちの信仰を深め、新しい命へと導くものとなるように。

私たちは何を手放し、何を受け取るのか。イエスが荒野を歩まれたように、私たちもまた、この大斎節の期間、御言葉を聞き、祈りと共に歩んでいこう。

大斎節の旅路は、復活の朝へと続いている。

【まとめ】

大斎節の四十日間、私たちはイエスの荒野の歩みを追体験する。誘惑、試練、孤独、そして神への絶対的な信頼。

イエスは荒野を経て、神の国の福音を告げる者として歩み出された。同じように、大斎節の旅路は、単なる節制や忍耐の訓練ではない。それは、新たな霊的目覚めへと導かれる旅だ。

人は何によって生きるのか。自分の力か、それとも神の言葉か。この問いに答えを出すため、大斎節はある。

この期間、私たちは何を手放し、何を受け取るのか。
・神に依り頼む心を新たにする
・御言葉に生きることを選び取る
・隣人への愛を具体的に実践する

荒野は過酷な場所だ。しかし、それは終わりではない。荒野を越えた先には、復活の朝がある。キリストが死を打ち破り、新しい命へと歩まれたように、私たちもまた、この四十日間の旅を通して新たな命へと導かれる。

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)。

神は、私たちを新しい歩みへと招いている。荒野を恐れる必要はない。試練の中でこそ、神は共におられる。大斎節の旅路を、神の言葉に支えられながら進もう。

おわりに■

私たちは今日、大斎節の最初の一歩を踏み出しました。この期間は単に宗教的な義務を果たすものではなく、神の前に立ち止まり、私たち自身が本当に何を求め、何によって生きるのかを深く見つめ直すためのものです。イエスが荒野の試練に耐え、御言葉を生きる力とされたように、私たちもまた、この社会という現代の荒野において御言葉を生きる者となることが求められています。

今週、私たちが目の当たりにした出来事の一つひとつが、社会という荒野の過酷さを私たちに突きつけています。日本社会がいまだに抱える男女格差という根深い課題を前に、真の平等を求めるためには意識だけでなく制度そのものを変革しなければならない現実があります。また、福島原発事故に対する司法の無罪判決は、法の限界を露呈したばかりか、東電という企業の社会的・道義的な責任をなおさら浮き彫りにしました。そしてトランプ政権が推し進める排他的なナショナリズムや民主主義を脅かす政策、兵庫県知事の倫理観の欠如、そして大船渡の山火事を通じて自然との共生の難しさなど、私たちは社会全体の痛みを感じ取り、共に背負う責任があります。

荒野を歩むことは、時に孤独であり、先の見えない試練に感じられます。しかし聖書は告げています。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)。私たちはパンだけに頼るのではなく、目に見えない神の御言葉を心に刻み、それを人生の指針として生きるよう招かれています。

社会の困難を前にして私たちは無力感を抱くこともありますが、御言葉の中にこそ私たちを支える力があり、そこに新たな道が開かれます。荒野は苦難だけではなく、神が新しいことを始められる場所でもあるのです。

この大斎節の四十日間を通して、私たちは何を手放し、何を受け取るべきでしょうか。私たちは自分中心の考えを手放し、神の御言葉を受け取り、それによって新たな命を得ることができます。社会の困難に直面し、そこにある痛みを共に担いながら、互いに重荷を負い合う愛の実践こそが、荒野を歩む真の意味です。

主が荒野を越えて福音を告げられたように、私たちもまた、この現代社会という荒野を越え、神の国の現実に向けて歩み出そうではありませんか。

■祈りましょう■

慈しみ深い神よ、荒野で誘惑に立ち向かわれた主イエスの姿を覚え、今、あなたの御前に深く心を鎮めます。この大斎節の四十日間、私たちが自分自身の弱さと正面から向き合い、自分の力ではなくあなたの恵みによって生きることを学ぶことができますように。荒野は孤独であり、試練の時でありますが、同時にあなたが私たちに語りかけ、真の命に目覚めさせる場所であることを覚えます。

主よ、私たちの社会には未だ多くの課題があります。女性が尊厳をもって生きられる社会を願い、傷ついた人々に正義が与えられ、権力を握る者が謙虚と倫理を取り戻すよう導いてください。また、私たちが自然との共生を大切にし、苦難にある人々に寄り添う共助の精神を実践できるよう、どうぞ私たちを力づけてください。

この大斎節の四十日間、誘惑に負けることなく、御言葉を心に深く刻み、自分自身の思いを捨てて、あなたの導きに従う決意を新たにできますように。そしてこの荒野を越え、あなたが与えてくださる復活の喜びへと歩む者としてください。

父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。

大斎始日 灰の水曜日 2025年3月5日 「説教——塵に宿る神の憐れみと復活の希望」

【聖書箇所】旧約日課 ヨエル書 2:1-2,12-17 使徒書 コリントの信徒への手紙二 5:20-6:10 福音書 マタイによる福音書 6:1-6,16-21

皆様、主の平和が共にありますように。

静寂に包まれた礼拝堂の中、一人ひとりがゆっくりと歩み寄り、祭壇の前で額に灰の印を受ける。そのたびに司祭の声が響く。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この言葉は、時を超え、世代を超えて、人類の根源的な真実を語り続けてきました。

今日、私たちは「灰の水曜日」を迎えています。この日、教会は静かに、しかし力強く私たちに語りかけます。「思い出しなさい。あなたが誰であり、どこから来て、どこへ向かうのかを。」大斎節の始まりを告げるこの日、私たちは神の前に立ち、限りある存在としての自分を見つめ直します。そして、灰の印を額に受けながら、心の奥深くに問いかけます。「私はどのように生きるべきか」と。

聖書の中で、灰を身にまとうことは、悔い改めの象徴とされてきました。ヨブは、自らの無力さを悟ったとき、灰の中に座り、神の前で自らを低くしました(ヨブ記42:6)。ニネベの人々は、神の裁きを告げられたとき、王から庶民に至るまで灰をかぶり、断食をし、真剣に悔い改めました(ヨナ書3:5-6)。灰は、単なる儀式的な行為ではなく、私たちが神の前でへりくだり、己の在り方を見つめ直すためのしるしなのです。

今日読まれるヨエル書の言葉が、まさにこの灰の水曜日の本質を突いています。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」(ヨエル2:12)神は、表面的な儀式ではなく、私たちの内側の深い部分が変えられることを求めておられます。悔い改めとは、単なる罪の告白ではありません。それは、向きを変えること。今まで歩んでいた方向から、神へと向き直ること。

パウロもまた、コリントの信徒への手紙二で強く語ります。「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」(2コリント6:2)。悔い改めの機会を「いつか」ではなく、「今この時」に受け取ることの大切さを訴えます。私たちはしばしば、「落ち着いたら」「余裕ができたら」「今は忙しいから」と言い訳をして、神への応答を先延ばしにしてしまいます。しかし、神は待っておられます。「今、ここで」あなたの心が変えられることを。

イエスは、今日の福音書で、信仰の本質を問いかけます。祈ること、施しをすること、断食すること——これらの行為は、神に向かうものですが、もしそれが人に見せるためのものであるならば、何の意味もありません(マタイ6:1-6,16-21)。信仰は、表に見えるものではなく、神との深い関係の中で育まれるものです。

大斎節は、悔い改めの季節。しかし、それは単に「罪を思い出し、嘆く」ための期間ではありません。それは、神の愛に気づき、その愛のもとへと立ち帰る旅路です。

この四十日の道のりの第一歩が、まさに今日、この「灰の水曜日」にあります。灰の印を受けた私たちは、どのような心でこの大斎節を歩んでいくのでしょうか。

神は、あなたを招いています。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」

【灰の象徴——人の限界と神の憐れみ】

灰は、すべてが燃え尽きた後に残るものです。それは、かつて確かに形を成し、役割を果たしていたものの名残。しかし、今は風に舞い、指先に触れれば跡形もなく消えていきます。静かに、何も言わず、ただそこにある灰は、人間の存在のはかなさを映し出しているかのようです。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」

この言葉は、創世記の創造の物語に深く根ざしています。神は、地の塵から人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれました(創世記2:7)。塵は、ただの土くれにすぎません。しかし、神がそこに息を吹き込まれることによって、塵は生きる者となるのです。それゆえに、私たちの命は、決して自らの力によって成り立っているのではありません。それは、神の息に生かされ、神の憐れみによって支えられているのです。

灰の水曜日に私たちは額に灰の印を受けます。その灰は、しばしば前年の受難週の枝の燃え残りから作られます。栄光の象徴として振られたシュロの枝が、一年の時を経て焼かれ、灰となり、悔い改めのしるしとして額に描かれる——これは、私たちの人生そのものを映すような象徴的な行為です。私たちは生まれ、歓喜の中で迎えられ、さまざまな経験を積み重ねながら生きていきます。しかし、やがて肉体は朽ち、元の塵に帰っていく。しかし、その一方で、神の前に悔い改め、心を新たにすることで、人は新しい命を受け取ることができるのです。

灰は、旧約聖書の中で幾度も登場します。それは、悲しみ、悔い改め、そして神の前にへりくだる姿勢の象徴でした。ヨブは、自らの限界を悟ったとき、「塵と灰の中で悔い改めます」と言いました(ヨブ記42:6)。彼は、自らの知恵と正しさに固執していたときには見えなかったものが、苦しみの中で神と向き合うことで見えるようになったのです。ダニエルも、神の憐れみを求める祈りの中で、「断食し、荒布をまとい、灰をかぶった」と記されています(ダニエル9:3)。彼は、自分自身だけでなく、イスラエルの民の罪をも背負い、神の前に立ちました。

しかし、最も劇的な悔い改めの場面は、ニネベの人々に見られます。ヨナが神の裁きを告げると、ニネベの王をはじめとして、すべての人々が断食し、灰をかぶり、神の憐れみを求めました(ヨナ書3:5-6)。彼らは、自らの罪を認め、ただ神の憐れみにすがるしかないことを悟ったのです。そして神は、彼らの悔い改めを見て、裁きを思い直されました。この物語は、神がいかなる時も人の悔い改めを待っておられることを示しています。

ヨエル書の預言者ヨエルもまた、「心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2:12)と呼びかけます。この言葉は、単なる外面的な悔い改めではなく、心の奥底からの変化を求めています。悔い改めとは、単なる「反省」ではなく、生きる方向そのものを変えることです。

パウロはコリントの信徒への手紙二の中で、「今こそ恵みの時、今こそ救いの日です」(2コリント6:2)と語りました。悔い改めは、「いつかの機会」にするものではなく、「今この時」に行うべきものです。私たちの人生は、有限です。いつか悔い改めよう、いつか神に立ち帰ろう——そう思い続けているうちに、その「いつか」は永遠に訪れないかもしれません。灰の印は、そのことを私たちに思い起こさせます。

今日の福音書の中で、イエスは私たちの信仰の在り方を問いかけます(マタイ6:1-6,16-21)。施し、祈り、断食——それらは、人々の目に見えるためのものではなく、神との関係の中で行うものです。信仰の行為は、外面的なパフォーマンスではなく、神の前で真実であることが求められます。イエスは言われました。「施しをするときには、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)。これは、私たちの信仰の実践が、神への応答として行われるべきであり、人に認められることを目的とするものではないことを示しています。

また、イエスは「自分の宝を地上に積むのではなく、天に積みなさい」(マタイ6:19-20)とも語ります。この世の富や栄光は、やがて朽ち果てるものです。しかし、神の前に積み上げられた宝は、決して朽ちることがありません。灰の印は、私たちに問いかけます。何を求め、何を大切にし、何に心を向けて生きるのか、と。

灰を受けるとき、私たちは自らの限界を知ります。自分がどんなに努力しても、どんなに富を築いても、どんなに名誉を得ても、すべてはやがて消え去ることを思い知らされます。しかし、同時に、それでも神は私たちを愛し、憐れみをもって受け入れてくださることに気づかされます。私たちは塵にすぎません。しかし、その塵に、神はご自身の息を吹き込まれました。そして、その息は、私たちが塵に帰るときも、決して私たちを離れることはありません。

神の前でへりくだり、悔い改める者を、神は決して拒まれません。ヨブが、ダニエルが、ニネベの人々がそうであったように、私たちもまた、神の憐れみのもとに帰ることができます。灰の水曜日に、私たちは自分の弱さを認めながらも、神の愛によって生かされていることを思い起こしましょう。

灰は、すべてが終わった後に残るもの。しかし、それは滅びの象徴ではなく、新しい命が始まるしるしでもあるのです。

【隠れたところにおられる神——真実な信仰のあり方】

灰の水曜日、礼拝堂の静寂の中で、信徒たちは静かに額に灰の印を受けていきます。その姿は、誰かに見せるためのものではありません。ただ、神の前で、己が何者であるのかを見つめ直すためのものです。この日、私たちは人の目ではなく、「隠れたところにおられる神」のまなざしの下で、信仰の本質を問われています。

イエスは、「人に見せるために、人前で善行を行わないように注意しなさい」(マタイ6:1)と語られました。この警告は、単に偽善を戒めるものではありません。むしろ、信仰の本質がどこにあるのかを私たちに思い出させる言葉です。私たちは、神の前にどう生きるのか。それが、何よりも重要なのです。

信仰は「隠れたところ」で育つ

古代ユダヤの社会では、施し、祈り、断食は、信仰を示す最も大切な行為とされていました。しかし、イエスは、それらが形骸化し、外面的な評価を求める手段となることを戒められました。

「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)

この言葉は、施しの本質を鋭く突いています。善い行いをすること自体は正しいのですが、それを誇示したり、他者の評価を求めるならば、その行いはもはや神のためではなく、自分自身の栄光のためのものになってしまいます。

信仰とは、誰にも知られなくとも、神の前に誠実に生きることです。イエスは、「隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6:4)と言われました。これは、私たちの信仰が、人目に映るものではなく、神の前にこそ試されるものであることを示しています。

人の目を気にする信仰と、神の目を意識する信仰

現代の世界では、私たちは常に誰かに見られ、評価されながら生きています。SNSでは、どれだけ「いいね」がつくか、どれだけ人々に認められるかが、行動の動機になってしまうことがあります。善行でさえ、人に見せるためのものになりがちです。

しかし、イエスが示された信仰は、そのような表面的なものとは異なります。信仰の行為は、誰かに見られるためではなく、神との関係の中で静かに育まれるものです。

たとえば、祈るとき——イエスは「奥まった自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられる父に祈りなさい」(マタイ6:6)と言われました。これは、私たちの信仰の在り方を問う言葉です。神への祈りは、見せるものではなく、ただ神の前に静かに向かうものなのです。

断食の本質——神の前に生きること

さらに、イエスは断食についても語られました。「断食するときには、顔を洗い、頭に油を塗りなさい」(マタイ6:17)。これは、断食の本質が人に見せるためのものではなく、神への応答としてなされるべきものだということを示しています。

ユダヤの伝統では、断食の際に顔をこわばらせ、悲しみを前面に出すことが敬虔さの証とされていました。しかし、イエスはそれを拒まれました。信仰とは、人に認められることではなく、神の前でどのように生きるかということが問われるものだからです。

神の報いは「隠れたところ」で与えられる

イエスは、「隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と繰り返し語られました。この「報い」とは何でしょうか。それは、人の評価ではなく、神との親しい交わりに生きることそのものです。

信仰とは、神の前で誠実に生きることです。それは、人の目に映らない場所での生き方にこそ現れます。誰にも見られなくても、私たちが誠実に生きるとき、神の報いはすでに与えられているのです。

灰の水曜日に問われるもの

灰の水曜日は、私たちの信仰の在り方を見つめ直す時です。人の目を気にするのではなく、神の前にどう生きるのか——それこそが、大斎節の始まりにふさわしい問いなのです。

静かに灰の印を受けるとき、私たちは「隠れたところにおられる神」と向き合います。人の評価ではなく、神の目を意識して生きる信仰へと招かれるのです。

【天に積む宝——私たちの生きる目的】

人は、生きている間に何を築き、何を遺そうとするのでしょうか。私たちは日々、財をなし、知識を蓄え、人との関係を築き、社会的な成功を求めながら生きています。けれども、それらのすべては、時間の流れとともに移ろい、やがて手のひらから零れ落ちるものではないでしょうか。

灰の水曜日に告げられる言葉——「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この宣言は、ただ死の現実を告げるものではありません。それは、私たちがこの世において何を求め、何を宝として生きるのかを問い直す、深遠な呼びかけなのです。

朽ちる宝と永遠の宝

イエスは、「自分の宝を地上に積むのではなく、天に積みなさい」(マタイ6:19-20)と言われました。この世で私たちが積み上げようとするものは、どれほど価値のあるものに見えたとしても、決して永遠ではありません。富は増えるかもしれませんが、盗まれることもあれば、使い果たしてしまうこともある。地位や名声は、ある日突然、失われることがあります。知識や業績も、時の流れの中で色あせ、忘れ去られてしまうでしょう。

私たちは皆、この世の歩みにおいて、多かれ少なかれ「積み重ねること」に励みます。しかし、それらは本当に私たちの魂の糧となるものでしょうか。それとも、私たちの目を曇らせ、神の国への道を見失わせるものなのでしょうか。

天に積む宝とは何か

「天に積む宝」とは、神の御前に価値を持つものです。それは、人の評価や社会の基準とはまったく異なります。パウロは、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13:13)と語りました。愛は、私たちがこの地上で築きながらも、神の国へと持ち越せる唯一のものなのです。

愛とは、単なる感情ではなく、行為です。天に積む宝とは、具体的な行いとして示される愛に他なりません。

・傷ついた人に寄り添い、癒しの言葉をかけること
・他者を赦し、和解の道を選ぶこと
・ひそやかに祈り、誰かのために神の恵みを願うこと
・何かを失うことを恐れず、惜しみなく与えること

これらの行為は、目に見える富とは異なり、すぐに結果が表れるものではないかもしれません。誰にも知られずに終わることもあるでしょう。しかし、神の前では、これこそが決して滅びることのない「宝」となるのです。

どこに宝を置くのか——心の向かう先

イエスは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)と言われました。私たちの心は、何を宝とするかによって、その在り方が決まります。

もし、私たちが地上の富や名声を最も大切にするなら、私たちの心はそこに縛られます。しかし、私たちが神の国を第一に求めるならば、私たちの心はそこへ向かいます。

人生の終わりに至るとき、私たちは「何を得たか」ではなく、「何を与えたか」を問われるのではないでしょうか。この世の基準では、どれほど成功したかが重要視されるかもしれません。しかし、神の国の価値観においては、「どれだけ愛したか」が問われるのです。

私たちは皆、やがて地上の旅路を終え、神の御前に立つ日が来ます。その時、私たちは何を手にしているでしょうか。自分のために築いたものか、それとも、他者に注ぎ、惜しみなく与えた愛の業か。

天に積む宝を求める歩み

大斎節は、私たちが「何を宝とするのか」を見つめ直す時です。

この四十日間の旅を通して、私たちは改めて自分の歩みを振り返ります。私たちは何を求めて生きているのか。地上のものに執着してはいないか。私たちの心は、本当に神の国へと向かっているのか。

イエスが私たちに求めておられるのは、偽りのない、純粋な信仰です。神の前で静かに、誠実に生きること。施し、祈り、断食——それらが人の目のためではなく、ただ神のために行われること。それが、天に積む宝となるのです。

この世の価値観にとらわれず、神の国の価値を生きること。それこそが、私たちに求められている歩みではないでしょうか。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。」

この言葉を胸に刻みながら、大斎節の旅路を歩んでいきましょう。

【悔い改めの恵み——神の招きに応える】

しんと静まり返った礼拝堂で、灰の印を受けながら、私たちはある言葉を思い起こします。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この宣言は、私たちの儚さと限界を突きつける言葉です。しかし、それだけではありません。これは、神のもとへ立ち帰るようにという、深い憐れみに満ちた招きでもあるのです。

灰の水曜日を迎えるたび、私たちは「悔い改めること」の意味を考えます。悔い改めとは、単なる罪の告白ではなく、人生の方向を根本から変える決意です。それは、新しい光のもとで歩み始めるための恵みの機会なのです。

「心からわたしに立ち帰れ」——神の求める悔い改め

ヨエル書の預言者ヨエルは、「心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけます(ヨエル2:12)。これは、「表面的な行いではなく、心の奥底から神へと向き直ることが必要だ」というメッセージです。

旧約の時代、イスラエルの民は、断食し、荒布をまとい、灰をかぶることで悔い改めのしるしを示しました。しかし、ヨエルは「衣を裂くのではなく、心を裂け」(ヨエル2:13)と訴えます。これは、「外側の儀式ではなく、心の真実な変化こそが神の求めるものなのだ」という強烈なメッセージです。

この言葉は、私たちの信仰生活にも当てはまります。神は、ただ「悔い改めの言葉」を求めているのではありません。私たちの人生の方向が、本当に神の方へと向かっているのかどうかを問うておられるのです。

「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」

パウロは、コリントの信徒への手紙二で「今こそ恵みの時、今こそ救いの日です」(2コリント6:2)と語りました。この言葉は、私たちに悔い改めの緊急性を思い起こさせます。

私たちは、「もっと落ち着いたら」「状況が変わったら」「準備が整ったら」——そう言って、悔い改めを先延ばしにしがちです。しかし、神の招きは「いつか」のものではなく、「今この時」のものなのです。

聖書には「今」という言葉が何度も登場します。なぜなら、神の恵みは過去のものでもなく、未来のものでもなく、「今」私たちに与えられているからです。神は、私たちが「もう少し準備ができたら」ではなく、「今、立ち帰ること」を望んでおられます。

「悔い改め」は罰ではなく、愛への招き

「悔い改め」という言葉には、時に「罪の重荷を背負うこと」というイメージがつきまといます。しかし、聖書が語る悔い改めは、裁きや罰のためではなく、愛へと招かれるためのものです。

イエスが語られた放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)は、そのことをはっきりと示しています。

遠い国で財産を使い果たし、飢えに苦しんだ息子は、絶望の中で「父のもとへ帰ろう」と決意しました。彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。ただの雇い人の一人にしてください」と言おうと考えていました。

しかし、彼の帰りを待ち続けていた父は、遠くに彼の姿を認めると、走り寄り、抱きしめました。彼は「息子としての資格はない」と思っていましたが、父は彼を「息子として」迎え入れました。

このたとえ話は、神の愛の本質を映し出しています。神は、罪にまみれた私たちを裁くために待っておられるのではなく、「帰ってくるなら、いつでも迎えよう」と待ち続けておられるのです。

だからこそ、悔い改めは「恐れるべきもの」ではなく、「恵みの扉が開かれる瞬間」なのです。

「私たちは、本当に変われるのか?」

それでも、私たちは「本当に変われるのか?」という疑念を抱くことがあります。「何度も同じ過ちを繰り返している」「本当に神は赦してくださるのか?」——そんな不安がよぎることもあるでしょう。

しかし、聖書は繰り返し語っています。

「主は憐れみに富み、怒るに遅く、慈しみに満ちておられる」(ヨエル2:13)。

神は、私たちがどんなに遠くへ離れても、戻ってくるならば赦してくださるお方です。どれほど自分が罪深いと思っていても、神の憐れみはそれをはるかに超えるものなのです。

神のもとへ立ち帰る——今、この瞬間に

大斎節の期間、私たちはこの悔い改めの道を歩んでいきます。しかし、それは暗く重苦しい道ではありません。それは、神が待っておられる道なのです。

神は、私たちが完全な人間になることを求めておられるのではありません。ただ、「心を尽くして、立ち帰ること」を望んでおられます。

悔い改めとは、罰を受けることではなく、神の愛の中にもう一度生きること。

赦しは、いつでも神のもとにあります。だからこそ、私たちは「今」神の招きに応えなければなりません。

「今こそ恵みの時、今こそ救いの日。」

この言葉を胸に、私たちは神のもとへと帰り、新たな歩みを始めていきましょう。

【灰の水曜日から始まる旅——新しい心で歩む】

礼拝堂の静寂の中、灰の印が額に描かれるとき、私たちは「あなたは塵であり、塵に帰るのです」という言葉に心を向けます。この言葉は、人の儚さを告げると同時に、神の愛の深さを思い起こさせます。私たちは限りある存在ですが、その限りある命が、神の手の中でどのように生かされるのかを、この灰のしるしは問いかけているのです。

「新しい心を造ってください」——内側からの変革

灰の水曜日を迎えるたび、私たちは悔い改めとは何かを考えます。しかし、それは単に「過去を振り返り、誤りを正すこと」ではありません。それは、神の前に心を開き、新たに造り変えられることへの願いなのです。

詩編の詩人は祈ります。「神よ、わたしに清い心を造り、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)。この祈りは、私たちの変革が自己努力によるものではなく、神の恵みによってなされるものであることを示しています。

エゼキエル書には、神の約束としてこう記されています。「わたしはあなたたちに新しい心を与え、あなたたちの中に新しい霊を授ける。石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。神は、私たちの頑なな心を柔らかくし、愛と憐れみに満ちた心へと変えてくださるのです。

悔い改めとは、自分を責めることではなく、神に心を開くこと。自分を変えようとするのではなく、神に変えていただくこと。それは、自己否定ではなく、神による新しい創造なのです。

大斎節の四十日間——試練と恵みの旅

灰の水曜日から始まる四十日間の大斎節は、イエスが荒野で過ごされた四十日間に倣うものです(マタイ4:1-11)。荒野は、孤独と試練の場でした。しかし、それは同時に、神との深い交わりの場でもありました。

私たちの人生にも、荒野のような時があります。目の前の道が見えず、祈っても神の声が聞こえないように感じることがあります。しかし、イエスが荒野を通られたように、私たちもまた、この試練の時を通して神に近づくことができるのです。

大斎節の四十日間は、何かを「失う」期間ではなく、「見つける」期間です。

・不要な執着を手放し、神への信頼を深める
・祈りの中で、神との対話を深める
・隣人への愛を実践する

断食や節制は、「神こそが私たちの真の糧である」ことを思い起こさせます。私たちは、物質的な豊かさや自分の力に頼るのではなく、神の言葉によって生きる者へと変えられていくのです。

「灰の水曜日は、復活の希望へと続く」

灰の水曜日は、悔い改めの始まりの日であると同時に、復活へと続く道の第一歩です。

私たちは、この日、自らの限界を知ります。しかし、それと同時に、神が限界を超えて働かれることを信じる日でもあります。

「あなたは塵であり、塵に帰る。」

この言葉は、私たちの存在のはかなさを告げますが、それは絶望の宣告ではありません。それは、神の手の中で新しい命へと生まれ変わる希望の宣言でもあるのです。

聖書の中で、神は塵から人を造られました(創世記2:7)。塵は、無価値なものではなく、神の創造の素材です。神は、塵に息を吹き込み、命を与えられました。そして、私たちが再び塵に帰るとき、神は再び新しい命を与えてくださるのです。

だからこそ、灰の水曜日は、復活の希望へと続く道の第一歩なのです。

赦しと新たな歩み

灰の水曜日のもう一つの大切なテーマは「赦し」です。私たちは、神の前に罪を告白し、赦しを求めます。しかし、それは「裁かれるため」ではなく、「新しく生きるため」です。

放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)が示すように、神は罪を裁くためではなく、悔い改める者を迎えるために待っておられます。

父のもとへと帰った息子は、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言おうとしました。しかし、父はその言葉を遮るように彼を抱きしめ、衣を着せ、宴を開きました。

神の赦しとは、こういうものです。

・条件なしに、迎え入れる赦し
・過去を問わず、新しい未来を開く赦し
・拒むことなく、抱きしめる赦し

この赦しの恵みを受けたとき、私たちもまた、他者を赦し、新たな歩みを始めることができるのです。

結びにかえて

灰の水曜日は、私たちの限界を思い起こさせる日でありながら、神の無限の愛と赦しを思い起こさせる日でもあります。

この日、私たちは悔い改めを決意します。しかし、それは悲しみに満ちた決意ではなく、神の愛の中での決意です。

「今こそ恵みの時、今こそ救いの日。」

この言葉を胸に、私たちは神のもとへと帰り、新たな歩みを始めていきます。

灰は、ただ朽ちるものの象徴ではありません。それは、新しい命の始まりのしるしです。

私たちは、塵にすぎません。しかし、その塵に神は息を吹き込み、新たな命を与えてくださるのです。

この大斎節の旅を通して、私たちはどこへ向かうのでしょうか。地上のものではなく、天に積む宝を求めるのか。自分の力ではなく、神の恵みによって生きるのか。

灰の水曜日から始まるこの旅路が、私たちをより神に近づけ、より愛に生きる者へと変えていくことを願いながら、新たな歩みを始めていきましょう。

【灰の水曜日の祈り】

永遠の神、天地の造り主、
あなたは御手をもって塵を集め、私たちに命の息を吹き込まれました。
あなたの御前に立つ私たちは、ただの塵にすぎず、
やがてその塵に帰る者であることを、
今日、この灰のしるしをもって心に刻みます。

憐れみ深き主よ、
私たちは幾度も道を誤り、
己の知恵に頼り、虚栄に心を奪われ、
あなたの御声に背を向けてまいりました。
にもかかわらず、あなたは私たちを捨てず、
「心からわたしに立ち帰れ」と慈しみをもって呼びかけてくださいます。
どうか今、この頑なな心を砕き、
あなたの愛の中に生きる者とならせてください。

全能の父よ、
あなたの御前に、私たちは衣を裂くのではなく、
心を裂いて悔い改めます。
私たちの隠れた罪を洗い清め、
朽ちるものに執着する心を取り除き、
あなたが与えようとしておられる、
新しい霊と確かな信仰を授けてください。
この大斎節の歩みを通して、
より深くあなたを知り、
より真実にあなたを愛する者となることができますように。

聖なる救い主、主イエス・キリストよ、
あなたは荒野の試練に耐え、
罪なきお身体を十字架に捧げられました。
それは、私たちが罪の闇から解き放たれ、
新しい命に生きるためでした。
どうか私たちがこの四十日の旅の中で、
あなたの御足の跡をたどることができますように。
断食と祈りのうちに、己を誇ることなく、
ひそかに施し、へりくだってあなたに仕えることができますように。
私たちの目をこの世のものから引き離し、
天に積む宝を求める心を与えてください。

聖霊なる神よ、
あなたは柔らかな風のように、
静かに、しかし確かに、
私たちの心に働かれます。
どうか今、私たちを新たにし、
冷え切った心に命の火を灯してください。
この大斎節の間、誘惑に惑わされることなく、
主にある平安のうちを歩むことができますように。

主よ、私たちは塵にすぎません。
しかし、その塵に、あなたは御手を伸ばしてくださいます。
私たちは脆く儚い存在ですが、
あなたの憐れみによって新しくされます。
この灰の水曜日が、悔い改めの苦しみではなく、
新しい命へと生まれ変わる希望の日となりますように。

父と子と聖霊の御名によって、
アーメン。

大斎節前主日 2025年3月2日 《教会時論》 《説教 変容の光に生きる――神の臨在と愛の実践》

+主の平和がありますように。

早春の冷たさが残る日々ですが、時折差し込む陽光に、春の訪れを感じる頃となりました。皆様のご健康はいかがでしょうか。私たちはこうして神の御前に集い、共に祈り、御言葉に耳を傾ける恵みを与えられていることを心から感謝いたします。季節が移り変わる中で、私たちの心もまた、新たな歩みへと導かれていくことを感じます。

この日曜日を迎えるにあたり、私たちは教会暦の一つの転換点に立っています。大斎節前主日、すなわち灰の水曜日を目前に控えたこの日は、信仰の旅路において特別な意味を持つ時です。やがて訪れる大斎節は、悔い改めと霊的鍛錬の期間であり、主イエス・キリストが荒野で四十日間断食し、試練を受けられたことを覚える時です。この四十日間の歩みは、単なる伝統ではなく、私たちが神との関係を深め、自らを見つめ直すための霊的な旅路なのです。

この大斎節前主日は、その入り口に立ち、これから始まる信仰の旅を見据える日です。まるで山の頂から広大な景色を見渡すように、私たちはここで立ち止まり、来たるべき霊的な道程を静かに見つめる機会を与えられています。今日の福音書に記される「主の変容」の場面は、まさにその象徴です。イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴い山に登り、栄光に輝かれる姿を弟子たちに示されたこの出来事は、私たちにとって深い示唆を与えます。神の栄光の輝きを仰ぎ見る時、私たちは同時に、その栄光が十字架の苦しみを経て現れるものであることを思い起こさねばなりません。信仰の道は、ただ喜びや栄光に満ちたものではなく、時には試練や困難を通してこそ、より深い意味を持つのです。

私たちもまた、この大斎節前主日にあたり、己の歩みを振り返る時を持ちたいと思います。私たちは今、どのような信仰の道を歩んでいるでしょうか。主の光に照らされる時、私たちは自らの弱さや過ちを見出し、それを悔い改める機会が与えられます。そして、その悔い改めこそが、主の愛と赦しの深さを知る恵みの時となるのです。大斎節とは、私たちが新たにされるための時であり、主の御前に立ち返る機会です。

今週、世界ではさまざまな出来事がありました。戦争の脅威はなお続き、政治の混乱や経済的不安が多くの人々の生活を揺るがしています。私たちの暮らす社会は、不確実性と混沌の中にあります。しかし、だからこそ、私たちはキリスト者として、どのように生きるべきかを深く考えなければなりません。世の不安にただ流されるのではなく、信仰の光を頼りに、愛と正義をもってこの世界に関わることが求められています。

教会時論を通して、私たちは今日の世界において果たすべき使命を探り、共に考えていきたいと思います。聖書が示す真理を指針とし、私たちの信仰が単なる内面的な思索にとどまることなく、社会に対する責任ある行動へと結びついていくように願います。主の導きのもと、私たちがこの時をどう歩むべきかを共に見つめていきましょう。

 

《教会時論》

現代社会における課題に目を向け、私たちがどのように関わり、どのような責任を果たすべきかを共に考えたいと思います。私たちは日々、社会の動きと向き合い、その変化の中で自身の価値観や信念を問い直す機会を与えられています。時に、社会の激動は私たちの心を大きく揺さぶり、不安や戸惑いを覚えさせます。その中で、私たちはどのような態度を持ち、どのように歩むべきかを、今一度深く考える時がきています。

いま世界は、大きな転換点にあります。国際社会では、民主主義の根幹が揺らぎ、政治の不透明さや経済の不安定さが深刻さを増しています。ナショナリズムの台頭、権威主義的な政治の広がり、社会の分断の加速——これらの現象は決して遠い国の出来事ではなく、私たちが生きるこの社会にも影響を及ぼしています。日本国内においても、経済指標が示す数字とは裏腹に、人々の暮らしは厳しさを増し、格差が広がり続けています。誰もが平等に希望を持てる社会を目指すはずの政治が、果たしてその役割を十分に果たしているのか、改めて問われています。

さらに、言論の自由や学問の独立が揺らぐ中で、真実を知る権利や、多様な意見が尊重される社会の在り方が脅かされています。情報の操作や誤った言説の拡散が進む中で、私たちは何を信じ、どのように判断するべきかを慎重に考えなければなりません。死刑制度や司法のあり方、教育の機会均等、社会的弱者の権利、経済政策の公平性——これらは単なる時事的な話題ではなく、社会の根幹にかかわる問題であり、私たち一人ひとりの生き方に直結する重要な課題です。

今日取り上げるニュースは、どれも私たちの社会のあり方を映し出すものであり、決して他人事として済ませることはできません。政治の透明性、経済の公正さ、人権の保障、死刑制度の是非、そして極端な政治思想の広がり。これらの問題に対して、私たちはどのような姿勢を持ち、どう行動すべきなのでしょうか。こうした社会の課題を前に、キリスト者としての使命をどのように果たしていくべきかを、聖書の教えと照らし合わせながら考えていきたいと思います。

主は、「あなたがたは世の光である」と語られました。光は闇の中でこそ輝きを放つものです。困難や混乱があるからこそ、私たちは信仰を持ち、正義と真実を求め続けるべきではないでしょうか。社会の課題に目を背けるのではなく、その現実を直視し、解決に向けて祈り、語り、行動すること。それこそが、私たちがキリストに従う者として求められている責任なのです。今日の議論が、私たち自身の信仰と社会的責任について深く考える契機となることを願います。

【維新県議の情報漏えいと民主主義の危機】

政治の公正さは民主主義の土台であり、その信頼を守ることはすべての公職者に課せられた責務です。しかし、兵庫県議会で明るみに出た情報漏えいの問題は、政治が本来持つべき誠実さを根本から揺るがすものでした。

日本維新の会に所属する増山誠県議、岸口実県議、及び別の1名(氏名不詳)の3人が、斎藤元彦兵庫県知事のパワーハラスメント疑惑に関する調査の過程で、告発者である元兵庫県民局長(故人)の個人情報を外部に流出させ、特定の政治目的に利用していたことが発覚しました。これは、単なる政治倫理の逸脱にとどまらず、民主主義の根幹を揺るがす重大な問題です。

特に問題視されるのは、増山誠県議が、県議会の調査特別委員会(百条委員会)で行われた証人尋問の録音データを、兵庫県知事選の告示直後に外部に提供していたことです。この録音には、知事の元側近であった元兵庫県副知事が、告発者である元県民局長(2023年7月に死去)の個人情報に触れる場面が含まれていました。その後、岸口実県議は、元県民局長を「黒幕」と断じた文書を、ある政治団体(団体名不詳)に提供し、SNS上での誹謗中傷を助長しました。

その結果、元県民局長は世間からの強い圧力にさらされ、最終的には命を絶つに至った可能性が指摘されています。公職者の行為によって、個人の尊厳が踏みにじられ、生命までも危険にさらされるという現実は、民主主義国家として決して容認できるものではありません。

証人尋問を非公開とする決定は、調査の公正性を確保し、当事者の安全を守るためのものでした。しかし、増山誠県議は「県民が真実を知らないまま選挙に入ることに危機感を抱いた」と弁明しましたが、結果的には選挙戦の流れを特定の方向に誘導しようとする意図があったことは明白です。

民主主義は情報の透明性によって支えられていますが、その透明性は公正さと倫理の枠内で維持されるべきものです。特定の目的のために情報を都合よく利用する行為は、透明性の本質を損ない、民主主義の根幹を損ないます。

今回の問題が示す本質的な危機は、単なる情報の漏えいではなく、それが意図的に政治的な武器として使われたことにあります。告発者の私生活に関する情報が暴露され、世間の目にさらされたことで、その人物の信頼や人生そのものが破壊されようとしました。

さらに、NHKから国民を守る党代表だった立花孝志氏が拡散した情報の中には事実とは異なる内容も含まれていたとされています。こうした誤った情報が短期間のうちにSNSを通じて拡散し、社会の認識を歪めたのは、政治的プロパガンダの典型であり、民主主義に必要な健全な議論を不可能にするものです。

この事件を単なる地方政治の問題として片付けてはなりません。情報が氾濫する現代社会において、特定の権力者が意図的に情報を操作し、世論を誘導する危険性は、すでに世界中で顕在化しています。日本でもこのような手法が公然と用いられるようになれば、政治への信頼は決定的に失われ、民主主義の基盤そのものが崩れ去るでしょう。情報を操作することで民意が歪められるならば、それはもはや民主主義とは言えません。

政党の対応も厳しく問われるべきです。日本維新の会の代表である吉村洋文・大阪府知事は、今回の行為を「ルール違反」と認めつつも、「本人たちの思いは分かる」と発言しました。しかし、こうした発言は、事実上、不正行為に一定の理解を示すものと受け取られかねません。もし政治家が「規則を破ることにも理由がある」と言い始めたら、政治の倫理は際限なく崩れてしまいます。政党のリーダーが明確な態度を示さず、不正を曖昧にすれば、有権者の政治への信頼は失われる一方です。

聖書には、こうあります。「偽りの証言をしてはならない」(出エジプト記20:16)。これは、単なる道徳の教えではなく、社会の公正さを守るための基本的な原則です。私たちは、真実に基づいて判断し、誤った情報に流されないよう慎重であるべきです。また、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)という言葉は、個人の関係性だけでなく、社会全体の在り方にも適用されるべきものです。政治においても、互いの尊厳を認め、正義と誠実さをもって対話することが求められます。

私たち市民も、この問題を他人事として見過ごしてはなりません。政治の透明性を守るためには、市民が正しい情報をもとに判断し、必要な時には声を上げることが不可欠です。公正な選挙が行われるためには、政治家の行動を厳しく監視し、誤った情報に振り回されない社会的な成熟が必要です。民主主義は、一人ひとりの意識によって守られるものです。政治家だけでなく、市民一人ひとりがこの事件をどう受け止め、どう行動するかが、社会の未来を決めるのです。

この事件は、単なるスキャンダルではなく、情報操作の危険性と民主主義の根幹を揺るがす問題として捉えるべきです。私たちは、誠実な政治を求め続け、透明性と公正を守るために、日々の生活の中で何ができるのかを問い続ける必要があります。光は闇の中でこそ輝きを放つものです。正義と誠実さを大切にし、より良い社会のために信仰に基づいた行動を示していきましょう。

【GDP過去最大—生活の実感には程遠い】

内閣府が発表した2024年の国内総生産(GDP)は609兆2887億円に達し、過去最大を記録しました。しかし、この数値が示す「成長」は、果たして私たちの暮らしの豊かさを意味するものなのでしょうか。物価変動を除いた実質GDPの増加率はわずか0.1%。それは、経済全体としての成長ではなく、一部の層に利益が集中する現実を浮き彫りにしています。私たちが目にするのは、日々の暮らしの中で広がる格差、そして増大する生活の不安です。

この「成長」が誰のためのものかを見極めることが重要です。円安の影響もあり、輸出企業を中心に大企業の業績は好調を維持し、財務省の発表では、大企業の内部留保は600兆円を超えて過去最高となりました。これは、一握りの企業にとっては繁栄の証かもしれません。しかし、その富は国民の暮らしに行き渡っているでしょうか。実質賃金は前年比0.2%減少し、労働者の生活はむしろ苦しくなっています。賃金の伸びが物価高に追いつかない現実の中で、多くの家庭は日々の生活を維持することに精一杯です。

特に年金生活者や障害を抱える人々にとって、現在の経済状況は深刻です。年金支給額の改定は物価上昇に見合うものではなく、高齢者の多くが食費や光熱費を切り詰めながら暮らしています。「老後の安心」とされてきた年金制度も、もはやその機能を果たしているとは言い難く、不安の中で老後を迎える人々が増えています。また、障害を持つ人々は、支援制度の不備と物価高騰の二重の圧迫に直面し、医療費や生活費の負担増に苦しんでいます。「成長」が本物であるならば、その恩恵が最も支援を必要とする人々に届かなければなりません。

政府はこの状況をどう見ているのでしょうか。経済政策は「成長」を強調し、企業の競争力向上や市場活性化を推進するものの、低所得者や社会的弱者への直接的な支援は後回しにされています。企業には減税が適用される一方で、労働者の賃金は上がらず、消費税や社会保障の負担は増え続ける。この構造が続く限り、格差はますます拡大し、一部の富裕層と大企業が繁栄を享受する一方で、国民の大多数は経済的な不安を抱えたまま生きることになります。

聖書には「あなたがたのうちで最も小さい者が、最も偉大な者となる」という言葉があります。これは、社会の最も弱い立場にある人々にこそ、最大の配慮が必要であることを示しています。もし経済の「成長」が富裕層と企業だけに恩恵をもたらし、貧困層や障害を抱える人々が取り残されるような社会であるならば、それは聖書の示す正義とは相容れません。経済の本当の成功とは、単なる数字の向上ではなく、すべての人々が安心して暮らせる環境が整うことにこそあるべきです。

かつて、日本は「一億総中流社会」と呼ばれ、多くの人々が安定した暮らしを享受していました。しかし、現在ではその姿は失われ、格差は拡大の一途をたどっています。賃金が上がらず、物価だけが上昇し、社会保障の負担が増えるなかで、国民の生活の質は確実に低下しています。聖書には「富める者はますます富み、貧しい者はますます乏しくなる」とあります。この言葉が現代社会の現実となってしまっている今、私たちはどのように向き合うべきでしょうか。

私たちは、社会の最も困難を抱える人々にこそ目を向けなければなりません。政府には、大企業の内部留保を適切に活用し、賃金上昇や社会福祉の充実に資する政策を求めるべきです。また、低所得者への直接的な支援策を拡充し、生活の安定を図ることが急務です。同時に、私たち一人ひとりも、社会の仕組みを知り、公正な富の分配を求める声を上げる必要があります。

聖書には「主は飢えた者に良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返される」とあります。この言葉は、経済的な不均衡を正すことが神の御心であることを示唆しています。成長の名のもとに、一部の人々だけが富を享受し、その他の多くの人々が苦しむ社会は、決して健全ではありません。真に目指すべきは、すべての人が経済的安定を実感できる社会です。単にGDPの数字が伸びることではなく、その恩恵が公平に分配され、誰もが豊かさを享受できる社会こそが、私たちの目指すべき姿ではないでしょうか。

経済のあり方は、単なる政策や統計の問題ではなく、人間の生き方そのものに関わる問題です。富の偏在を正し、誰もが安心して生きることができる社会を築くことこそ、私たちの使命であると信じます。今こそ、行動を起こすときです。

【高校無償化合意—教育の機会均等か、新たな格差の温床か】

高校無償化の合意は、日本の教育政策において大きな転換点となっています。自民、公明、日本維新の会の三党による合意のもと、2025年度から高校授業料の無償化がすべての世帯を対象に実施されることになりました。これにより、公立・私立を問わず年11万8800円の就学支援金が支給され、さらに2026年度からは私立高校に通う生徒への支援額の上限が45万7000円に引き上げられ、所得制限も撤廃される見込みです。一見すると、高校進学率がほぼ100%に達している現代において、すべての子どもが学ぶ機会を平等に享受できる制度が整備されたかのように思えます。しかし、この施策が果たして真の「機会均等」へとつながるのか、それとも新たな教育格差を生む原因となるのか、慎重な検証が求められます。

教育の無償化は、多くの家庭にとって朗報であることは間違いありません。特に、経済的な事情で進学をためらっていた家庭にとって、この政策は子どもたちの未来を開く大きな支えとなるでしょう。しかし、学びの機会が名目上は均等に与えられたとしても、その中身が伴わなければ、教育の本質は守られません。単に費用を免除するだけではなく、教育環境の向上と質の確保こそが求められています。

懸念される問題の一つは、私立高校の授業料の値上げです。東京都や大阪府ではすでに私立高校の無償化が進んでいますが、その結果、一部の学校では授業料が引き上げられる事態が発生しました。公的な支援の拡充が学校側の便乗値上げにつながるようなことがあれば、結果として保護者の負担は減らず、支援の意義が損なわれてしまいます。教育費の補助が本来の目的通りに機能するためには、各学校の授業料の適正化と、補助金の使途が適切であるかを監視する仕組みが不可欠です。

もう一つの大きな課題は、公立高校の衰退の可能性です。東京都や大阪府では、私立高校への支援が手厚くなるにつれ、公立高校の人気が低下し、一部の学校では定員割れが生じています。もし「私立=良質な教育」「公立=教育水準が低い」というイメージが定着してしまえば、公立高校の地盤は大きく揺らぎます。本来、教育の場はどの学校であっても平等であるべきですが、政策の実施方法を誤れば、「格差の是正」ではなく、「新たな不平等」を生み出しかねません。

さらに、この政策の持続可能性も問われています。年間5000億円を超える財源が必要とされていますが、政府はその具体的な確保策を十分に示していません。経済状況の変化や財政の逼迫によって、将来的に支援額が削減される可能性も考えられます。短期的な施策としては効果的でも、長期的に持続可能な仕組みでなければ、子どもたちの教育環境を安定して支えることはできません。教育の機会均等を本気で実現するのであれば、安定した財源の確保が不可欠であり、一時的な政策ではなく、制度としての確立が求められます。

この施策が教育の質を向上させることにつながるのかも、十分に検証されるべき点です。現在、日本の教育現場では教員不足や過重労働の問題が深刻化しており、授業料の無償化だけではこれらの課題は解決できません。教育の質を向上させるためには、教員の待遇改善、学習環境の整備、そして何よりも、子どもたちが安心して学べる環境を作ることが不可欠です。無償化が真に価値あるものとなるためには、こうした総合的な改革が同時に進められる必要があります。

聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。教育もまた、単に学費の負担を取り除くことが目的ではなく、人としての成長を促し、より良い未来を築くための礎となるものでなければなりません。単に経済的な支援を与えるだけではなく、知識を正しく活用し、社会の中で責任を果たせる人間を育てることこそが、本当の教育の役割です。無償化政策が、単なる制度の整備に終わらず、すべての子どもたちの可能性を最大限に引き出すものとなるよう、より一層の慎重な議論が必要です。

また、「子どもを怒らせず、主の教えと諭しによって育てなさい」との言葉もあります。教育とは単なる知識の伝達ではなく、人格を育み、共に生きる力を養うことにほかなりません。もし無償化政策が、経済的な支援に重点を置くあまり、教育そのものの質を低下させるものであれば、それは本末転倒です。教育を受けることがすべての子どもにとって希望となるよう、社会全体で支え合うことが求められます。

この政策が本当にすべての子どもたちにとって有益なものとなるのか、私たちはしっかりと見極めなければなりません。単に制度を導入することが目的ではなく、その実効性を冷静に分析し、必要な対策を講じることが重要です。政府は、私立高校の授業料の適正な管理、公立高校の教育水準の維持と向上、教員不足の解消と教育環境の改善、持続可能な財源確保の道筋を明確にする責務を負っています。

市民としても、教育のあり方に関心を持ち、地域社会や教会を通じて子どもたちの学びを支える取り組みを行うことが大切です。教育は社会全体の未来を形作るものであり、単なる無償化という施策にとどまらず、すべての子どもたちが公平に学び、成長できる環境を築いていくことが求められています。未来を担う子どもたちのために、私たち一人ひとりが何をすべきかを考え、行動する時ではないでしょうか。

【日本学術会議改組—独立性の確保か、政府の統制強化か】

日本学術会議の改組をめぐる議論は、単なる組織改革にとどまらず、学問の自由と政府の統制という根本的な問題を問い直すものとなっています。政府は、学術会議の選考過程の透明性を高め、より多様な知見を取り入れるためとして「選考助言委員会」や「評価委員会」の設置を盛り込んだ法案を準備しています。しかし、こうした制度改革が、学術会議の独立性を損ない、学問が政治の意向に左右されることにつながるのではないかという懸念が広がっています。

学術会議は戦後、日本の科学者を代表する機関として設立され、時に政府の政策に対して批判的な提言を行う役割を担ってきました。そのため、政府が学術会議の運営に直接関与する仕組みを持ち込めば、研究の方向性や内容に影響を及ぼし、学問の自由が脅かされる可能性があります。歴史を振り返れば、学問が政治権力に従属し、時の政府の意向に沿って利用された事例は決して少なくありません。戦時中の科学研究が国家の戦争遂行に動員された過去は、その最も象徴的な例でしょう。学問は権力の道具ではなく、真理を追究し、社会全体の発展と福祉に寄与するものでなければなりません。

こうした背景から、歴代会長をはじめ多くの学者が改組案に反対の声を上げています。彼らは、政府が学術会議の活動を監視し、運営に影響を及ぼす仕組みを導入すれば、学問の独立性が損なわれることを懸念しています。学問の世界は短期的な政治の都合ではなく、長期的な視野に立って研究が積み重ねられるものです。時として、政府の方針と対立することがあったとしても、それこそが学問の持つ本来的な価値であり、科学が社会の指針を示すために不可欠な役割を果たしているのです。

しかし、学術会議自身の在り方にも問題がないわけではありません。現行の会員選考プロセスが閉鎖的で、一部の学派に偏りがあるとの指摘は以前からありました。特定の分野の学者が過度に影響力を持ち、多様な視点が反映されにくいという課題も指摘されています。学術会議がより開かれた議論を促し、社会に対して明確な説明責任を果たすことは必要です。しかし、だからといって、政府主導の改革が正当化されるわけではありません。本来、学術会議の改革は、学術界自身が自主的に進めるべきものであり、政治的な介入があってはならないのです。

聖書には「真理はあなたがたを自由にする」とあります。学問が自由であることは、単に研究者の権利の問題ではなく、社会全体にとって不可欠なものです。もし、学術会議が政治の圧力に屈するようになれば、その影響は研究者だけでなく、科学技術の発展や政策決定の質にも及びます。社会にとって不都合な事実や意見が抑えられるようになれば、私たちは真実を知る機会を失い、より良い未来を築く可能性が狭められてしまうのです。

また、「知恵は金よりも貴い」との言葉もあります。学問の価値は、ただ知識を蓄積することにあるのではなく、それを正しく活用し、人々の幸福に役立てることにあります。学術会議が本来の役割を果たし続けるためには、政府の干渉から一定の距離を保ちつつ、自らの改革を進め、社会に対してより開かれた形で知見を提供していくことが求められます。

政府には、学術会議の独立性を損なうことなく、真に必要な改革が何であるのかを慎重に見極める責任があります。また、私たち市民も、学問が権力の道具とならないように、その行方を見守ることが求められています。学問の自由は、単なる研究者の問題ではなく、社会全体の知的基盤を支える重要な柱なのです。学術の独立が確保されることは、ひいては民主主義の健全な発展にもつながります。政治の影響を受けずに、自由に知を探求できる環境を守ること。それこそが、次世代に引き継ぐべき知的遺産であり、私たちが果たすべき責任なのではないでしょうか。

【死刑制度と世論—重層的な思いに耳を傾け、公正な議論を】

死刑制度をめぐる議論は、日本社会において長年にわたり燻り続けてきました。今回公表された政府の世論調査によると、「死刑もやむを得ない」と答えた人が83.1%に上る一方、「死刑は廃止すべきだ」との意見は16.5%にとどまりました。これを受けて政府は、「国民の大多数が死刑を支持している」とし、制度の存続を正当化する根拠として用いています。しかし、刑罰の根幹に関わる重大な制度が、単なる多数決で決められてよいのでしょうか。世論の動向を政治が無視すべきではないにせよ、「多数が支持するから正しい」という単純な理屈は、果たして正義にかなうのでしょうか。

この調査において、死刑存続を支持する人々の多くは、「被害者や遺族の無念を晴らすため」「凶悪犯罪の抑止のため」「死刑を廃止すると治安が悪化する」との理由を挙げています。一方で、廃止を求める側は、「誤判があった場合に取り返しがつかない」「国家が人を殺す権利を持つことは許されない」と主張します。双方の意見には、それぞれ深い倫理的・社会的背景があり、単なる感情論では片付けられません。

特に注目すべきは、「死刑もやむを得ない」と答えた人々の中にも、「状況が変われば将来的には廃止も考えられる」とする意見が一定数含まれていることです。このことは、死刑制度への支持が必ずしも確固たるものではなく、現状の社会情勢や報道のあり方に左右される側面があることを示唆しています。さらに、調査の設問そのものにも問題があります。「死刑もやむを得ない」という表現は、「積極的に賛成する」という意味とは限らず、消極的容認の立場も含んでいます。そのため、単純な二者択一ではなく、より多様な選択肢を提示することで、より正確な国民の意識を反映できる調査方法が求められます。

世界に目を向ければ、死刑を廃止または停止している国はすでに七割を超えています。フランスでは1981年に死刑を廃止しましたが、その当時の世論はむしろ存続を支持する声が大きかったといいます。しかし、教育や啓発、政治のリーダーシップを通じて、国民の意識は次第に変化し、現在では死刑復活を求める声はほとんど聞かれません。これに対して日本では、政治が世論にただ迎合する形で死刑を存続させている状況が続いています。刑罰のあり方は、人権や法の精神に基づいて議論されるべきものであり、単に「多数派が支持するから正しい」という考え方で決められるものではないはずです。

日本における死刑制度の最大の問題の一つは、誤判の可能性です。昨年、袴田巌さんの再審無罪が確定しましたが、彼は半世紀以上にわたり死刑囚としての生活を強いられました。もし判決が覆る前に刑が執行されていたら、国家は取り返しのつかない過ちを犯していたことになります。このような冤罪のリスクを抱えながら死刑を存続させることが、果たして正義にかなうのでしょうか。冤罪の可能性が少しでもある限り、国家が死刑という不可逆的な刑罰を科すことには慎重でなければなりません。

さらに、死刑制度の是非を考える上で、被害者や遺族の感情を軽視することはできません。犯罪によって最愛の人を奪われた遺族の悲しみや怒りは計り知れないものであり、その無念に寄り添うことは社会全体の責務です。しかし、刑罰は感情に基づいて決定されるものではなく、公正な司法制度のもとで運用されるべきものです。遺族の心情を尊重しつつも、司法の役割を冷静に見極めることが求められます。実際、多くの国では、死刑を廃止した後も厳格な終身刑の導入や、被害者支援の拡充を進めることで、刑罰の厳格さと人権の尊重を両立させています。

聖書には、「正義と公正を愛し、貧しい者を顧みよ」と記されています。刑罰の目的は、単なる報復ではなく、社会の秩序を保ち、再び罪を犯させないことです。もし死刑制度が冤罪を生むリスクを内包しているならば、それは真の正義とは言えません。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との教えもあります。これは、犯罪者を無条件に許すことを意味するのではなく、怒りや復讐の感情だけで刑罰を決定することの危うさを戒める言葉ではないでしょうか。

死刑制度をめぐる議論は、単なる「存続か廃止か」という二元論ではなく、その背景にある倫理観や社会のあり方を含めて考えなければなりません。政府は、世論調査の結果を単純に受け入れるのではなく、より深い議論を国民とともに行い、死刑の本質について考える場を設けるべきです。そして、私たち一人ひとりも、この問題に真剣に向き合い、人間の尊厳とは何か、社会が果たすべき役割とは何かを問い続けるべきではないでしょうか。

「主は、義を愛し、正義を行われる」とあります。正義とは単に多数決によって決められるものではなく、人間の尊厳を尊重し、慎重に議論を重ねた末に生み出されるものです。死刑制度をめぐる議論は、私たちの社会がどのような価値観を大切にしているのかを映し出す鏡のようなものです。この問題を通じて、私たちが何を選び、どのような未来を築いていくのかが問われています。安易な結論を急ぐのではなく、今こそ冷静かつ公正な議論を深めていく時ではないでしょうか。

【ドイツ総選挙と極右の台頭—分断を深めるのか、民主主義の危機か】

ドイツの総選挙が幕を閉じ、中道左派の社会民主党(SPD)は歴史的な敗北を喫し、中道右派のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が最大政党の座を奪還しました。しかし、この選挙が世界に投げかけた最も衝撃的な事実は、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が20%以上の得票率を記録し、第2党にまで躍進したことです。この出来事は単なる国内政治の動向にとどまらず、欧州全体、さらには世界の民主主義の在り方にまで深刻な影響を及ぼす可能性を秘めています。

第二次世界大戦の惨禍を経て、ドイツは民主主義の砦として生まれ変わりました。戦後のドイツ社会は、極右思想の再燃を厳しく警戒し、過去の過ちを繰り返さぬよう、教育や法制度を通じて社会全体に警鐘を鳴らし続けてきました。にもかかわらず、いまやナショナリズムの波がドイツの政治地図を塗り替えつつあります。この現象が意味するものは、単なる政党の勢力図の変化ではなく、戦後ドイツが築き上げた「多文化共生」と「開かれた社会」という理念そのものが揺らいでいるということにほかなりません。

なぜ、このような事態が生じたのでしょうか。その背景には、経済的不安と政治に対する深い不信感があります。ドイツ経済は、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格の高騰、産業の脱炭素化に伴うコスト増加、さらには主要産業である自動車業界の低迷といった複合的な要因によって大きな打撃を受けています。特に、旧東ドイツ地域では長年にわたり経済格差が解消されず、不満を募らせた市民がAfDの扇動的なレトリックに惹かれています。「移民が労働市場を圧迫し、社会保障制度を食い潰している」といった単純化された主張が、経済的に困窮する人々にとって一種の「救い」として響いているのです。

極右の台頭はドイツ国内にとどまるものではありません。フランスやオランダ、イタリアといった欧州各国でも、既成政党への信頼が揺らぎ、排外主義的な勢力が勢いを増しています。AfDの躍進は、欧州連合(EU)の結束にとっても危険な兆候です。EUの統合を支えてきたのは、各国の協力と連帯の精神でしたが、もしドイツが極右の影響をより強く受けるようになれば、この枠組み自体が危機にさらされることになります。統合と分断のせめぎ合いの中で、欧州は今後どのような道を歩むのでしょうか。

特に憂慮すべきは、アメリカのトランプ政権の高官らがAfDに対する支持を公然と表明し、政治的影響力を行使しようとしていることです。他国の選挙に露骨に介入する行為は、国際社会の基本原則を踏みにじるものであり、看過できるものではありません。トランプ政権は「自国第一主義」を掲げ、国際協調よりも自国の利益を優先する姿勢を強めています。このような動きが、ドイツ国内の極右勢力にさらなる勢いを与え、欧州全体の政治的均衡を崩す可能性が高まっています。

こうした状況の中で、ドイツの新政権には極めて重要な役割が求められています。国民の不満に適切に対応する政策を打ち出しつつも、排外主義や人種差別的な言説とは一線を画し、社会の分断を防がなければなりません。経済的不安に乗じて敵を作り出し、特定の人々を攻撃することで支持を集める政治手法は、短期的には成功するかもしれませんが、長期的には社会の安定を損なうだけです。歴史の教訓を胸に刻み、持続可能で包括的な政策を推進することこそが、ドイツの未来を左右する鍵となるでしょう。

聖書には、「すべての人に善を行い、平和を追い求めよ」とあります。政治の世界においても、分断を煽るのではなく、共生の道を探ることが求められています。極右勢力の台頭に対して単に非難するのではなく、その背景にある社会の構造的問題を直視し、適切な対策を講じることが不可欠です。極端な主張に走るのではなく、多様な価値観を尊重し、調和を生み出す政治のあり方を追求すること。それが、真に平和で持続可能な社会を築くための道ではないでしょうか。

ドイツの選挙結果は、欧州の未来を占う試金石であるだけでなく、日本を含む世界の民主主義の在り方に対しても大きな問いを投げかけています。分断と対立ではなく、対話と共生を基軸とした社会を築くために、私たちは何を学び、どのように行動すべきなのか。いまこそ、歴史の教訓を深く胸に刻み、より公正で包摂的な社会の実現に向けて、一人ひとりが考え、行動する時ではないでしょうか。

今日、私たちは社会のさまざまな課題に目を向け、それがもたらす影響と、私たちが負うべき責任について深く考えてきました。政治の不透明さ、経済格差の拡大、人権の軽視、学問や言論の自由が脅かされる現実、死刑制度の是非、そして極端な政治思想の広がり——どの問題も、決して私たちとは無関係なものではなく、日々の暮らしの中で静かに、あるいは時に露骨に私たちに影響を及ぼしています。社会が直面するこうした課題に対して、キリスト者としてどのように向き合うべきか、そしてどのような行動を選び取るべきかを考えることは、単なる知的作業ではなく、まさに信仰の実践そのものであると言えるでしょう。

聖書には「正義と公正を愛し、貧しい者を顧みよ」とあります。これは単なる美辞麗句ではなく、社会の在り方そのものを問う、神の命じる根本的なメッセージです。弱い立場にある人々が取り残され、不当に扱われ、声を上げることすら許されない社会は、決して神が望まれるものではありません。政治や経済の決定がどのような形で影響を及ぼしているのか、私たちはその流れを注視し、必要があれば迷わず声を上げるべきです。神の目にかなう社会とは、すべての人が尊厳をもって生きることができる世界であり、そこに向けた歩みは、まさに私たち一人ひとりの責務なのです。

また、聖書には「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」とも記されています。今、世界には歪められた情報や虚偽が溢れ、偏見に基づく言説が広がっています。その中で、私たちは何を真実とするのか、どのように正しい判断を下すのかを問われています。誤った情報に流されず、感情的な扇動に惑わされることなく、冷静に物事を見極め、正しい知識を持ち、公正な視点で社会を捉えることが求められています。そのためには、まず私たち自身が、真理に対して誠実であることが不可欠です。

信仰とは、ただ心の中に抱く理念ではなく、具体的な行動を伴うものです。祈ることはもちろん大切ですが、それだけでは十分ではありません。私たちが現実の社会の中で、どのように神の愛と正義を示すのかが、今まさに問われています。社会の不正義に目を背けることなく、困難の中にいる人々と共に歩み、対話を重ね、平和と公正を求めること。その実践こそが、キリスト者に与えられた使命ではないでしょうか。

いま、世界はかつてないほどの不安と混乱に包まれています。しかし、暗闇が深ければ深いほど、光はより鮮やかに輝くものです。私たち一人ひとりの言葉や行動が、やがて社会の方向を決定づけるものとなることを信じ、希望を失わず歩みを続けたいと思います。この学びが、皆さんの信仰をさらに深め、社会と関わる上での指針となることを願ってやみません。

【おわりに フランシスコ教皇のご回復を祈って】

フランシスコ教皇の病状が改善に向かっているとの知らせに、私たちは安堵するとともに、一日も早いご回復を心よりお祈りいたします。教皇は、これまでにも幾度となく病を抱えながらも、変わらぬ慈愛の心をもって世界に平和と正義を訴え続けてこられました。特に、貧しい人々や社会の片隅に置かれた人々への深い配慮、また戦争や対立の只中にある世界への和解の呼びかけは、私たちにとって大いなる指針であり、信仰の実践の在り方を示すものです。

現在、教皇は病室で仕事を続けながら治療を受けておられるとのことですが、どうか十分な静養を得られ、完全な回復に至りますように。病床にありながらも、なお教会と世界のために務めを果たされるその姿勢に、私たちは深い敬意を抱きつつ、主がそのお体を支えてくださるよう、心を合わせて祈ります。

主が慈しみの御手をもって教皇を癒し、力を与え、再び健康を取り戻されるよう願ってやみません。フランシスコ教皇に主の恵みと慰めがありますように。そして、教皇の病を支える医療従事者の働きが祝福され、すべての治療が最善の形で実を結びますように。

 

《説教——変容の光に生きる:神の臨在と愛の実践》

【教会暦】

大斎節前主日

【聖書箇所】

旧約日課:出エジプト記 34章29-35節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 12章27節—13章13節
福音書:ルカによる福音書 9章28-36節

【はじめに】

山の頂は、神の啓示の場として聖書の中で繰り返し描かれます。そこは天と地の境界が薄れ、人間が神と出会う場所です。モーセがシナイ山で神の栄光を受け、その顔が輝いたように、イエスもまた、山の上で弟子たちにご自身の神性を明らかにされました。この大斎節前主日に読まれるルカによる福音書9章28-36節は、イエスの変容の出来事を伝えています。

この場面は、イエスの生涯の中で極めて重要な位置を占めています。イエスは、この直前の出来事で、ご自身が「苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」(ルカ9:22)ことを弟子たちに語られました。しかし、弟子たちはそれを完全には理解できませんでした。彼らにとって、メシアは勝利の王であり、苦しみを受ける存在ではなかったからです。そんな中で、イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登り、祈りのうちに変容されました。

突然、イエスの顔は光に包まれ、衣は白く輝きました。これは、単なる光の反射ではなく、神の栄光そのものでした。聖書の中で「光」は神の臨在を象徴します。モーセが神と語り合った後、その顔が光を放ったように(出エジプト記34:29-35)、イエスはこの時、まさに「神の子」としての本質を現されたのです。そして、その栄光の中に二人の人物が現れました。

それは、イスラエルの歴史において最も重要な二人、モーセとエリヤでした。モーセは律法を象徴し、エリヤは預言者を代表する存在です。彼らは共に、イエスの「エクソドス」について語っていました。ここで用いられている「エクソドス」という言葉は、「出発」「脱出」を意味し、モーセによる出エジプトとイエスの受難と復活を重ね合わせるものです。つまり、イエスの十字架の死は、単なる悲劇ではなく、神の偉大な救済の計画の一部であることが、この場面で示されています。

この出来事に驚きと畏れを抱いたペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう」と言い、三つの仮小屋を建てようとしました。これは、ユダヤの祭り「仮庵祭」との関連を示唆しています。仮庵祭は、イスラエルの民が荒れ野を旅したことを記念し、神が共におられることを祝う祭りです。ペトロは、イエスとモーセ、エリヤがそこにいることで、神の国が今ここに成就したと考えたのかもしれません。しかし、彼の言葉が終わらないうちに、神の臨在を象徴する雲が山を覆い、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が響きました。この言葉は、ヨルダン川でのイエスの洗礼の際に響いた神の声(ルカ3:22)と呼応していますが、ここでは「これに聞け」という言葉が加えられています。

この「聞け」という言葉は、申命記6:4の「シェマ」(聞け、イスラエルよ)を思い起こさせます。神の言葉に聞き従うこと、それこそが信仰の核心です。イエスの栄光を目の当たりにした弟子たちは、この時初めて、イエスの苦しみと死が神の計画の一部であり、それがすべての人を救うためであることを悟り始めたのです。

出エジプト記34章において、モーセが神と出会った後、その顔が光を放ち、人々は恐れました。しかし、モーセ自身はそれに気づいていませんでした。神との交わりは、外的な栄光として現れるだけでなく、人間そのものを変容させます。私たちが神に触れるとき、その影響は私たちの生き方に表れるのです。

また、コリントの信徒への手紙一12章27節から13章13節では、パウロが「最も優れた道」について語ります。それは、「愛」の道です。預言や知識、奇跡の力も重要ですが、それらはすべて一時的なものにすぎません。しかし、愛は永遠です。パウロは、「わたしたちは今は、鏡にぼんやり映ったものを見ているが、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(1コリント13:12)と述べます。これは、イエスの変容と関連しています。私たちは今、神の栄光を完全には理解できません。しかし、神の国が完成するとき、私たちはその栄光の中に生きる者とされるのです。

今日の聖書箇所は、私たちに深い問いを投げかけます。イエスの変容は、弟子たちの信仰を強め、やがて訪れる苦しみの時を乗り越える力を与えました。私たちもまた、人生の中で試練や困難に直面することがあります。しかし、神の栄光を信じ、愛の道を歩むならば、私たちの人生もまた、変えられていくのです。変容の出来事は、一瞬の奇跡ではなく、神が私たちに与えようとしている新しい生き方の約束なのです。

【イエスの変容——神の国の光の中で】

ガリラヤの丘陵地帯から遠く離れた山の頂で、三人の弟子たちは息を切らしながらイエスの後を追っていました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ。彼らは何度もイエスと旅をし、奇跡を目の当たりにしてきましたが、この山登りが特別なものになることを彼らはまだ知らなかったのです。彼らの足元に広がるのは静寂。人々の喧騒から遠く離れ、ただ神の創造の大いなる静けさだけがそこにありました。

イエスは祈り始めました。弟子たちは目を閉じ、しばし心を静めました。その時です。まばゆい光がイエスを包み込み、弟子たちは思わず目を開けました。そこにいたのは、彼らが見慣れたイエスではありませんでした。彼の顔はまるで太陽のように輝き、衣はどんな漂白剤でも成し得ないほどに白く光っていました。その光は、単なる外的な輝きではなく、神の栄光そのものでした。まるで天の扉が開き、神の世界がこの地に現れたかのようでした。

この輝きの中で、二人の人物が現れました。長い歴史の中で、誰もが名前を知るモーセとエリヤでした。モーセは律法を受け取った者、エリヤは神の声を大胆に語った預言者。この二人は、イスラエルの歴史を象徴する存在です。しかし、ここで重要なのは、彼らがイエスと対等な立場で並んでいたのではなく、イエスの栄光に仕える者として現れたことでした。

モーセはかつて、シナイ山で神の栄光を見たとき、顔が光を放ちました(出エジプト記34:29-35)。しかし、それは神の光を反射していただけでした。しかし、今ここにいるイエスは違いました。彼の光は、内から放たれていました。これは、イエスが単なる神の使者ではなく、神ご自身であることを示しています。

エリヤもまた、ホレブ山で神の声を聞いたとき、強風でもなく、地震でもなく、「静かにささやく声」の中に神の臨在を感じました(列王記上19:11-13)。そして今、その神の声の本体が、イエスの姿となって現れているのです。

モーセとエリヤが語っていたのは、イエスの「エクソドス」についてでした。この言葉はギリシャ語で「出発」を意味しますが、ルカはこれを意図的に使っています。出エジプトの出来事は、イスラエルの民が奴隷状態から解放され、約束の地へと導かれる旅でした。しかし、イエスの「エクソドス」は、人類全体を罪と死の束縛から解放する救いの業を意味しています。モーセが紅海を渡らせたように、イエスは十字架と復活を通して、すべての人を新しい命へと導かれるのです。

ペトロは、圧倒されながらも、なんとか言葉を絞り出しました。「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう。」そして、彼は三つの仮小屋を建てようと言いました。これは、ユダヤの仮庵祭の伝統に根ざした発言です。仮庵祭は、荒れ野を旅したイスラエルの民が神の保護の中で生きたことを記念する祭りでした。ペトロはこの神聖な瞬間が永遠に続くことを願い、それを仮小屋を建てることで定着させようとしました。しかし、彼は誤解していました。神の栄光は、人間の手によって固定されるものではなく、前に進むものだからです。

その瞬間、雲が山全体を覆いました。それは、旧約聖書にしばしば現れる「シェキナー」、つまり神の臨在の象徴でした。そして、その雲の中から声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」

これは、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けた時に響いた声(ルカ3:22)と似ていますが、ここでは「これに聞け」という命令が加えられています。神は、弟子たちに向かって、イエスこそが律法と預言の完成者であり、彼の言葉に従うことが神の御心にかなうことであると告げられました。

そして、光も雲も消え、モーセとエリヤの姿もなくなりました。ただ、そこにはイエスだけが立っていました。モーセもエリヤも偉大な存在でしたが、最終的に残るのは、ただイエスだけなのです。律法も預言も、すべてはイエスへと至るものだったからです。

弟子たちは沈黙しました。ペトロは、先ほどの自分の言葉がいかに的外れであったかを悟ったかもしれません。彼らは山を下りながらも、何を言うべきかわからず、ただ胸の中でこの体験を反芻していました。しかし、この出来事は彼らの中に消えることのない光として刻まれました。

この変容の出来事は、神の国の現実を一瞬だけ垣間見る機会でした。しかし、それは単なる一時の幻ではなく、イエスが十字架を通して成し遂げる救いの前触れでした。十字架の苦しみを前にした弟子たちが、この栄光の瞬間を思い出し、希望を失わないようにするためだったのです。

私たちの人生にも、光と闇の瞬間があります。私たちが苦しみに直面するとき、この変容の光は、神の国の希望を私たちに指し示してくれます。たとえ目の前が暗くなっても、私たちはこの光に導かれながら歩むことができるのです。

【愛の完成——律法と預言の頂点】

ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスと共に山を下りながらも、目の前で起こった出来事をまだ理解しきれずにいました。イエスの姿が栄光に輝き、モーセとエリヤが現れ、そして天の声が響いた。あの瞬間、神の国が垣間見えたように思えたのに、今は再び普通の風景の中に戻っています。何が起こったのか、それは何を意味するのか——彼らの心の中には、説明のつかない畏れと疑問が渦巻いていました。

この問いは、彼らだけではなく、私たちにも向けられています。イエスの変容は単なる奇跡の一場面ではなく、神の救いの歴史の中で極めて重要な意味を持つ出来事でした。それは、律法と預言が最終的に向かう頂点を示すものだったのです。

律法と預言の頂点とは何でしょうか。イエスの変容の場面では、イスラエルの歴史を象徴するモーセとエリヤが登場します。モーセはシナイ山で神から律法を授けられ、イスラエルの民に神の意志を示しました。一方、エリヤは不信仰の時代に神の言葉を語り続けた預言者でした。彼らは、イスラエルの宗教的伝統の中で最も偉大な二人の人物であり、その存在は、神の導きが歴史を通じて人々に示されてきたことを象徴しています。

しかし、この場面の核心は、モーセやエリヤがイエスと対等に並んでいるのではなく、むしろイエスの「光の中で」現れているという点にあります。モーセとエリヤは偉大な存在でしたが、彼らの使命はイエスへと向かうものだったのです。実際に、山を覆った雲の中から響いた神の声は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と語っています。ここで重要なのは、「これに聞け」という命令です。モーセとエリヤではなく、イエスこそが最終的な啓示であり、神の意志の完成であることが示されているのです。

このことは、パウロがコリントの信徒への手紙一で語る「愛の完成」というテーマと深く結びついています。パウロは、「たとえ、すべての神秘とあらゆる知識を知っていても、愛がなければ無に等しい」と述べました(1コリント13:2)。律法は神の意志を示し、預言は神の計画を告げ知らせますが、それらは最終的に「愛」へと至らなければなりません。イエスは、その愛の完成として、律法と預言を超える存在なのです。

ペトロが山の上で三つの仮小屋を建てようとしたのは、彼なりの信仰告白でした。彼は、この栄光の瞬間を固定し、永遠に留めておきたいと考えたのです。しかし、神の栄光は一つの場所にとどまるものではありません。それは動き続け、歴史を貫いて働き続けるものです。イエスが山を下りられたのは、神の愛がこの世界のただ中にあることを示すためでした。

この出来事は、私たちにとって何を意味するのでしょうか。私たちは、律法や預言を知っているだけではなく、それを「愛」として生きているでしょうか。私たちの信仰は、単に知識や義務として存在するものではなく、愛によって形作られるべきものです。

パウロは、「いまは、信仰と希望と愛、この三つが残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13:13)と語ります。信仰は私たちを神に結びつけ、希望は私たちに未来への確信を与えます。しかし、それらはやがて役割を終えます。神の国が完成するとき、私たちはもはや信じる必要も、希望を抱く必要もなくなります。なぜなら、そのときには神が完全に私たちのもとに来られ、すべてが成就するからです。しかし、愛だけは違います。愛は永遠に続くものです。

イエスの変容は、この愛の完成を指し示しています。律法と預言が導いたその先にあるもの、それは十字架の愛であり、復活の愛であり、私たちが生きるべき愛の道なのです。

変容の光は一瞬のものではなく、私たちの心の中に残るものです。その光は、私たちが日々の歩みの中でどのように神の愛を生きるかを問いかけています。律法や預言を学ぶだけではなく、それを生きること。知識だけではなく、愛に根ざした行動を選び取ること。それが、イエスが私たちに示された道なのです。

【変容の光を受けて——私たちの歩む道】

山の頂での神秘的な体験が過ぎ去った後、弟子たちはイエスと共に下山していきました。わずか数分前まで、彼らの目の前には天の光が広がり、モーセとエリヤが語り、神の声が響いていました。しかし、その光景は消え去り、彼らは再びこの世の現実へと足を踏み入れます。山の頂に留まり続けることは許されませんでした。彼らは、この地上において使命を果たさねばならなかったのです。

この下山の場面こそ、イエスの変容が示す最も重要なメッセージを象徴しています。私たちは、神の光に出会った時、それを自分の内に閉じ込めるのではなく、それを抱えて歩み続けるよう招かれているのです。

1. 信仰の現実——山上の栄光と日常の狭間で

変容の光に包まれた瞬間、ペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう」(ルカ9:33)と叫びました。彼は、この神聖な時間が永遠に続くことを願い、三つの仮小屋を建てようとしました。しかし、その願いは神の計画にはそぐわないものでした。イエスの栄光は、山の上にとどまるものではなく、この世に広がるべきものでした。

私たちの信仰生活もまた、この「山上の体験」と「日常の現実」との間を行き来するものです。霊的に満たされ、神の臨在を強く感じる瞬間があります。しかし、その恵みの時間は続かず、すぐに日々の悩みや試練の中へと戻らなければなりません。まさに弟子たちが山を下りたように、私たちもまた、神の光を携えながら、この世界の中で生きることを求められています。

変容の場面の直後、イエスと弟子たちは山を下り、次に彼らを待っていたのは悪霊に取り憑かれた少年の父親の嘆きでした(ルカ9:37-43)。この対比は極めて象徴的です。神の栄光に満ちた山上の体験から一転し、弟子たちは混乱と苦しみの現実に直面します。これは、信仰が現実の問題から切り離されるものではなく、むしろ現実の只中に神の光をもたらすものだということを示しているのです。

2. 変容の光をどう生きるのか

変容の出来事は、単なる「目撃される奇跡」ではなく、「生きられる信仰の現実」です。弟子たちは、あの光の中に立ち会うことで、イエスの真の姿を知りました。しかし、その知識は、単なる理解として留まるものではなく、彼らの生き方そのものを変えるべきものでした。

ペトロは後に、「主イエス・キリストの力と到来について言い伝えたとき、わたしたちは巧みな作り話に従ったのではなく、彼の偉大さを自分の目で見たのです」(2ペトロ1:16)と語りました。彼は、変容の光を目撃したことが、自らの信仰の根幹になったことを明言しています。しかし、その信仰は山の上に留まるものではなく、ペトロがこの世の中で福音を宣べ伝え、ついにはローマで殉教する道へと彼を導きました。

私たちは、どのように変容の光を生きることができるでしょうか。その答えは、パウロが語る「愛」にあります。「たとえ、すべての神秘とあらゆる知識を知っていても、愛がなければ無に等しい」(1コリント13:2)。変容の光は、ただ「神の栄光を示す奇跡」ではなく、「神の愛の顕現」でした。イエスが十字架の道へと向かわれる前に弟子たちに示されたのは、単なる力の証明ではなく、愛の光だったのです。

3. 変容は苦しみへの準備だった

イエスの変容は、弟子たちに「神の国の約束」を見せるものでしたが、それは同時に「十字架への準備」でもありました。イエスは栄光の姿を示されましたが、その後、彼はご自身の死と復活を予告されます(ルカ9:44-45)。これは、弟子たちにとって衝撃的なことでした。栄光と苦しみは、決して切り離すことのできないものでした。

同様に、私たちの信仰生活もまた、試練のないものではありません。時に、苦しみや疑い、困難に直面することもあります。しかし、変容の光を見た者は、それをただの一時的な体験として終わらせるのではなく、その光を自らの内に抱えながら歩んでいくのです。

ペトロ、ヨハネ、ヤコブは、山を下った後も何度もイエスに問いかけ、時には理解できずに戸惑いました。しかし、やがて彼らは、その光の意味を悟り、自らも神の国の証人として生きる者となりました。

4. 私たちの召命——この世において光を放つこと

私たちもまた、変容の光を受けた者として、この世において光を放つよう召されています。イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と語られました。それは、山上の光景をただ思い出すことではなく、その光をもって生きることを意味します。

信仰とは、単に個人的な霊的体験ではなく、それを社会の中で証しし、他者へと向けて開いていくものです。私たちの周囲には、まだ神の光を知らず、希望を見いだせずにいる人々がいます。私たちは、その光を受けた者として、それを分かち合う使命を与えられているのです。

変容の光は、イエスが神の子であることを証するものでしたが、それと同時に、「神の子の光に生きる者」としての私たちの召命を示すものでした。イエスが山を下られたように、私たちもまた、日常の中へとその光を持ち帰り、それを生きなければなりません。

変容の出来事は、私たちにとって単なる過去の出来事ではなく、今も私たちの人生において続いている現実です。私たちの信仰の旅路において、神の光が示される瞬間があります。それを忘れずに、日々の歩みの中で、その光を携えながら生きていきたいと願います。

山を下りた弟子たちのように、私たちもまた、この世のただ中で神の光を証ししながら歩んでいく者でありたいと願います。

【変容の光の中で生きる——信仰の証しとして】

山を下る弟子たちは、時折、背後を振り返ったかもしれません。あの栄光に満ちた光が、まだ山の頂で輝いているのではないかと期待しながら。しかし、見上げても、そこにはただ、青く広がる空と山の稜線があるばかりでした。まるで何もなかったかのように、風が静かに吹き抜けていきました。

しかし、彼らの心の中には、決して消えることのない光が残されていました。イエスの変容の出来事は、一瞬の幻ではなく、神の国の真理を彼らの魂に深く刻み込むものだったのです。そして、それは私たちにも同じ問いを投げかけています。

1. 変容の光の目的——ただの奇跡ではない

イエスの変容が意味するものは何でしょうか。それは単なる奇跡の一つではなく、神の国の現実が弟子たちの前に開かれた瞬間でした。この世の価値観ではなく、神の視点から見たときにこそ見えてくる真理の輝き。それを、一瞬でも体験した者は、もはや以前と同じ自分には戻ることができません。

モーセは、シナイ山で神と語り合った後、顔が輝き、それを見たイスラエルの民は恐れを抱きました(出エジプト記34:29-35)。しかし、モーセの光は神の栄光を反射したものにすぎませんでした。一方、イエスの変容においては、光が彼の内から放たれていました。これは、イエスが単に神の使者ではなく、神ご自身であることを示しています。

そして、この光の目的は何だったのでしょうか。それは、弟子たちに「十字架の先にあるもの」を示すためでした。これから訪れる苦難、迫害、死。イエスは、弟子たちがその試練の中で信仰を失わないように、彼らの目に神の国の輝きを映し出されたのです。

2. 変容の光を受けた者として生きる

変容の出来事は、弟子たちにとって、神の国の現実が確かであることを示すものでした。しかし、それは「見せられる」だけのものではありませんでした。その光を受けた者は、それを「生きる」ように求められています。

パウロは、「わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます」(2コリント3:18)と語りました。つまり、変容の光を見た者は、自らも変えられ、その光を映し出す者へと造り変えられていくのです。

では、私たちはどのようにこの光を生きるのでしょうか。

・日々の生活の中で、愛をもって生きること。
・他者を赦し、和解を選ぶこと。
・希望を失いそうな時にも、神の国の完成を信じること。

変容の光とは、単なる宗教的な体験ではなく、私たちの人生のあり方を変えるものなのです。

3. 山を下りること——光を証しする者としての使命

山の上に留まることは許されませんでした。ペトロは三つの仮小屋を建てようとしましたが、神は「これに聞け」とだけ語り、イエスは彼らを再び山の下へと導かれました。

信仰生活において、私たちは「霊的な高揚感」を経験することがあります。神の臨在を強く感じ、深い祈りの時間を過ごすこともあるでしょう。しかし、それは「山の頂」にとどまるためではなく、「山を下りるため」に与えられるのです。

変容の光は、山の上ではなく、この世のただ中で輝かせるべきものです。弟子たちは、その後、苦難の中でこの光を証しし続けました。ペトロは殉教の死を遂げ、ヨハネは生涯をかけて神の愛を語り続けました。彼らは、山で見た光を携えながら、それを現実の中で生きたのです。

私たちもまた、信仰をただの個人的な慰めにするのではなく、それを証しする使命を持っています。変容の光を受けた者として、どのように生きるのか。それが、私たちに問われているのです。

4. 変容の光は今も生きている

イエスの変容の光は、今もこの世界の中に生き続けています。それは、私たちの心の中に、そして教会という共同体の中に宿っています。

変容の光は、どこにあるのでしょうか。

・苦しむ人々と共にあるとき
・赦しと和解が実現するとき
・神の言葉に耳を傾けるとき
・愛が何よりも優先されるとき

それらの瞬間に、神の栄光の光は今も輝いているのです。

5. これに聞け——私たちの応答

神は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と語られました。この言葉は、単なる宣言ではなく、私たちへの命令です。イエスの言葉に聞き、それに従うこと。そこに、変容の光の意味があります。

・私たちは、イエスの言葉に「聞く」者となっているでしょうか。
・神の愛の光を、この世界に証ししているでしょうか。

この問いは、変容の出来事が、私たち一人ひとりに与えられた召命であることを示しています。

結びに代えて

イエスの変容は、一瞬の奇跡ではなく、私たちがどのように生きるべきかを示すものでした。それは、神の国の光をこの世で証しするために与えられたものです。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」

この言葉は、今日の私たちにも響いています。私たちは、イエスの言葉を聞き、その光の中を歩む者となるよう招かれています。

この世のただ中で、変容の光を受けた者として、私たちはどのように生きるべきか。

それは、信仰と希望と愛をもって歩むことです。

そして、その中で最も大いなるものは、愛です。

 

《おわりに》

私たちは今日、主イエスの変容の出来事を通して、神の光に照らされるとはどういうことかを深く考えました。イエスは山の上で弟子たちの前に輝かれましたが、その輝きは、その後に続く十字架の苦しみを経てこそ、本当の意味を持つものでした。ペトロはこの栄光をその場に留めようとしましたが、イエスはそのままエルサレムへと下り、やがて十字架に向かわれました。この出来事が示すのは、信仰とは一瞬の霊的高揚にとどまるものではなく、日々の歩みの中で神の光を映し続けることだということです。

また、旧約のモーセの輝く顔の話からも、神と交わることによって人は変えられ、周囲にその光を分かち合う者となるべきことを学びました。モーセは神の言葉を受け、それを民に伝える使命を負いました。私たちもまた、神の光に照らされた者として、この世にあって愛と正義を証しするように召されています。

さらに、使徒パウロの言葉は、「愛がなければ、私は無に等しい」と教えています。どんなに知恵があろうと、信仰が強かろうと、愛が伴わなければそれは空しいものにすぎません。愛とは、忍耐し、親切であり、高ぶらず、すべてを耐え忍ぶものです。神の光の中を歩むとは、ただ神秘的な体験を求めることではなく、日々の中で愛をもって生きることなのです。

今、私たちは大斎節の入り口に立っています。これは、単なる宗教的な習慣ではなく、神の前に自らを省み、悔い改め、信仰を新たにするための時です。イエスが荒野で四十日間断食し、試練を受けられたように、私たちもまた、日常の中で神に心を向け、主に従う覚悟を新たにするよう招かれています。

今日の教会時論では、現代社会の課題にも目を向けました。政治の不透明さ、経済格差、言論の自由の危機、死刑制度をめぐる議論、極端な思想の広がり——これらは決して他人事ではなく、私たちが生きるこの社会の現実です。主は言われました。「あなたがたは世の光である」。その光は、ただ教会の中で輝くものではなく、社会の中にあってこそ、その意味を持つのです。

信仰とは、単に神を崇めるだけのものではなく、実際にこの世界の中でどのように生きるかの指針でもあります。モーセが神の言葉を受け、それを人々に伝えたように、私たちもまた、この時代にあって神の愛と正義を伝える使命を担っています。困窮する人々、社会の周縁に追いやられた人々、抑圧された人々——彼らの声に耳を傾け、愛をもって応答することが、私たちに求められています。

大斎節は、私たちの内面を見つめ直し、神との関係を深める時であると同時に、外に向かって光を照らす備えをする時でもあります。この時を通して、私たちはどのように生きるべきかを改めて問われています。変容の光を受けた者は、それを隠しておくことはできません。その光をもって、世の闇を照らす使命が、私たちには与えられているのです。

主イエスは、私たちに「これに聞け」と言われました。私たちはその言葉に従い、イエスの教えを聞き、その道を歩んでいきたいと思います。試練の中にあっても、愛をもって生きることによって、神の光を世に示す者とされるように。心を新たにし、祈りのうちに、大斎節の旅をともに歩んでいきましょう。

《祈りましょう》

恵み深い神よ、
あなたの栄光の光が私たちを包み、導いてくださることを感謝します。
主イエスの変容を通して、あなたが私たちに示された恵みを思い起こします。
どうか私たちも、その光の中を歩む者となることができますように。

私たちは、自らの弱さと限界を知りながら、悔い改めの心をもって大斎節へと向かいます。
この時を通して、あなたに立ち返り、信仰を深めることができますように。
私たちがあなたの言葉に聞き従い、日々の生活の中であなたの愛を映し出すことができますように。

世界の混乱の中で、私たちはあなたの正義と平和を求めます。
政治の腐敗、経済の格差、言論の自由の危機、極端な思想の広がり——
これらの問題に対して、私たちが無関心でいることがありませんように。
あなたの光のもとで、正義を行い、隣人を愛し、誠実に生きることができますように。

苦しむ人々のために祈ります。
病にある者、孤独にある者、悲しみの中にある者、希望を失いかけている者に、
あなたの慰めと力が注がれますように。
私たちが彼らの支えとなり、共に歩む者とされますように。

主よ、どうか私たちの歩みを照らしてください。
あなたの言葉に従い、愛と誠実をもって生きることができますように。
私たちの小さな行いが、あなたの光をこの世界に映し出すものとなりますように。

主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

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