教会からのお知らせ(2025/4/6)
この春も、全国の大学で新入生を対象とした宗教団体による勧誘が活発化しています。本稿で取り上げるのは、いわゆる「カルト」として明確に分類される特定の団体ではありません。問題の本質は、むしろその見分けの難しさにあります。ここでお伝えしたいのは、一見するとごく普通のキリスト教会のように見えながら、実際には人格の自由や信仰の自発性を徐々に奪っていく構造を内包した、一部の新興プロテスタント系教会による勧誘や宣教の手法についてです。
こうした団体は、親切や関心を装って近づき、表面的には健全な宗教活動を演出しますが、その内実は精神的な従属関係や囲い込みを目的としていることがあります。そのため外部からは判断がつきにくく、信教の自由や宗教的多様性の名のもとに見過ごされてしまうことも少なくありません。しかし、こうした曖昧な関わりの中で、知らぬ間に心を追い詰められ、深く傷つく学生が現に存在しています。
本稿は、そうした構造的な問題に光を当てることで、学生の皆さんが不安や孤独につけ込まれず、自らの選択と自由を守る一助となることを願って執筆されたものです。また、教育機関に関わる教職員の皆さまにおかれても、こうした問題が大学という現場で実際に起こっていることを共有し、適切な警戒と丁寧な対応をお願い申し上げます。
なお、筆者が伺った報告によれば、東北大学においてはすでに同様の事案が確認されており、学生に対する指導と支援が行われているとのことです。これは決して他人事ではありません。どうか一人ひとりが自らの心と自由を守る目をもち、また、隣人の支えとなれるよう、ともに歩んでいきましょう。
第一章 勧誘という名の捕獲:新学期に潜む偽善
四月、新しい生活が始まる。大学の門をくぐったばかりの新入生を狙い、ある種の「キリスト教会」が動き始める。駅前、キャンパス、商業施設――どこにでも彼らは現れる。表向きは「聖書サークル」「英会話」「人生相談」。だがその本質は、霊的支配と教団的囲い込みへの入り口である。言葉は柔らかくとも、構造は冷酷だ。
勧誘に用いられるのは、人間の不安と孤独である。新生活の不確かさ、居場所のなさ、未来への漠然とした不安。それらに寄り添うふりをして、「あなたを受け入れる場所がある」と語りかける。しかし彼らが差し出すのは、自由ではなく服従だ。疑問を抱けば「信仰が足りない」と叱責され、離れようとすれば「サタンの誘惑」と断罪される。人は次第に、集団とそのリーダーに依存し、自律的な思考を失っていく。
本来、キリスト教における宣教は、相手の自由を前提としなければならない。神の愛とは、強要ではなく応答を求める関係に他ならない。だが、いま一部の新興プロテスタント教会が行っているのは、宣教ではない。対象者の弱さを読み取り、そこに入り込む計画的な操作である。これは偽善であり、欺きであり、キリストの名を用いた暴力である。
教会の名を騙り、人の魂を利用し、構造的に囲い込む。そのような営みに、信仰の名を与えることはできない。福音とは、本来そうした支配から人を解き放つものであるはずだ。
第二章 囲い込みの実態──ある学生の証言が語るもの
都内のある国立大学に通うAさん(仮名)は、入学直後の四月、駅前で声をかけられた。「新入生ですか?英語で聖書を読んでみませんか?」という勧めに、軽い気持ちで応じたという。案内されたのは、駅から程近いマンションの一室だった。そこにはすでに数人の学生が集まり、和やかな雰囲気がつくられていた。「悩みがあったら、いつでも話してね」「あなたは神に選ばれている」。その言葉の一つひとつが、Aさんの心に生じていた隙間を確実に捉えていた。
やがて数週間のうちに、空気は徐々に変わり始めた。「この交わりは神の特別な計画だ」「ここを離れると祝福を失う」──そのような言葉が日常的に繰り返されるようになった。大学の授業や友人との関係よりも、この集まりへの参加が優先されるよう誘導され、生活の軸が教団へと傾いていった。Aさんがある日、「少し距離をおきたい」と打ち明けたとき、リーダー格の牧師が放った言葉はこうだった。「あなたの魂をサタンに渡すつもりか?ここを出たら堕落する」。その言葉に、Aさんは言いようのない恐怖を覚えたという。
この事例の本質は、あまりにも明白である。相手の自由意志に語りかけるのではなく、教義と人間関係によって心理的に縛り、囲い込んでいく構造がここにはある。しかも、それが「神の名」のもとに行われていることに、より深刻な問題がある。受けた側は、自責の念と恐れのあいだで苦しみながら、声をあげられないまま心をすり減らしていく。これは、宣教ではない。偽装された操作であり、明白な霊的虐待である。
こうした団体の構造には、いくつか共通した特徴がある。第一に、情報の遮断。他教派の教理やキリスト教史など、広い視野をもつ宗教的知識から意図的に遠ざける。第二に、疑問や批判を「信仰が足りない」という言葉で封じ込め、内省を抑えこむ。第三に、指導者の言葉が常に「神の意志」と結びつけられ、絶対的な権威として機能する。こうした兆候が繰り返される集団は、もはや開かれた信仰共同体ではなく、閉鎖的な囲い込みの構造に陥っていると言わざるを得ない。
Aさんは、大学の学生相談室を経由して、ようやく脱会に至った。しかし、受けた傷は深く、いまでも「聖書」という言葉を耳にすると、動悸が止まらなくなるという。信仰に対する信頼を根本から揺さぶられ、キリスト教そのものから距離をとるようになった。これは一人の若者の個人的な問題にとどまらない。もし教会が「宣教」の名のもとに人の信頼を破壊しているのだとすれば、それはもはや個々の出来事ではなく、公共への重大な背信行為である。
第三章 偽善という名の霊的暴力
キリスト教における偽善とは、神の名を利用して自己の目的を遂げようとする行為を指す。表面上は信仰の言葉に見えても、その背後にある動機と構造が閉ざされているならば、それは福音を装った支配の手段となる。聖書において、偽善は容赦なく批判されている。イエスはパリサイ派の律法学者に向かって、「あなたがたは白く塗った墓のようだ」と語った(マタイによる福音書23章27節)。外見こそ整っていても、その内側には腐敗と死が潜んでいるという痛烈な非難である。今日、われわれが直面している一部の新興宗教的教会による勧誘型宣教も、この「白く塗った墓」に他ならない。
本来、信仰とは自由に基づく応答である。神の呼びかけは、応答する者の選択を最大限に尊重する。強要によって成り立つ信仰に、真の救いは宿らない。したがって、不安や孤独といった人間の弱さに意図的に付け込み、囲い込もうとする働きかけは、霊的に深刻な暴力である。本人が「導いている」と信じている場合であっても、実際には神の名のもとに人間の自由を奪い、教会組織への従属を要求しているにすぎない。
こうした偽善的構造の根底には、神学的な歪みがある。すなわち、教会や指導者が神の代理者であるかのように振る舞い、教団への忠誠がそのまま神への忠誠であると錯覚させる構造である。本来、教会は福音の器であり、人間の目的を達成するための手段ではない。信仰共同体の中心に据えられるべきは、あくまでキリストであり、組織でも人でもない。にもかかわらず、これらの団体は自らの教理や規律を絶対化し、異論を許さず、疑問を「堕落」や「不信」と断罪する。そのような体制は、もはや信仰とは呼べず、支配の論理にほかならない。
さらに倫理的にも、相手の脆弱性を意図的に利用する手法は、いかなる観点からも許されるものではない。弱さに寄り添うふりをして依存関係を築き、それを信仰とすり替える。この手法は、心理的コントロールやカルト的手段と酷似している。しかも、神の名を借りることによって、それが正当化されてしまうという点において、事態はいっそう深刻である。
このような偽善に対して、教会は明確な拒絶を示さねばならない。それは他教派を裁くことを目的とするのではない。むしろ、信仰という言葉が人間支配の道具として用いられてしまう危険性を、わたしたち自身の課題として受けとめるためにこそ、いまこの問いを引き受ける必要がある。
第四章 公共空間における信仰の証しと教会の責任
信仰とは、決して個人の内面にとどまるものではない。それがどのように語られ、どのように行動としてあらわれるか――まさに公共の空間において、その信仰の本質が露わになる。ゆえに、教会や宗教団体が公共空間で活動する際には、慎重さと透明性、そして倫理的責任が不可欠となる。
しかし現実には、公共空間をあたかも「布教のための資源」としか捉えない教会が存在する。とりわけ新入生が集う四月、大学周辺や駅前、商業施設の一角で、「聖書サークル」や「人生相談」といった名目による勧誘が盛んに行われている。それらは一見、親切心や関心を装っているが、実態としては内向きの教団へと取り込むことを目的とした囲い込みであり、相手の自立的な意思決定を阻む構造がそこに潜んでいる。
公共空間とは、本来すべての人が自由に往来し、安全と尊厳を確保されるべき場である。そうした場所において、信仰の名のもとに人を囲い込むようなふるまいが行われるのであれば、それは信教の自由とは呼べず、むしろ倫理の逸脱に他ならない。真の信仰は、他者の自由を尊重する姿勢と切り離すことができないはずである。
信仰とは、自発的な応答を通して成立するものであって、操作や誘導によって獲得されるものではない。勧誘を受けた者には、断る自由、途中で離れる自由、疑問を口にする自由が等しく保障されていなければならない。これらの自由が抑圧されたとき、その関係はもはや信仰ではなく支配であり、霊的成長の場ではなく従属の温床と化す。
教会が公共空間において活動するのであれば、求められるのは誠実さと明確さである。自らが何を信じ、何を目的として語っているのかを偽らず、相手に選択の自由を残す。信仰とは、相手を支配することではなく、信頼し、委ねることを基盤としている。もしその信頼が欠けているならば、いかなる宗教的なふるまいも、それはただの一方的な侵入でしかない。
第五章 偽善は信仰ではない──断罪と警告
ここまで見てきたように、一部の新興プロテスタント系教会が新学期に展開している宣教活動は、信仰の名を借りた人格支配にほかならない。彼らは「歓迎します」と言葉を投げかけながら、実際には教団への従属を求め、教義への疑問や離脱の意思を「霊的堕落」として断罪する。それはもはや宗教ではない。宗教という語を用いた詐欺であり、霊的暴力の構造である。
こうした教会に属する牧師や指導者の多くは、自らの行為を正義だと信じ込んでいる。だが、それは神の御心を語る装いのもとに、他者の魂を自己目的のために利用しているにすぎない。他者の自由を奪い、疑問の声を抑え、恐怖によって囲い込む──そのような営みに、キリストの姿を見ることはできない。あるのは、支配の構造と、宗教的言語を用いた巧妙な操作だけである。
今この瞬間にも、新たな犠牲が生まれている。信仰に希望を託そうとした若者が、信頼を裏切られ、人生を深く損なわれている。その現実から目を背けることは、黙認と同義である。われわれは明確に拒絶しなければならない。「それは信仰ではない」と、「神の名を騙るな」と。
このような偽善的構造を伴う教会を見かけたとき、沈黙してはならない。「信教の自由」という言葉の陰に加害の構図を隠蔽することは、信仰者としての責任を放棄する行為である。宗教とは、本来、弱さに寄り添い、真理によって人を解放するためにある。その根本的使命を裏切って支配に転化するならば、もはやその宗教は地に堕ちたも同然である。
曖昧にしておく時期は、すでに過ぎた。偽善に信仰の衣をまとわせてはならない。その構造を明るみに出し、声をあげ、断ち切るべきものは断ち切らなければならない。なぜなら、神は愛であり、支配ではないからである。