+主の平和がありますように。
早春の冷たさが残る日々ですが、時折差し込む陽光に、春の訪れを感じる頃となりました。皆様のご健康はいかがでしょうか。私たちはこうして神の御前に集い、共に祈り、御言葉に耳を傾ける恵みを与えられていることを心から感謝いたします。季節が移り変わる中で、私たちの心もまた、新たな歩みへと導かれていくことを感じます。
この日曜日を迎えるにあたり、私たちは教会暦の一つの転換点に立っています。大斎節前主日、すなわち灰の水曜日を目前に控えたこの日は、信仰の旅路において特別な意味を持つ時です。やがて訪れる大斎節は、悔い改めと霊的鍛錬の期間であり、主イエス・キリストが荒野で四十日間断食し、試練を受けられたことを覚える時です。この四十日間の歩みは、単なる伝統ではなく、私たちが神との関係を深め、自らを見つめ直すための霊的な旅路なのです。
この大斎節前主日は、その入り口に立ち、これから始まる信仰の旅を見据える日です。まるで山の頂から広大な景色を見渡すように、私たちはここで立ち止まり、来たるべき霊的な道程を静かに見つめる機会を与えられています。今日の福音書に記される「主の変容」の場面は、まさにその象徴です。イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴い山に登り、栄光に輝かれる姿を弟子たちに示されたこの出来事は、私たちにとって深い示唆を与えます。神の栄光の輝きを仰ぎ見る時、私たちは同時に、その栄光が十字架の苦しみを経て現れるものであることを思い起こさねばなりません。信仰の道は、ただ喜びや栄光に満ちたものではなく、時には試練や困難を通してこそ、より深い意味を持つのです。
私たちもまた、この大斎節前主日にあたり、己の歩みを振り返る時を持ちたいと思います。私たちは今、どのような信仰の道を歩んでいるでしょうか。主の光に照らされる時、私たちは自らの弱さや過ちを見出し、それを悔い改める機会が与えられます。そして、その悔い改めこそが、主の愛と赦しの深さを知る恵みの時となるのです。大斎節とは、私たちが新たにされるための時であり、主の御前に立ち返る機会です。
今週、世界ではさまざまな出来事がありました。戦争の脅威はなお続き、政治の混乱や経済的不安が多くの人々の生活を揺るがしています。私たちの暮らす社会は、不確実性と混沌の中にあります。しかし、だからこそ、私たちはキリスト者として、どのように生きるべきかを深く考えなければなりません。世の不安にただ流されるのではなく、信仰の光を頼りに、愛と正義をもってこの世界に関わることが求められています。
教会時論を通して、私たちは今日の世界において果たすべき使命を探り、共に考えていきたいと思います。聖書が示す真理を指針とし、私たちの信仰が単なる内面的な思索にとどまることなく、社会に対する責任ある行動へと結びついていくように願います。主の導きのもと、私たちがこの時をどう歩むべきかを共に見つめていきましょう。
《教会時論》
現代社会における課題に目を向け、私たちがどのように関わり、どのような責任を果たすべきかを共に考えたいと思います。私たちは日々、社会の動きと向き合い、その変化の中で自身の価値観や信念を問い直す機会を与えられています。時に、社会の激動は私たちの心を大きく揺さぶり、不安や戸惑いを覚えさせます。その中で、私たちはどのような態度を持ち、どのように歩むべきかを、今一度深く考える時がきています。
いま世界は、大きな転換点にあります。国際社会では、民主主義の根幹が揺らぎ、政治の不透明さや経済の不安定さが深刻さを増しています。ナショナリズムの台頭、権威主義的な政治の広がり、社会の分断の加速——これらの現象は決して遠い国の出来事ではなく、私たちが生きるこの社会にも影響を及ぼしています。日本国内においても、経済指標が示す数字とは裏腹に、人々の暮らしは厳しさを増し、格差が広がり続けています。誰もが平等に希望を持てる社会を目指すはずの政治が、果たしてその役割を十分に果たしているのか、改めて問われています。
さらに、言論の自由や学問の独立が揺らぐ中で、真実を知る権利や、多様な意見が尊重される社会の在り方が脅かされています。情報の操作や誤った言説の拡散が進む中で、私たちは何を信じ、どのように判断するべきかを慎重に考えなければなりません。死刑制度や司法のあり方、教育の機会均等、社会的弱者の権利、経済政策の公平性——これらは単なる時事的な話題ではなく、社会の根幹にかかわる問題であり、私たち一人ひとりの生き方に直結する重要な課題です。
今日取り上げるニュースは、どれも私たちの社会のあり方を映し出すものであり、決して他人事として済ませることはできません。政治の透明性、経済の公正さ、人権の保障、死刑制度の是非、そして極端な政治思想の広がり。これらの問題に対して、私たちはどのような姿勢を持ち、どう行動すべきなのでしょうか。こうした社会の課題を前に、キリスト者としての使命をどのように果たしていくべきかを、聖書の教えと照らし合わせながら考えていきたいと思います。
主は、「あなたがたは世の光である」と語られました。光は闇の中でこそ輝きを放つものです。困難や混乱があるからこそ、私たちは信仰を持ち、正義と真実を求め続けるべきではないでしょうか。社会の課題に目を背けるのではなく、その現実を直視し、解決に向けて祈り、語り、行動すること。それこそが、私たちがキリストに従う者として求められている責任なのです。今日の議論が、私たち自身の信仰と社会的責任について深く考える契機となることを願います。
【維新県議の情報漏えいと民主主義の危機】
政治の公正さは民主主義の土台であり、その信頼を守ることはすべての公職者に課せられた責務です。しかし、兵庫県議会で明るみに出た情報漏えいの問題は、政治が本来持つべき誠実さを根本から揺るがすものでした。
日本維新の会に所属する増山誠県議、岸口実県議、及び別の1名(氏名不詳)の3人が、斎藤元彦兵庫県知事のパワーハラスメント疑惑に関する調査の過程で、告発者である元兵庫県民局長(故人)の個人情報を外部に流出させ、特定の政治目的に利用していたことが発覚しました。これは、単なる政治倫理の逸脱にとどまらず、民主主義の根幹を揺るがす重大な問題です。
特に問題視されるのは、増山誠県議が、県議会の調査特別委員会(百条委員会)で行われた証人尋問の録音データを、兵庫県知事選の告示直後に外部に提供していたことです。この録音には、知事の元側近であった元兵庫県副知事が、告発者である元県民局長(2023年7月に死去)の個人情報に触れる場面が含まれていました。その後、岸口実県議は、元県民局長を「黒幕」と断じた文書を、ある政治団体(団体名不詳)に提供し、SNS上での誹謗中傷を助長しました。
その結果、元県民局長は世間からの強い圧力にさらされ、最終的には命を絶つに至った可能性が指摘されています。公職者の行為によって、個人の尊厳が踏みにじられ、生命までも危険にさらされるという現実は、民主主義国家として決して容認できるものではありません。
証人尋問を非公開とする決定は、調査の公正性を確保し、当事者の安全を守るためのものでした。しかし、増山誠県議は「県民が真実を知らないまま選挙に入ることに危機感を抱いた」と弁明しましたが、結果的には選挙戦の流れを特定の方向に誘導しようとする意図があったことは明白です。
民主主義は情報の透明性によって支えられていますが、その透明性は公正さと倫理の枠内で維持されるべきものです。特定の目的のために情報を都合よく利用する行為は、透明性の本質を損ない、民主主義の根幹を損ないます。
今回の問題が示す本質的な危機は、単なる情報の漏えいではなく、それが意図的に政治的な武器として使われたことにあります。告発者の私生活に関する情報が暴露され、世間の目にさらされたことで、その人物の信頼や人生そのものが破壊されようとしました。
さらに、NHKから国民を守る党代表だった立花孝志氏が拡散した情報の中には事実とは異なる内容も含まれていたとされています。こうした誤った情報が短期間のうちにSNSを通じて拡散し、社会の認識を歪めたのは、政治的プロパガンダの典型であり、民主主義に必要な健全な議論を不可能にするものです。
この事件を単なる地方政治の問題として片付けてはなりません。情報が氾濫する現代社会において、特定の権力者が意図的に情報を操作し、世論を誘導する危険性は、すでに世界中で顕在化しています。日本でもこのような手法が公然と用いられるようになれば、政治への信頼は決定的に失われ、民主主義の基盤そのものが崩れ去るでしょう。情報を操作することで民意が歪められるならば、それはもはや民主主義とは言えません。
政党の対応も厳しく問われるべきです。日本維新の会の代表である吉村洋文・大阪府知事は、今回の行為を「ルール違反」と認めつつも、「本人たちの思いは分かる」と発言しました。しかし、こうした発言は、事実上、不正行為に一定の理解を示すものと受け取られかねません。もし政治家が「規則を破ることにも理由がある」と言い始めたら、政治の倫理は際限なく崩れてしまいます。政党のリーダーが明確な態度を示さず、不正を曖昧にすれば、有権者の政治への信頼は失われる一方です。
聖書には、こうあります。「偽りの証言をしてはならない」(出エジプト記20:16)。これは、単なる道徳の教えではなく、社会の公正さを守るための基本的な原則です。私たちは、真実に基づいて判断し、誤った情報に流されないよう慎重であるべきです。また、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)という言葉は、個人の関係性だけでなく、社会全体の在り方にも適用されるべきものです。政治においても、互いの尊厳を認め、正義と誠実さをもって対話することが求められます。
私たち市民も、この問題を他人事として見過ごしてはなりません。政治の透明性を守るためには、市民が正しい情報をもとに判断し、必要な時には声を上げることが不可欠です。公正な選挙が行われるためには、政治家の行動を厳しく監視し、誤った情報に振り回されない社会的な成熟が必要です。民主主義は、一人ひとりの意識によって守られるものです。政治家だけでなく、市民一人ひとりがこの事件をどう受け止め、どう行動するかが、社会の未来を決めるのです。
この事件は、単なるスキャンダルではなく、情報操作の危険性と民主主義の根幹を揺るがす問題として捉えるべきです。私たちは、誠実な政治を求め続け、透明性と公正を守るために、日々の生活の中で何ができるのかを問い続ける必要があります。光は闇の中でこそ輝きを放つものです。正義と誠実さを大切にし、より良い社会のために信仰に基づいた行動を示していきましょう。
【GDP過去最大—生活の実感には程遠い】
内閣府が発表した2024年の国内総生産(GDP)は609兆2887億円に達し、過去最大を記録しました。しかし、この数値が示す「成長」は、果たして私たちの暮らしの豊かさを意味するものなのでしょうか。物価変動を除いた実質GDPの増加率はわずか0.1%。それは、経済全体としての成長ではなく、一部の層に利益が集中する現実を浮き彫りにしています。私たちが目にするのは、日々の暮らしの中で広がる格差、そして増大する生活の不安です。
この「成長」が誰のためのものかを見極めることが重要です。円安の影響もあり、輸出企業を中心に大企業の業績は好調を維持し、財務省の発表では、大企業の内部留保は600兆円を超えて過去最高となりました。これは、一握りの企業にとっては繁栄の証かもしれません。しかし、その富は国民の暮らしに行き渡っているでしょうか。実質賃金は前年比0.2%減少し、労働者の生活はむしろ苦しくなっています。賃金の伸びが物価高に追いつかない現実の中で、多くの家庭は日々の生活を維持することに精一杯です。
特に年金生活者や障害を抱える人々にとって、現在の経済状況は深刻です。年金支給額の改定は物価上昇に見合うものではなく、高齢者の多くが食費や光熱費を切り詰めながら暮らしています。「老後の安心」とされてきた年金制度も、もはやその機能を果たしているとは言い難く、不安の中で老後を迎える人々が増えています。また、障害を持つ人々は、支援制度の不備と物価高騰の二重の圧迫に直面し、医療費や生活費の負担増に苦しんでいます。「成長」が本物であるならば、その恩恵が最も支援を必要とする人々に届かなければなりません。
政府はこの状況をどう見ているのでしょうか。経済政策は「成長」を強調し、企業の競争力向上や市場活性化を推進するものの、低所得者や社会的弱者への直接的な支援は後回しにされています。企業には減税が適用される一方で、労働者の賃金は上がらず、消費税や社会保障の負担は増え続ける。この構造が続く限り、格差はますます拡大し、一部の富裕層と大企業が繁栄を享受する一方で、国民の大多数は経済的な不安を抱えたまま生きることになります。
聖書には「あなたがたのうちで最も小さい者が、最も偉大な者となる」という言葉があります。これは、社会の最も弱い立場にある人々にこそ、最大の配慮が必要であることを示しています。もし経済の「成長」が富裕層と企業だけに恩恵をもたらし、貧困層や障害を抱える人々が取り残されるような社会であるならば、それは聖書の示す正義とは相容れません。経済の本当の成功とは、単なる数字の向上ではなく、すべての人々が安心して暮らせる環境が整うことにこそあるべきです。
かつて、日本は「一億総中流社会」と呼ばれ、多くの人々が安定した暮らしを享受していました。しかし、現在ではその姿は失われ、格差は拡大の一途をたどっています。賃金が上がらず、物価だけが上昇し、社会保障の負担が増えるなかで、国民の生活の質は確実に低下しています。聖書には「富める者はますます富み、貧しい者はますます乏しくなる」とあります。この言葉が現代社会の現実となってしまっている今、私たちはどのように向き合うべきでしょうか。
私たちは、社会の最も困難を抱える人々にこそ目を向けなければなりません。政府には、大企業の内部留保を適切に活用し、賃金上昇や社会福祉の充実に資する政策を求めるべきです。また、低所得者への直接的な支援策を拡充し、生活の安定を図ることが急務です。同時に、私たち一人ひとりも、社会の仕組みを知り、公正な富の分配を求める声を上げる必要があります。
聖書には「主は飢えた者に良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返される」とあります。この言葉は、経済的な不均衡を正すことが神の御心であることを示唆しています。成長の名のもとに、一部の人々だけが富を享受し、その他の多くの人々が苦しむ社会は、決して健全ではありません。真に目指すべきは、すべての人が経済的安定を実感できる社会です。単にGDPの数字が伸びることではなく、その恩恵が公平に分配され、誰もが豊かさを享受できる社会こそが、私たちの目指すべき姿ではないでしょうか。
経済のあり方は、単なる政策や統計の問題ではなく、人間の生き方そのものに関わる問題です。富の偏在を正し、誰もが安心して生きることができる社会を築くことこそ、私たちの使命であると信じます。今こそ、行動を起こすときです。
【高校無償化合意—教育の機会均等か、新たな格差の温床か】
高校無償化の合意は、日本の教育政策において大きな転換点となっています。自民、公明、日本維新の会の三党による合意のもと、2025年度から高校授業料の無償化がすべての世帯を対象に実施されることになりました。これにより、公立・私立を問わず年11万8800円の就学支援金が支給され、さらに2026年度からは私立高校に通う生徒への支援額の上限が45万7000円に引き上げられ、所得制限も撤廃される見込みです。一見すると、高校進学率がほぼ100%に達している現代において、すべての子どもが学ぶ機会を平等に享受できる制度が整備されたかのように思えます。しかし、この施策が果たして真の「機会均等」へとつながるのか、それとも新たな教育格差を生む原因となるのか、慎重な検証が求められます。
教育の無償化は、多くの家庭にとって朗報であることは間違いありません。特に、経済的な事情で進学をためらっていた家庭にとって、この政策は子どもたちの未来を開く大きな支えとなるでしょう。しかし、学びの機会が名目上は均等に与えられたとしても、その中身が伴わなければ、教育の本質は守られません。単に費用を免除するだけではなく、教育環境の向上と質の確保こそが求められています。
懸念される問題の一つは、私立高校の授業料の値上げです。東京都や大阪府ではすでに私立高校の無償化が進んでいますが、その結果、一部の学校では授業料が引き上げられる事態が発生しました。公的な支援の拡充が学校側の便乗値上げにつながるようなことがあれば、結果として保護者の負担は減らず、支援の意義が損なわれてしまいます。教育費の補助が本来の目的通りに機能するためには、各学校の授業料の適正化と、補助金の使途が適切であるかを監視する仕組みが不可欠です。
もう一つの大きな課題は、公立高校の衰退の可能性です。東京都や大阪府では、私立高校への支援が手厚くなるにつれ、公立高校の人気が低下し、一部の学校では定員割れが生じています。もし「私立=良質な教育」「公立=教育水準が低い」というイメージが定着してしまえば、公立高校の地盤は大きく揺らぎます。本来、教育の場はどの学校であっても平等であるべきですが、政策の実施方法を誤れば、「格差の是正」ではなく、「新たな不平等」を生み出しかねません。
さらに、この政策の持続可能性も問われています。年間5000億円を超える財源が必要とされていますが、政府はその具体的な確保策を十分に示していません。経済状況の変化や財政の逼迫によって、将来的に支援額が削減される可能性も考えられます。短期的な施策としては効果的でも、長期的に持続可能な仕組みでなければ、子どもたちの教育環境を安定して支えることはできません。教育の機会均等を本気で実現するのであれば、安定した財源の確保が不可欠であり、一時的な政策ではなく、制度としての確立が求められます。
この施策が教育の質を向上させることにつながるのかも、十分に検証されるべき点です。現在、日本の教育現場では教員不足や過重労働の問題が深刻化しており、授業料の無償化だけではこれらの課題は解決できません。教育の質を向上させるためには、教員の待遇改善、学習環境の整備、そして何よりも、子どもたちが安心して学べる環境を作ることが不可欠です。無償化が真に価値あるものとなるためには、こうした総合的な改革が同時に進められる必要があります。
聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。教育もまた、単に学費の負担を取り除くことが目的ではなく、人としての成長を促し、より良い未来を築くための礎となるものでなければなりません。単に経済的な支援を与えるだけではなく、知識を正しく活用し、社会の中で責任を果たせる人間を育てることこそが、本当の教育の役割です。無償化政策が、単なる制度の整備に終わらず、すべての子どもたちの可能性を最大限に引き出すものとなるよう、より一層の慎重な議論が必要です。
また、「子どもを怒らせず、主の教えと諭しによって育てなさい」との言葉もあります。教育とは単なる知識の伝達ではなく、人格を育み、共に生きる力を養うことにほかなりません。もし無償化政策が、経済的な支援に重点を置くあまり、教育そのものの質を低下させるものであれば、それは本末転倒です。教育を受けることがすべての子どもにとって希望となるよう、社会全体で支え合うことが求められます。
この政策が本当にすべての子どもたちにとって有益なものとなるのか、私たちはしっかりと見極めなければなりません。単に制度を導入することが目的ではなく、その実効性を冷静に分析し、必要な対策を講じることが重要です。政府は、私立高校の授業料の適正な管理、公立高校の教育水準の維持と向上、教員不足の解消と教育環境の改善、持続可能な財源確保の道筋を明確にする責務を負っています。
市民としても、教育のあり方に関心を持ち、地域社会や教会を通じて子どもたちの学びを支える取り組みを行うことが大切です。教育は社会全体の未来を形作るものであり、単なる無償化という施策にとどまらず、すべての子どもたちが公平に学び、成長できる環境を築いていくことが求められています。未来を担う子どもたちのために、私たち一人ひとりが何をすべきかを考え、行動する時ではないでしょうか。
【日本学術会議改組—独立性の確保か、政府の統制強化か】
日本学術会議の改組をめぐる議論は、単なる組織改革にとどまらず、学問の自由と政府の統制という根本的な問題を問い直すものとなっています。政府は、学術会議の選考過程の透明性を高め、より多様な知見を取り入れるためとして「選考助言委員会」や「評価委員会」の設置を盛り込んだ法案を準備しています。しかし、こうした制度改革が、学術会議の独立性を損ない、学問が政治の意向に左右されることにつながるのではないかという懸念が広がっています。
学術会議は戦後、日本の科学者を代表する機関として設立され、時に政府の政策に対して批判的な提言を行う役割を担ってきました。そのため、政府が学術会議の運営に直接関与する仕組みを持ち込めば、研究の方向性や内容に影響を及ぼし、学問の自由が脅かされる可能性があります。歴史を振り返れば、学問が政治権力に従属し、時の政府の意向に沿って利用された事例は決して少なくありません。戦時中の科学研究が国家の戦争遂行に動員された過去は、その最も象徴的な例でしょう。学問は権力の道具ではなく、真理を追究し、社会全体の発展と福祉に寄与するものでなければなりません。
こうした背景から、歴代会長をはじめ多くの学者が改組案に反対の声を上げています。彼らは、政府が学術会議の活動を監視し、運営に影響を及ぼす仕組みを導入すれば、学問の独立性が損なわれることを懸念しています。学問の世界は短期的な政治の都合ではなく、長期的な視野に立って研究が積み重ねられるものです。時として、政府の方針と対立することがあったとしても、それこそが学問の持つ本来的な価値であり、科学が社会の指針を示すために不可欠な役割を果たしているのです。
しかし、学術会議自身の在り方にも問題がないわけではありません。現行の会員選考プロセスが閉鎖的で、一部の学派に偏りがあるとの指摘は以前からありました。特定の分野の学者が過度に影響力を持ち、多様な視点が反映されにくいという課題も指摘されています。学術会議がより開かれた議論を促し、社会に対して明確な説明責任を果たすことは必要です。しかし、だからといって、政府主導の改革が正当化されるわけではありません。本来、学術会議の改革は、学術界自身が自主的に進めるべきものであり、政治的な介入があってはならないのです。
聖書には「真理はあなたがたを自由にする」とあります。学問が自由であることは、単に研究者の権利の問題ではなく、社会全体にとって不可欠なものです。もし、学術会議が政治の圧力に屈するようになれば、その影響は研究者だけでなく、科学技術の発展や政策決定の質にも及びます。社会にとって不都合な事実や意見が抑えられるようになれば、私たちは真実を知る機会を失い、より良い未来を築く可能性が狭められてしまうのです。
また、「知恵は金よりも貴い」との言葉もあります。学問の価値は、ただ知識を蓄積することにあるのではなく、それを正しく活用し、人々の幸福に役立てることにあります。学術会議が本来の役割を果たし続けるためには、政府の干渉から一定の距離を保ちつつ、自らの改革を進め、社会に対してより開かれた形で知見を提供していくことが求められます。
政府には、学術会議の独立性を損なうことなく、真に必要な改革が何であるのかを慎重に見極める責任があります。また、私たち市民も、学問が権力の道具とならないように、その行方を見守ることが求められています。学問の自由は、単なる研究者の問題ではなく、社会全体の知的基盤を支える重要な柱なのです。学術の独立が確保されることは、ひいては民主主義の健全な発展にもつながります。政治の影響を受けずに、自由に知を探求できる環境を守ること。それこそが、次世代に引き継ぐべき知的遺産であり、私たちが果たすべき責任なのではないでしょうか。
【死刑制度と世論—重層的な思いに耳を傾け、公正な議論を】
死刑制度をめぐる議論は、日本社会において長年にわたり燻り続けてきました。今回公表された政府の世論調査によると、「死刑もやむを得ない」と答えた人が83.1%に上る一方、「死刑は廃止すべきだ」との意見は16.5%にとどまりました。これを受けて政府は、「国民の大多数が死刑を支持している」とし、制度の存続を正当化する根拠として用いています。しかし、刑罰の根幹に関わる重大な制度が、単なる多数決で決められてよいのでしょうか。世論の動向を政治が無視すべきではないにせよ、「多数が支持するから正しい」という単純な理屈は、果たして正義にかなうのでしょうか。
この調査において、死刑存続を支持する人々の多くは、「被害者や遺族の無念を晴らすため」「凶悪犯罪の抑止のため」「死刑を廃止すると治安が悪化する」との理由を挙げています。一方で、廃止を求める側は、「誤判があった場合に取り返しがつかない」「国家が人を殺す権利を持つことは許されない」と主張します。双方の意見には、それぞれ深い倫理的・社会的背景があり、単なる感情論では片付けられません。
特に注目すべきは、「死刑もやむを得ない」と答えた人々の中にも、「状況が変われば将来的には廃止も考えられる」とする意見が一定数含まれていることです。このことは、死刑制度への支持が必ずしも確固たるものではなく、現状の社会情勢や報道のあり方に左右される側面があることを示唆しています。さらに、調査の設問そのものにも問題があります。「死刑もやむを得ない」という表現は、「積極的に賛成する」という意味とは限らず、消極的容認の立場も含んでいます。そのため、単純な二者択一ではなく、より多様な選択肢を提示することで、より正確な国民の意識を反映できる調査方法が求められます。
世界に目を向ければ、死刑を廃止または停止している国はすでに七割を超えています。フランスでは1981年に死刑を廃止しましたが、その当時の世論はむしろ存続を支持する声が大きかったといいます。しかし、教育や啓発、政治のリーダーシップを通じて、国民の意識は次第に変化し、現在では死刑復活を求める声はほとんど聞かれません。これに対して日本では、政治が世論にただ迎合する形で死刑を存続させている状況が続いています。刑罰のあり方は、人権や法の精神に基づいて議論されるべきものであり、単に「多数派が支持するから正しい」という考え方で決められるものではないはずです。
日本における死刑制度の最大の問題の一つは、誤判の可能性です。昨年、袴田巌さんの再審無罪が確定しましたが、彼は半世紀以上にわたり死刑囚としての生活を強いられました。もし判決が覆る前に刑が執行されていたら、国家は取り返しのつかない過ちを犯していたことになります。このような冤罪のリスクを抱えながら死刑を存続させることが、果たして正義にかなうのでしょうか。冤罪の可能性が少しでもある限り、国家が死刑という不可逆的な刑罰を科すことには慎重でなければなりません。
さらに、死刑制度の是非を考える上で、被害者や遺族の感情を軽視することはできません。犯罪によって最愛の人を奪われた遺族の悲しみや怒りは計り知れないものであり、その無念に寄り添うことは社会全体の責務です。しかし、刑罰は感情に基づいて決定されるものではなく、公正な司法制度のもとで運用されるべきものです。遺族の心情を尊重しつつも、司法の役割を冷静に見極めることが求められます。実際、多くの国では、死刑を廃止した後も厳格な終身刑の導入や、被害者支援の拡充を進めることで、刑罰の厳格さと人権の尊重を両立させています。
聖書には、「正義と公正を愛し、貧しい者を顧みよ」と記されています。刑罰の目的は、単なる報復ではなく、社会の秩序を保ち、再び罪を犯させないことです。もし死刑制度が冤罪を生むリスクを内包しているならば、それは真の正義とは言えません。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との教えもあります。これは、犯罪者を無条件に許すことを意味するのではなく、怒りや復讐の感情だけで刑罰を決定することの危うさを戒める言葉ではないでしょうか。
死刑制度をめぐる議論は、単なる「存続か廃止か」という二元論ではなく、その背景にある倫理観や社会のあり方を含めて考えなければなりません。政府は、世論調査の結果を単純に受け入れるのではなく、より深い議論を国民とともに行い、死刑の本質について考える場を設けるべきです。そして、私たち一人ひとりも、この問題に真剣に向き合い、人間の尊厳とは何か、社会が果たすべき役割とは何かを問い続けるべきではないでしょうか。
「主は、義を愛し、正義を行われる」とあります。正義とは単に多数決によって決められるものではなく、人間の尊厳を尊重し、慎重に議論を重ねた末に生み出されるものです。死刑制度をめぐる議論は、私たちの社会がどのような価値観を大切にしているのかを映し出す鏡のようなものです。この問題を通じて、私たちが何を選び、どのような未来を築いていくのかが問われています。安易な結論を急ぐのではなく、今こそ冷静かつ公正な議論を深めていく時ではないでしょうか。
【ドイツ総選挙と極右の台頭—分断を深めるのか、民主主義の危機か】
ドイツの総選挙が幕を閉じ、中道左派の社会民主党(SPD)は歴史的な敗北を喫し、中道右派のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が最大政党の座を奪還しました。しかし、この選挙が世界に投げかけた最も衝撃的な事実は、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が20%以上の得票率を記録し、第2党にまで躍進したことです。この出来事は単なる国内政治の動向にとどまらず、欧州全体、さらには世界の民主主義の在り方にまで深刻な影響を及ぼす可能性を秘めています。
第二次世界大戦の惨禍を経て、ドイツは民主主義の砦として生まれ変わりました。戦後のドイツ社会は、極右思想の再燃を厳しく警戒し、過去の過ちを繰り返さぬよう、教育や法制度を通じて社会全体に警鐘を鳴らし続けてきました。にもかかわらず、いまやナショナリズムの波がドイツの政治地図を塗り替えつつあります。この現象が意味するものは、単なる政党の勢力図の変化ではなく、戦後ドイツが築き上げた「多文化共生」と「開かれた社会」という理念そのものが揺らいでいるということにほかなりません。
なぜ、このような事態が生じたのでしょうか。その背景には、経済的不安と政治に対する深い不信感があります。ドイツ経済は、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格の高騰、産業の脱炭素化に伴うコスト増加、さらには主要産業である自動車業界の低迷といった複合的な要因によって大きな打撃を受けています。特に、旧東ドイツ地域では長年にわたり経済格差が解消されず、不満を募らせた市民がAfDの扇動的なレトリックに惹かれています。「移民が労働市場を圧迫し、社会保障制度を食い潰している」といった単純化された主張が、経済的に困窮する人々にとって一種の「救い」として響いているのです。
極右の台頭はドイツ国内にとどまるものではありません。フランスやオランダ、イタリアといった欧州各国でも、既成政党への信頼が揺らぎ、排外主義的な勢力が勢いを増しています。AfDの躍進は、欧州連合(EU)の結束にとっても危険な兆候です。EUの統合を支えてきたのは、各国の協力と連帯の精神でしたが、もしドイツが極右の影響をより強く受けるようになれば、この枠組み自体が危機にさらされることになります。統合と分断のせめぎ合いの中で、欧州は今後どのような道を歩むのでしょうか。
特に憂慮すべきは、アメリカのトランプ政権の高官らがAfDに対する支持を公然と表明し、政治的影響力を行使しようとしていることです。他国の選挙に露骨に介入する行為は、国際社会の基本原則を踏みにじるものであり、看過できるものではありません。トランプ政権は「自国第一主義」を掲げ、国際協調よりも自国の利益を優先する姿勢を強めています。このような動きが、ドイツ国内の極右勢力にさらなる勢いを与え、欧州全体の政治的均衡を崩す可能性が高まっています。
こうした状況の中で、ドイツの新政権には極めて重要な役割が求められています。国民の不満に適切に対応する政策を打ち出しつつも、排外主義や人種差別的な言説とは一線を画し、社会の分断を防がなければなりません。経済的不安に乗じて敵を作り出し、特定の人々を攻撃することで支持を集める政治手法は、短期的には成功するかもしれませんが、長期的には社会の安定を損なうだけです。歴史の教訓を胸に刻み、持続可能で包括的な政策を推進することこそが、ドイツの未来を左右する鍵となるでしょう。
聖書には、「すべての人に善を行い、平和を追い求めよ」とあります。政治の世界においても、分断を煽るのではなく、共生の道を探ることが求められています。極右勢力の台頭に対して単に非難するのではなく、その背景にある社会の構造的問題を直視し、適切な対策を講じることが不可欠です。極端な主張に走るのではなく、多様な価値観を尊重し、調和を生み出す政治のあり方を追求すること。それが、真に平和で持続可能な社会を築くための道ではないでしょうか。
ドイツの選挙結果は、欧州の未来を占う試金石であるだけでなく、日本を含む世界の民主主義の在り方に対しても大きな問いを投げかけています。分断と対立ではなく、対話と共生を基軸とした社会を築くために、私たちは何を学び、どのように行動すべきなのか。いまこそ、歴史の教訓を深く胸に刻み、より公正で包摂的な社会の実現に向けて、一人ひとりが考え、行動する時ではないでしょうか。
今日、私たちは社会のさまざまな課題に目を向け、それがもたらす影響と、私たちが負うべき責任について深く考えてきました。政治の不透明さ、経済格差の拡大、人権の軽視、学問や言論の自由が脅かされる現実、死刑制度の是非、そして極端な政治思想の広がり——どの問題も、決して私たちとは無関係なものではなく、日々の暮らしの中で静かに、あるいは時に露骨に私たちに影響を及ぼしています。社会が直面するこうした課題に対して、キリスト者としてどのように向き合うべきか、そしてどのような行動を選び取るべきかを考えることは、単なる知的作業ではなく、まさに信仰の実践そのものであると言えるでしょう。
聖書には「正義と公正を愛し、貧しい者を顧みよ」とあります。これは単なる美辞麗句ではなく、社会の在り方そのものを問う、神の命じる根本的なメッセージです。弱い立場にある人々が取り残され、不当に扱われ、声を上げることすら許されない社会は、決して神が望まれるものではありません。政治や経済の決定がどのような形で影響を及ぼしているのか、私たちはその流れを注視し、必要があれば迷わず声を上げるべきです。神の目にかなう社会とは、すべての人が尊厳をもって生きることができる世界であり、そこに向けた歩みは、まさに私たち一人ひとりの責務なのです。
また、聖書には「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」とも記されています。今、世界には歪められた情報や虚偽が溢れ、偏見に基づく言説が広がっています。その中で、私たちは何を真実とするのか、どのように正しい判断を下すのかを問われています。誤った情報に流されず、感情的な扇動に惑わされることなく、冷静に物事を見極め、正しい知識を持ち、公正な視点で社会を捉えることが求められています。そのためには、まず私たち自身が、真理に対して誠実であることが不可欠です。
信仰とは、ただ心の中に抱く理念ではなく、具体的な行動を伴うものです。祈ることはもちろん大切ですが、それだけでは十分ではありません。私たちが現実の社会の中で、どのように神の愛と正義を示すのかが、今まさに問われています。社会の不正義に目を背けることなく、困難の中にいる人々と共に歩み、対話を重ね、平和と公正を求めること。その実践こそが、キリスト者に与えられた使命ではないでしょうか。
いま、世界はかつてないほどの不安と混乱に包まれています。しかし、暗闇が深ければ深いほど、光はより鮮やかに輝くものです。私たち一人ひとりの言葉や行動が、やがて社会の方向を決定づけるものとなることを信じ、希望を失わず歩みを続けたいと思います。この学びが、皆さんの信仰をさらに深め、社会と関わる上での指針となることを願ってやみません。
【おわりに フランシスコ教皇のご回復を祈って】
フランシスコ教皇の病状が改善に向かっているとの知らせに、私たちは安堵するとともに、一日も早いご回復を心よりお祈りいたします。教皇は、これまでにも幾度となく病を抱えながらも、変わらぬ慈愛の心をもって世界に平和と正義を訴え続けてこられました。特に、貧しい人々や社会の片隅に置かれた人々への深い配慮、また戦争や対立の只中にある世界への和解の呼びかけは、私たちにとって大いなる指針であり、信仰の実践の在り方を示すものです。
現在、教皇は病室で仕事を続けながら治療を受けておられるとのことですが、どうか十分な静養を得られ、完全な回復に至りますように。病床にありながらも、なお教会と世界のために務めを果たされるその姿勢に、私たちは深い敬意を抱きつつ、主がそのお体を支えてくださるよう、心を合わせて祈ります。
主が慈しみの御手をもって教皇を癒し、力を与え、再び健康を取り戻されるよう願ってやみません。フランシスコ教皇に主の恵みと慰めがありますように。そして、教皇の病を支える医療従事者の働きが祝福され、すべての治療が最善の形で実を結びますように。
《説教——変容の光に生きる:神の臨在と愛の実践》
【教会暦】
大斎節前主日
【聖書箇所】
旧約日課:出エジプト記 34章29-35節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 12章27節—13章13節
福音書:ルカによる福音書 9章28-36節
【はじめに】
山の頂は、神の啓示の場として聖書の中で繰り返し描かれます。そこは天と地の境界が薄れ、人間が神と出会う場所です。モーセがシナイ山で神の栄光を受け、その顔が輝いたように、イエスもまた、山の上で弟子たちにご自身の神性を明らかにされました。この大斎節前主日に読まれるルカによる福音書9章28-36節は、イエスの変容の出来事を伝えています。
この場面は、イエスの生涯の中で極めて重要な位置を占めています。イエスは、この直前の出来事で、ご自身が「苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」(ルカ9:22)ことを弟子たちに語られました。しかし、弟子たちはそれを完全には理解できませんでした。彼らにとって、メシアは勝利の王であり、苦しみを受ける存在ではなかったからです。そんな中で、イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登り、祈りのうちに変容されました。
突然、イエスの顔は光に包まれ、衣は白く輝きました。これは、単なる光の反射ではなく、神の栄光そのものでした。聖書の中で「光」は神の臨在を象徴します。モーセが神と語り合った後、その顔が光を放ったように(出エジプト記34:29-35)、イエスはこの時、まさに「神の子」としての本質を現されたのです。そして、その栄光の中に二人の人物が現れました。
それは、イスラエルの歴史において最も重要な二人、モーセとエリヤでした。モーセは律法を象徴し、エリヤは預言者を代表する存在です。彼らは共に、イエスの「エクソドス」について語っていました。ここで用いられている「エクソドス」という言葉は、「出発」「脱出」を意味し、モーセによる出エジプトとイエスの受難と復活を重ね合わせるものです。つまり、イエスの十字架の死は、単なる悲劇ではなく、神の偉大な救済の計画の一部であることが、この場面で示されています。
この出来事に驚きと畏れを抱いたペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう」と言い、三つの仮小屋を建てようとしました。これは、ユダヤの祭り「仮庵祭」との関連を示唆しています。仮庵祭は、イスラエルの民が荒れ野を旅したことを記念し、神が共におられることを祝う祭りです。ペトロは、イエスとモーセ、エリヤがそこにいることで、神の国が今ここに成就したと考えたのかもしれません。しかし、彼の言葉が終わらないうちに、神の臨在を象徴する雲が山を覆い、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が響きました。この言葉は、ヨルダン川でのイエスの洗礼の際に響いた神の声(ルカ3:22)と呼応していますが、ここでは「これに聞け」という言葉が加えられています。
この「聞け」という言葉は、申命記6:4の「シェマ」(聞け、イスラエルよ)を思い起こさせます。神の言葉に聞き従うこと、それこそが信仰の核心です。イエスの栄光を目の当たりにした弟子たちは、この時初めて、イエスの苦しみと死が神の計画の一部であり、それがすべての人を救うためであることを悟り始めたのです。
出エジプト記34章において、モーセが神と出会った後、その顔が光を放ち、人々は恐れました。しかし、モーセ自身はそれに気づいていませんでした。神との交わりは、外的な栄光として現れるだけでなく、人間そのものを変容させます。私たちが神に触れるとき、その影響は私たちの生き方に表れるのです。
また、コリントの信徒への手紙一12章27節から13章13節では、パウロが「最も優れた道」について語ります。それは、「愛」の道です。預言や知識、奇跡の力も重要ですが、それらはすべて一時的なものにすぎません。しかし、愛は永遠です。パウロは、「わたしたちは今は、鏡にぼんやり映ったものを見ているが、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(1コリント13:12)と述べます。これは、イエスの変容と関連しています。私たちは今、神の栄光を完全には理解できません。しかし、神の国が完成するとき、私たちはその栄光の中に生きる者とされるのです。
今日の聖書箇所は、私たちに深い問いを投げかけます。イエスの変容は、弟子たちの信仰を強め、やがて訪れる苦しみの時を乗り越える力を与えました。私たちもまた、人生の中で試練や困難に直面することがあります。しかし、神の栄光を信じ、愛の道を歩むならば、私たちの人生もまた、変えられていくのです。変容の出来事は、一瞬の奇跡ではなく、神が私たちに与えようとしている新しい生き方の約束なのです。
【イエスの変容——神の国の光の中で】
ガリラヤの丘陵地帯から遠く離れた山の頂で、三人の弟子たちは息を切らしながらイエスの後を追っていました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ。彼らは何度もイエスと旅をし、奇跡を目の当たりにしてきましたが、この山登りが特別なものになることを彼らはまだ知らなかったのです。彼らの足元に広がるのは静寂。人々の喧騒から遠く離れ、ただ神の創造の大いなる静けさだけがそこにありました。
イエスは祈り始めました。弟子たちは目を閉じ、しばし心を静めました。その時です。まばゆい光がイエスを包み込み、弟子たちは思わず目を開けました。そこにいたのは、彼らが見慣れたイエスではありませんでした。彼の顔はまるで太陽のように輝き、衣はどんな漂白剤でも成し得ないほどに白く光っていました。その光は、単なる外的な輝きではなく、神の栄光そのものでした。まるで天の扉が開き、神の世界がこの地に現れたかのようでした。
この輝きの中で、二人の人物が現れました。長い歴史の中で、誰もが名前を知るモーセとエリヤでした。モーセは律法を受け取った者、エリヤは神の声を大胆に語った預言者。この二人は、イスラエルの歴史を象徴する存在です。しかし、ここで重要なのは、彼らがイエスと対等な立場で並んでいたのではなく、イエスの栄光に仕える者として現れたことでした。
モーセはかつて、シナイ山で神の栄光を見たとき、顔が光を放ちました(出エジプト記34:29-35)。しかし、それは神の光を反射していただけでした。しかし、今ここにいるイエスは違いました。彼の光は、内から放たれていました。これは、イエスが単なる神の使者ではなく、神ご自身であることを示しています。
エリヤもまた、ホレブ山で神の声を聞いたとき、強風でもなく、地震でもなく、「静かにささやく声」の中に神の臨在を感じました(列王記上19:11-13)。そして今、その神の声の本体が、イエスの姿となって現れているのです。
モーセとエリヤが語っていたのは、イエスの「エクソドス」についてでした。この言葉はギリシャ語で「出発」を意味しますが、ルカはこれを意図的に使っています。出エジプトの出来事は、イスラエルの民が奴隷状態から解放され、約束の地へと導かれる旅でした。しかし、イエスの「エクソドス」は、人類全体を罪と死の束縛から解放する救いの業を意味しています。モーセが紅海を渡らせたように、イエスは十字架と復活を通して、すべての人を新しい命へと導かれるのです。
ペトロは、圧倒されながらも、なんとか言葉を絞り出しました。「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう。」そして、彼は三つの仮小屋を建てようと言いました。これは、ユダヤの仮庵祭の伝統に根ざした発言です。仮庵祭は、荒れ野を旅したイスラエルの民が神の保護の中で生きたことを記念する祭りでした。ペトロはこの神聖な瞬間が永遠に続くことを願い、それを仮小屋を建てることで定着させようとしました。しかし、彼は誤解していました。神の栄光は、人間の手によって固定されるものではなく、前に進むものだからです。
その瞬間、雲が山全体を覆いました。それは、旧約聖書にしばしば現れる「シェキナー」、つまり神の臨在の象徴でした。そして、その雲の中から声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」
これは、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けた時に響いた声(ルカ3:22)と似ていますが、ここでは「これに聞け」という命令が加えられています。神は、弟子たちに向かって、イエスこそが律法と預言の完成者であり、彼の言葉に従うことが神の御心にかなうことであると告げられました。
そして、光も雲も消え、モーセとエリヤの姿もなくなりました。ただ、そこにはイエスだけが立っていました。モーセもエリヤも偉大な存在でしたが、最終的に残るのは、ただイエスだけなのです。律法も預言も、すべてはイエスへと至るものだったからです。
弟子たちは沈黙しました。ペトロは、先ほどの自分の言葉がいかに的外れであったかを悟ったかもしれません。彼らは山を下りながらも、何を言うべきかわからず、ただ胸の中でこの体験を反芻していました。しかし、この出来事は彼らの中に消えることのない光として刻まれました。
この変容の出来事は、神の国の現実を一瞬だけ垣間見る機会でした。しかし、それは単なる一時の幻ではなく、イエスが十字架を通して成し遂げる救いの前触れでした。十字架の苦しみを前にした弟子たちが、この栄光の瞬間を思い出し、希望を失わないようにするためだったのです。
私たちの人生にも、光と闇の瞬間があります。私たちが苦しみに直面するとき、この変容の光は、神の国の希望を私たちに指し示してくれます。たとえ目の前が暗くなっても、私たちはこの光に導かれながら歩むことができるのです。
【愛の完成——律法と預言の頂点】
ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスと共に山を下りながらも、目の前で起こった出来事をまだ理解しきれずにいました。イエスの姿が栄光に輝き、モーセとエリヤが現れ、そして天の声が響いた。あの瞬間、神の国が垣間見えたように思えたのに、今は再び普通の風景の中に戻っています。何が起こったのか、それは何を意味するのか——彼らの心の中には、説明のつかない畏れと疑問が渦巻いていました。
この問いは、彼らだけではなく、私たちにも向けられています。イエスの変容は単なる奇跡の一場面ではなく、神の救いの歴史の中で極めて重要な意味を持つ出来事でした。それは、律法と預言が最終的に向かう頂点を示すものだったのです。
律法と預言の頂点とは何でしょうか。イエスの変容の場面では、イスラエルの歴史を象徴するモーセとエリヤが登場します。モーセはシナイ山で神から律法を授けられ、イスラエルの民に神の意志を示しました。一方、エリヤは不信仰の時代に神の言葉を語り続けた預言者でした。彼らは、イスラエルの宗教的伝統の中で最も偉大な二人の人物であり、その存在は、神の導きが歴史を通じて人々に示されてきたことを象徴しています。
しかし、この場面の核心は、モーセやエリヤがイエスと対等に並んでいるのではなく、むしろイエスの「光の中で」現れているという点にあります。モーセとエリヤは偉大な存在でしたが、彼らの使命はイエスへと向かうものだったのです。実際に、山を覆った雲の中から響いた神の声は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と語っています。ここで重要なのは、「これに聞け」という命令です。モーセとエリヤではなく、イエスこそが最終的な啓示であり、神の意志の完成であることが示されているのです。
このことは、パウロがコリントの信徒への手紙一で語る「愛の完成」というテーマと深く結びついています。パウロは、「たとえ、すべての神秘とあらゆる知識を知っていても、愛がなければ無に等しい」と述べました(1コリント13:2)。律法は神の意志を示し、預言は神の計画を告げ知らせますが、それらは最終的に「愛」へと至らなければなりません。イエスは、その愛の完成として、律法と預言を超える存在なのです。
ペトロが山の上で三つの仮小屋を建てようとしたのは、彼なりの信仰告白でした。彼は、この栄光の瞬間を固定し、永遠に留めておきたいと考えたのです。しかし、神の栄光は一つの場所にとどまるものではありません。それは動き続け、歴史を貫いて働き続けるものです。イエスが山を下りられたのは、神の愛がこの世界のただ中にあることを示すためでした。
この出来事は、私たちにとって何を意味するのでしょうか。私たちは、律法や預言を知っているだけではなく、それを「愛」として生きているでしょうか。私たちの信仰は、単に知識や義務として存在するものではなく、愛によって形作られるべきものです。
パウロは、「いまは、信仰と希望と愛、この三つが残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13:13)と語ります。信仰は私たちを神に結びつけ、希望は私たちに未来への確信を与えます。しかし、それらはやがて役割を終えます。神の国が完成するとき、私たちはもはや信じる必要も、希望を抱く必要もなくなります。なぜなら、そのときには神が完全に私たちのもとに来られ、すべてが成就するからです。しかし、愛だけは違います。愛は永遠に続くものです。
イエスの変容は、この愛の完成を指し示しています。律法と預言が導いたその先にあるもの、それは十字架の愛であり、復活の愛であり、私たちが生きるべき愛の道なのです。
変容の光は一瞬のものではなく、私たちの心の中に残るものです。その光は、私たちが日々の歩みの中でどのように神の愛を生きるかを問いかけています。律法や預言を学ぶだけではなく、それを生きること。知識だけではなく、愛に根ざした行動を選び取ること。それが、イエスが私たちに示された道なのです。
【変容の光を受けて——私たちの歩む道】
山の頂での神秘的な体験が過ぎ去った後、弟子たちはイエスと共に下山していきました。わずか数分前まで、彼らの目の前には天の光が広がり、モーセとエリヤが語り、神の声が響いていました。しかし、その光景は消え去り、彼らは再びこの世の現実へと足を踏み入れます。山の頂に留まり続けることは許されませんでした。彼らは、この地上において使命を果たさねばならなかったのです。
この下山の場面こそ、イエスの変容が示す最も重要なメッセージを象徴しています。私たちは、神の光に出会った時、それを自分の内に閉じ込めるのではなく、それを抱えて歩み続けるよう招かれているのです。
1. 信仰の現実——山上の栄光と日常の狭間で
変容の光に包まれた瞬間、ペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、なんと幸いなことでしょう」(ルカ9:33)と叫びました。彼は、この神聖な時間が永遠に続くことを願い、三つの仮小屋を建てようとしました。しかし、その願いは神の計画にはそぐわないものでした。イエスの栄光は、山の上にとどまるものではなく、この世に広がるべきものでした。
私たちの信仰生活もまた、この「山上の体験」と「日常の現実」との間を行き来するものです。霊的に満たされ、神の臨在を強く感じる瞬間があります。しかし、その恵みの時間は続かず、すぐに日々の悩みや試練の中へと戻らなければなりません。まさに弟子たちが山を下りたように、私たちもまた、神の光を携えながら、この世界の中で生きることを求められています。
変容の場面の直後、イエスと弟子たちは山を下り、次に彼らを待っていたのは悪霊に取り憑かれた少年の父親の嘆きでした(ルカ9:37-43)。この対比は極めて象徴的です。神の栄光に満ちた山上の体験から一転し、弟子たちは混乱と苦しみの現実に直面します。これは、信仰が現実の問題から切り離されるものではなく、むしろ現実の只中に神の光をもたらすものだということを示しているのです。
2. 変容の光をどう生きるのか
変容の出来事は、単なる「目撃される奇跡」ではなく、「生きられる信仰の現実」です。弟子たちは、あの光の中に立ち会うことで、イエスの真の姿を知りました。しかし、その知識は、単なる理解として留まるものではなく、彼らの生き方そのものを変えるべきものでした。
ペトロは後に、「主イエス・キリストの力と到来について言い伝えたとき、わたしたちは巧みな作り話に従ったのではなく、彼の偉大さを自分の目で見たのです」(2ペトロ1:16)と語りました。彼は、変容の光を目撃したことが、自らの信仰の根幹になったことを明言しています。しかし、その信仰は山の上に留まるものではなく、ペトロがこの世の中で福音を宣べ伝え、ついにはローマで殉教する道へと彼を導きました。
私たちは、どのように変容の光を生きることができるでしょうか。その答えは、パウロが語る「愛」にあります。「たとえ、すべての神秘とあらゆる知識を知っていても、愛がなければ無に等しい」(1コリント13:2)。変容の光は、ただ「神の栄光を示す奇跡」ではなく、「神の愛の顕現」でした。イエスが十字架の道へと向かわれる前に弟子たちに示されたのは、単なる力の証明ではなく、愛の光だったのです。
3. 変容は苦しみへの準備だった
イエスの変容は、弟子たちに「神の国の約束」を見せるものでしたが、それは同時に「十字架への準備」でもありました。イエスは栄光の姿を示されましたが、その後、彼はご自身の死と復活を予告されます(ルカ9:44-45)。これは、弟子たちにとって衝撃的なことでした。栄光と苦しみは、決して切り離すことのできないものでした。
同様に、私たちの信仰生活もまた、試練のないものではありません。時に、苦しみや疑い、困難に直面することもあります。しかし、変容の光を見た者は、それをただの一時的な体験として終わらせるのではなく、その光を自らの内に抱えながら歩んでいくのです。
ペトロ、ヨハネ、ヤコブは、山を下った後も何度もイエスに問いかけ、時には理解できずに戸惑いました。しかし、やがて彼らは、その光の意味を悟り、自らも神の国の証人として生きる者となりました。
4. 私たちの召命——この世において光を放つこと
私たちもまた、変容の光を受けた者として、この世において光を放つよう召されています。イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と語られました。それは、山上の光景をただ思い出すことではなく、その光をもって生きることを意味します。
信仰とは、単に個人的な霊的体験ではなく、それを社会の中で証しし、他者へと向けて開いていくものです。私たちの周囲には、まだ神の光を知らず、希望を見いだせずにいる人々がいます。私たちは、その光を受けた者として、それを分かち合う使命を与えられているのです。
変容の光は、イエスが神の子であることを証するものでしたが、それと同時に、「神の子の光に生きる者」としての私たちの召命を示すものでした。イエスが山を下られたように、私たちもまた、日常の中へとその光を持ち帰り、それを生きなければなりません。
変容の出来事は、私たちにとって単なる過去の出来事ではなく、今も私たちの人生において続いている現実です。私たちの信仰の旅路において、神の光が示される瞬間があります。それを忘れずに、日々の歩みの中で、その光を携えながら生きていきたいと願います。
山を下りた弟子たちのように、私たちもまた、この世のただ中で神の光を証ししながら歩んでいく者でありたいと願います。
【変容の光の中で生きる——信仰の証しとして】
山を下る弟子たちは、時折、背後を振り返ったかもしれません。あの栄光に満ちた光が、まだ山の頂で輝いているのではないかと期待しながら。しかし、見上げても、そこにはただ、青く広がる空と山の稜線があるばかりでした。まるで何もなかったかのように、風が静かに吹き抜けていきました。
しかし、彼らの心の中には、決して消えることのない光が残されていました。イエスの変容の出来事は、一瞬の幻ではなく、神の国の真理を彼らの魂に深く刻み込むものだったのです。そして、それは私たちにも同じ問いを投げかけています。
1. 変容の光の目的——ただの奇跡ではない
イエスの変容が意味するものは何でしょうか。それは単なる奇跡の一つではなく、神の国の現実が弟子たちの前に開かれた瞬間でした。この世の価値観ではなく、神の視点から見たときにこそ見えてくる真理の輝き。それを、一瞬でも体験した者は、もはや以前と同じ自分には戻ることができません。
モーセは、シナイ山で神と語り合った後、顔が輝き、それを見たイスラエルの民は恐れを抱きました(出エジプト記34:29-35)。しかし、モーセの光は神の栄光を反射したものにすぎませんでした。一方、イエスの変容においては、光が彼の内から放たれていました。これは、イエスが単に神の使者ではなく、神ご自身であることを示しています。
そして、この光の目的は何だったのでしょうか。それは、弟子たちに「十字架の先にあるもの」を示すためでした。これから訪れる苦難、迫害、死。イエスは、弟子たちがその試練の中で信仰を失わないように、彼らの目に神の国の輝きを映し出されたのです。
2. 変容の光を受けた者として生きる
変容の出来事は、弟子たちにとって、神の国の現実が確かであることを示すものでした。しかし、それは「見せられる」だけのものではありませんでした。その光を受けた者は、それを「生きる」ように求められています。
パウロは、「わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます」(2コリント3:18)と語りました。つまり、変容の光を見た者は、自らも変えられ、その光を映し出す者へと造り変えられていくのです。
では、私たちはどのようにこの光を生きるのでしょうか。
・日々の生活の中で、愛をもって生きること。
・他者を赦し、和解を選ぶこと。
・希望を失いそうな時にも、神の国の完成を信じること。
変容の光とは、単なる宗教的な体験ではなく、私たちの人生のあり方を変えるものなのです。
3. 山を下りること——光を証しする者としての使命
山の上に留まることは許されませんでした。ペトロは三つの仮小屋を建てようとしましたが、神は「これに聞け」とだけ語り、イエスは彼らを再び山の下へと導かれました。
信仰生活において、私たちは「霊的な高揚感」を経験することがあります。神の臨在を強く感じ、深い祈りの時間を過ごすこともあるでしょう。しかし、それは「山の頂」にとどまるためではなく、「山を下りるため」に与えられるのです。
変容の光は、山の上ではなく、この世のただ中で輝かせるべきものです。弟子たちは、その後、苦難の中でこの光を証しし続けました。ペトロは殉教の死を遂げ、ヨハネは生涯をかけて神の愛を語り続けました。彼らは、山で見た光を携えながら、それを現実の中で生きたのです。
私たちもまた、信仰をただの個人的な慰めにするのではなく、それを証しする使命を持っています。変容の光を受けた者として、どのように生きるのか。それが、私たちに問われているのです。
4. 変容の光は今も生きている
イエスの変容の光は、今もこの世界の中に生き続けています。それは、私たちの心の中に、そして教会という共同体の中に宿っています。
変容の光は、どこにあるのでしょうか。
・苦しむ人々と共にあるとき
・赦しと和解が実現するとき
・神の言葉に耳を傾けるとき
・愛が何よりも優先されるとき
それらの瞬間に、神の栄光の光は今も輝いているのです。
5. これに聞け——私たちの応答
神は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と語られました。この言葉は、単なる宣言ではなく、私たちへの命令です。イエスの言葉に聞き、それに従うこと。そこに、変容の光の意味があります。
・私たちは、イエスの言葉に「聞く」者となっているでしょうか。
・神の愛の光を、この世界に証ししているでしょうか。
この問いは、変容の出来事が、私たち一人ひとりに与えられた召命であることを示しています。
結びに代えて
イエスの変容は、一瞬の奇跡ではなく、私たちがどのように生きるべきかを示すものでした。それは、神の国の光をこの世で証しするために与えられたものです。
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」
この言葉は、今日の私たちにも響いています。私たちは、イエスの言葉を聞き、その光の中を歩む者となるよう招かれています。
この世のただ中で、変容の光を受けた者として、私たちはどのように生きるべきか。
それは、信仰と希望と愛をもって歩むことです。
そして、その中で最も大いなるものは、愛です。
《おわりに》
私たちは今日、主イエスの変容の出来事を通して、神の光に照らされるとはどういうことかを深く考えました。イエスは山の上で弟子たちの前に輝かれましたが、その輝きは、その後に続く十字架の苦しみを経てこそ、本当の意味を持つものでした。ペトロはこの栄光をその場に留めようとしましたが、イエスはそのままエルサレムへと下り、やがて十字架に向かわれました。この出来事が示すのは、信仰とは一瞬の霊的高揚にとどまるものではなく、日々の歩みの中で神の光を映し続けることだということです。
また、旧約のモーセの輝く顔の話からも、神と交わることによって人は変えられ、周囲にその光を分かち合う者となるべきことを学びました。モーセは神の言葉を受け、それを民に伝える使命を負いました。私たちもまた、神の光に照らされた者として、この世にあって愛と正義を証しするように召されています。
さらに、使徒パウロの言葉は、「愛がなければ、私は無に等しい」と教えています。どんなに知恵があろうと、信仰が強かろうと、愛が伴わなければそれは空しいものにすぎません。愛とは、忍耐し、親切であり、高ぶらず、すべてを耐え忍ぶものです。神の光の中を歩むとは、ただ神秘的な体験を求めることではなく、日々の中で愛をもって生きることなのです。
今、私たちは大斎節の入り口に立っています。これは、単なる宗教的な習慣ではなく、神の前に自らを省み、悔い改め、信仰を新たにするための時です。イエスが荒野で四十日間断食し、試練を受けられたように、私たちもまた、日常の中で神に心を向け、主に従う覚悟を新たにするよう招かれています。
今日の教会時論では、現代社会の課題にも目を向けました。政治の不透明さ、経済格差、言論の自由の危機、死刑制度をめぐる議論、極端な思想の広がり——これらは決して他人事ではなく、私たちが生きるこの社会の現実です。主は言われました。「あなたがたは世の光である」。その光は、ただ教会の中で輝くものではなく、社会の中にあってこそ、その意味を持つのです。
信仰とは、単に神を崇めるだけのものではなく、実際にこの世界の中でどのように生きるかの指針でもあります。モーセが神の言葉を受け、それを人々に伝えたように、私たちもまた、この時代にあって神の愛と正義を伝える使命を担っています。困窮する人々、社会の周縁に追いやられた人々、抑圧された人々——彼らの声に耳を傾け、愛をもって応答することが、私たちに求められています。
大斎節は、私たちの内面を見つめ直し、神との関係を深める時であると同時に、外に向かって光を照らす備えをする時でもあります。この時を通して、私たちはどのように生きるべきかを改めて問われています。変容の光を受けた者は、それを隠しておくことはできません。その光をもって、世の闇を照らす使命が、私たちには与えられているのです。
主イエスは、私たちに「これに聞け」と言われました。私たちはその言葉に従い、イエスの教えを聞き、その道を歩んでいきたいと思います。試練の中にあっても、愛をもって生きることによって、神の光を世に示す者とされるように。心を新たにし、祈りのうちに、大斎節の旅をともに歩んでいきましょう。
《祈りましょう》
恵み深い神よ、
あなたの栄光の光が私たちを包み、導いてくださることを感謝します。
主イエスの変容を通して、あなたが私たちに示された恵みを思い起こします。
どうか私たちも、その光の中を歩む者となることができますように。
私たちは、自らの弱さと限界を知りながら、悔い改めの心をもって大斎節へと向かいます。
この時を通して、あなたに立ち返り、信仰を深めることができますように。
私たちがあなたの言葉に聞き従い、日々の生活の中であなたの愛を映し出すことができますように。
世界の混乱の中で、私たちはあなたの正義と平和を求めます。
政治の腐敗、経済の格差、言論の自由の危機、極端な思想の広がり——
これらの問題に対して、私たちが無関心でいることがありませんように。
あなたの光のもとで、正義を行い、隣人を愛し、誠実に生きることができますように。
苦しむ人々のために祈ります。
病にある者、孤独にある者、悲しみの中にある者、希望を失いかけている者に、
あなたの慰めと力が注がれますように。
私たちが彼らの支えとなり、共に歩む者とされますように。
主よ、どうか私たちの歩みを照らしてください。
あなたの言葉に従い、愛と誠実をもって生きることができますように。
私たちの小さな行いが、あなたの光をこの世界に映し出すものとなりますように。
主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。