聖金曜日(受苦日) 二〇二五年四月十八日 ❖ 大主教講話 —— 今日、神は沈黙されない

大主教講話(2025/4/18)

今日、神は沈黙されない。
今日、神は世界に向かって裁きを告げられる。

この日、十字架にかけられたのは、敗者などではない。
あらゆる偽善と腐敗を告発する、神ご自身の訴えそのものだった。

わたしたちは知っている。
権力は自己保存のために嘘を重ね、
経済は一握りの富のために無数の命を犠牲にし、
正義は取引され、真実は平然と殺される。

今日、十字架はこれらすべてに、全面的に宣戦布告する。
神の御子は、卑劣な者たちの手に渡された。
だが、渡されたのは神ではない。
渡されたのは、この世界が自らの偽りと腐敗に沈み込むしかないという、最後の通告である。

この十字架の前で、すべての制度が裸にされる。
国家も、経済も、教会さえも。
隠されていた不正義は白日の下にさらされ、
押し隠されていた暴力は露わにされる。

今日、神の国の到来が、血と涙のなかで高らかに告げられる。

復活は、遠い未来の希望などではない。
この十字架の死のただ中に、すでに復活の閃光は放たれている。
神は死なれた。だが、屈することはなかった。
すでに勝利は、暴力ではなく、愛に属している。

だから、わたしたちは叫ぶ。
この世界に、いま、正義を。
この社会に、いま、命の尊厳を。
この時代に、いま、神の国の到来を。

二〇二五年四月十七日 ❖ 教会通達 教会名称の改称について

(教会通達2025-04-17ノ1号)

教会名称改称に関する通達

発信日:2025年4月17日(聖木曜日)
発効日:2025年4月20日(復活日)
発信者:イサク 佐藤俊介(大主教)

主のご受難とご復活を記念するこの聖なる時において、本教会は、祈りと対話のうちに熟慮を重ねた結果として、以下の通り教会名称の改称を正式に決定いたしました。

【新名称】
日本語: 自由と友愛の独立アングリカン教会
英語: The Independent Anglican Church of Liberty and Fellowship

この名称は、教会の神学的立脚点、霊的精神、そして制度的な在り方を明確に言い表すものであり、以下の神学的・歴史的意図に基づいております。

【1】アングリカン的伝統の明示
本教会はその起源において、アングリカン(聖公会)の礼拝、聖職制、信仰告白の伝統を継承しております。

「アングリカン」の名は、わたしたちの信仰の出自と礼拝の霊性の系譜を公に示すものであります。

【2】「独立」の語の意義と制度的自律の神学的根拠
本教会が掲げる「独立(Independent)」は、ただ制度的に属さないという表現ではありません。

それはむしろ、現代のアングリカン・コミュニオンにおいて見られる神学的矛盾や倫理的不一致――とりわけ包摂性・ジェンダー正義・人権の尊重に関する対応の遅滞に対する、福音に基づいた批判的応答としての霊的自立の宣言です。

わたしたちは、伝統の重みを受け継ぎつつ、その伝統が福音の光に照らされて再吟味されるべきであるという信念に立ち、制度に従うよりも、キリストに従う道を選びました。

この「独立」は、分裂ではなく責任ある霊的選択であり、あくまでキリストの教会としての公同性と使徒継承に基づいた判断です。

【3】「カトリック」の語の削除と信仰の公同性の保持
本教会は、「catholic(公同)」の信仰告白を放棄したのではなく、むしろその本質をより忠実に保つために、制度上の混同を避ける目的で、名称表記からのみこの語を外す決断をいたしました。

信条においては引き続き、「一つ、聖なる、公同、使徒的教会(One, Holy, Catholic, and Apostolic Church)」を告白いたします。

【4】「自由と友愛」の霊的核心の継承
この霊的ヴィジョンは、創立以来わたしたちが掲げてきた宣教と共同体形成の根幹です。すべての人が自由に、そして愛と尊厳をもって生きられる世界を目指すという霊的誓約は、新たな名称のもとに、いっそう明確に表されていくことでしょう。

この改称は、2025年4月20日(復活日)より正式に発効いたします。今後の表記、公式文書、広報等においては、順次新名称をご使用ください。ご理解とご協力をお願い申し上げます。

復活の主が、この新しい呼び名とともにあるわたしたちの教会の歩みを、
誠実さと自由、そして愛によって導いてくださいますように。

自由と友愛の独立アングリカン教会
大主教 イサク 佐藤俊介

聖木曜日 二〇二五年四月十七日 ❖ 大主教講話 仕える愛の記憶と、裂かれる世界の中で

大主教講話(2025/4/17)

主の平和が、皆様お一人おひとりのうちに豊かにありますように、心から祈りをささげます。

いま、わたしたちは、教会の暦のうちでも、とりわけ深い静けさと畏れをもって迎えるべき、聖木曜日の夜に立っています。洗足木曜日――主イエス・キリストが弟子たちと最後の食卓を囲み、彼らの足を洗い、ご自身の体と血を裂き与えてくださった、愛の極みに招かれる夜であります。

けれども、兄弟姉妹の皆さん。この夜、わたしたちの世界は深い痛みに満ちています。戦争と暴力が地上のいたるところで命の尊厳を踏みにじり、社会の裂け目は日々広がり続けています。貧しさと孤立、差別と排除が、人の存在そのものを脅かし、多くの人々が声を奪われ、支えを失っています。

この時代、この裂かれる世界のただ中で、聖書の言葉は静かに、しかし確かに、わたしたちに呼びかけます。

「あなたがたの間でいちばん偉い者は、いちばん若い者のようになりなさい。また、上に立つ者は、仕える者のようになりなさい。」(ルカによる福音書22章26節)

主イエスは、力や支配によってではなく、膝をかがめ、仕えることによって、神の国の姿を示されました。誰かの足元にひざまずき、傷に触れ、汚れをぬぐい取る――そこにこそ、神の愛の真実が現されているのです。

今夜、わたしたちは、主の食卓の交わりが、弱さと支え合いのうちに築かれる聖なる共同体のしるしであったことを思い起こします。裂かれたパンは、飢えと貧しさと闘うすべての者とわたしたちとを結び合わせるために裂かれたもの。注がれた杯は、痛む世界とわたしたちの命が深く結び合わされる契約のしるしであったことを心に刻みます。

兄弟姉妹の皆さん。キリストの教会は、この時代のただ中で、新たな「洗足」の道へと招かれています。

権力にひれ伏すのではなく、貧しい者、小さくされた者、声なき者の足元に膝をかがめ、仕える者となること。
自分たちだけの安全や富に閉じこもるのではなく、裂かれるパンとなり、注がれる杯となって、他者の痛みに連帯すること。

この夜、主イエスはわたしたちに問いかけておられます。
「あなたがたも、互いに足を洗い合う者となることができるか。」

この問いを、わたしたちは逃げずに受けとめなければなりません。

この国の社会の片隅には、今もなお命の尊厳が踏みにじられている現実があります。外国にルーツを持つ人々、労働者、障がいを持つ方々、生活に困窮する人々、性的少数者――その一人ひとりにこそ、主イエスは仕える者として立たれました。わたしたちもまた、その場に身を置くよう招かれているのです。

聖なるこの夜、わたしたちは祈り求めたいと願います。裂かれるこの世界のただ中で、仕える愛の共同体として、キリストの道を歩み続けることができるように。

すべての人が、その命と尊厳を祝福される平和の食卓に招かれる日が来るように。

主の憐れみと平和が、わたしたちと、すべての人と共にあるよう、心から祈ります。アーメン。

❖ 「赤」が教会を包むとき

教会からのメッセージ(2025/04/13)

ある主日の朝、教会の扉を押し開けると、ふと目に飛び込んでくる赤い布。祭壇を包むその色、司祭の肩にかかるストールの深い赤――それは、目立ちすぎないけれど、確かな存在感を放っている。

それは、単なる装飾ではない。教会に流れる時間の中で、「赤」はある特別な瞬間を告げる色として、そこにある。

命と炎の交差点に立つ色
典礼の暦の中で、赤が現れる日は限られている。けれど、その一日一日には、深い意味が詰まっている。たとえば、聖霊降臨日(ペンテコステ)。あるいは、聖金曜日、主が十字架の上で命を捧げた日。そして、殉教者たちを記念する日々。

赤は、血の色であり、炎の色。つまり――命そのものの色だ。聖金曜日にまとわれる赤は、イエス・キリストが十字架で流された血を思い起こさせる。それは、ただの悲しみではない。あの血は、わたしたち一人ひとりへの深い愛の証しだ。

そして、ペンテコステには、もう一つの赤が教会に流れる。使徒たちの上に「炎のような舌」がとどまったと記す聖書の言葉。その聖霊の火は、恐れに閉ざされていた弟子たちを、世界へと送り出す者へと変えていった。赤は、命を捧げた愛と、新しい命を吹き込む力――その両方を静かに宿している。

殉教の記憶、いまを生きる問いとして
教会の暦には、殉教者を記念する日がいくつもある。ステファノ、ペトロ、パウロ――彼らの名を思い出すたび、赤が用いられるのは、ただの習わしではない。命をかけて信仰を守り抜いたその証しが、今を生きるわたしたちへの問いとして、そこに立ち上がってくるのだ。

「どこまで信じることができるか」「どこまで愛することができるか」――そんな問いが、赤を通して私たちの心に投げかけられている。血は理念ではない。それは、生き方そのものだ。

赤が問いかける、情熱のかたち
赤が漂うとき、教会は私たちに「あなたは何に身を捧げて生きているのか」とそっと問いかけてくる。ここでいう情熱とは、衝動的な熱さではない。覚悟を伴った愛、自分の心地よさを超えて誰かに手を差し伸べること。そして、神の導きに、理屈ではなく信頼で応えること。

聖霊の火を受けた者として、私たちはこの世界で、光を証しする者として歩んでいる。その道は、決して平たんではないだろう。だが、赤は告げる――「愛は、恐れよりも強い」と。

目に見えない火を胸に
赤は、目を引くための色ではない。その意味は、思い出すためのしるしとしてある。神の愛の深さ、聖霊の力強さを、もう一度心に受けとめるために、赤は教会の中で息づいている。

もし、赤の布や衣にふれたときは、少しだけ足を止めてほしい。自分のうちに灯された火は、まだ燃えているだろうか。その火を、いま誰かのために分け与えているだろうか。

赤が教会に漂うとき、それはただの色ではない。キリストの十字架、そして聖霊のはたらきに、そっと私たちを立ち返らせてくれる。そのとき教会は、ひとつの祈りを胸に抱いている――「信仰が、命のかたちとなりますように」と。

❖ 新入生の皆さんへ――新学期、信仰を装った“勧誘”に気をつけてください(注意喚起)

教会からのお知らせ(2025/4/6)

この春も、全国の大学で新入生を対象とした宗教団体による勧誘が活発化しています。本稿で取り上げるのは、いわゆる「カルト」として明確に分類される特定の団体ではありません。問題の本質は、むしろその見分けの難しさにあります。ここでお伝えしたいのは、一見するとごく普通のキリスト教会のように見えながら、実際には人格の自由や信仰の自発性を徐々に奪っていく構造を内包した、一部の新興プロテスタント系教会による勧誘や宣教の手法についてです。

こうした団体は、親切や関心を装って近づき、表面的には健全な宗教活動を演出しますが、その内実は精神的な従属関係や囲い込みを目的としていることがあります。そのため外部からは判断がつきにくく、信教の自由や宗教的多様性の名のもとに見過ごされてしまうことも少なくありません。しかし、こうした曖昧な関わりの中で、知らぬ間に心を追い詰められ、深く傷つく学生が現に存在しています。

本稿は、そうした構造的な問題に光を当てることで、学生の皆さんが不安や孤独につけ込まれず、自らの選択と自由を守る一助となることを願って執筆されたものです。また、教育機関に関わる教職員の皆さまにおかれても、こうした問題が大学という現場で実際に起こっていることを共有し、適切な警戒と丁寧な対応をお願い申し上げます。

なお、筆者が伺った報告によれば、東北大学においてはすでに同様の事案が確認されており、学生に対する指導と支援が行われているとのことです。これは決して他人事ではありません。どうか一人ひとりが自らの心と自由を守る目をもち、また、隣人の支えとなれるよう、ともに歩んでいきましょう。

第一章 勧誘という名の捕獲:新学期に潜む偽善

四月、新しい生活が始まる。大学の門をくぐったばかりの新入生を狙い、ある種の「キリスト教会」が動き始める。駅前、キャンパス、商業施設――どこにでも彼らは現れる。表向きは「聖書サークル」「英会話」「人生相談」。だがその本質は、霊的支配と教団的囲い込みへの入り口である。言葉は柔らかくとも、構造は冷酷だ。

勧誘に用いられるのは、人間の不安と孤独である。新生活の不確かさ、居場所のなさ、未来への漠然とした不安。それらに寄り添うふりをして、「あなたを受け入れる場所がある」と語りかける。しかし彼らが差し出すのは、自由ではなく服従だ。疑問を抱けば「信仰が足りない」と叱責され、離れようとすれば「サタンの誘惑」と断罪される。人は次第に、集団とそのリーダーに依存し、自律的な思考を失っていく。

本来、キリスト教における宣教は、相手の自由を前提としなければならない。神の愛とは、強要ではなく応答を求める関係に他ならない。だが、いま一部の新興プロテスタント教会が行っているのは、宣教ではない。対象者の弱さを読み取り、そこに入り込む計画的な操作である。これは偽善であり、欺きであり、キリストの名を用いた暴力である。

教会の名を騙り、人の魂を利用し、構造的に囲い込む。そのような営みに、信仰の名を与えることはできない。福音とは、本来そうした支配から人を解き放つものであるはずだ。

第二章 囲い込みの実態──ある学生の証言が語るもの

都内のある国立大学に通うAさん(仮名)は、入学直後の四月、駅前で声をかけられた。「新入生ですか?英語で聖書を読んでみませんか?」という勧めに、軽い気持ちで応じたという。案内されたのは、駅から程近いマンションの一室だった。そこにはすでに数人の学生が集まり、和やかな雰囲気がつくられていた。「悩みがあったら、いつでも話してね」「あなたは神に選ばれている」。その言葉の一つひとつが、Aさんの心に生じていた隙間を確実に捉えていた。

やがて数週間のうちに、空気は徐々に変わり始めた。「この交わりは神の特別な計画だ」「ここを離れると祝福を失う」──そのような言葉が日常的に繰り返されるようになった。大学の授業や友人との関係よりも、この集まりへの参加が優先されるよう誘導され、生活の軸が教団へと傾いていった。Aさんがある日、「少し距離をおきたい」と打ち明けたとき、リーダー格の牧師が放った言葉はこうだった。「あなたの魂をサタンに渡すつもりか?ここを出たら堕落する」。その言葉に、Aさんは言いようのない恐怖を覚えたという。

この事例の本質は、あまりにも明白である。相手の自由意志に語りかけるのではなく、教義と人間関係によって心理的に縛り、囲い込んでいく構造がここにはある。しかも、それが「神の名」のもとに行われていることに、より深刻な問題がある。受けた側は、自責の念と恐れのあいだで苦しみながら、声をあげられないまま心をすり減らしていく。これは、宣教ではない。偽装された操作であり、明白な霊的虐待である。

こうした団体の構造には、いくつか共通した特徴がある。第一に、情報の遮断。他教派の教理やキリスト教史など、広い視野をもつ宗教的知識から意図的に遠ざける。第二に、疑問や批判を「信仰が足りない」という言葉で封じ込め、内省を抑えこむ。第三に、指導者の言葉が常に「神の意志」と結びつけられ、絶対的な権威として機能する。こうした兆候が繰り返される集団は、もはや開かれた信仰共同体ではなく、閉鎖的な囲い込みの構造に陥っていると言わざるを得ない。

Aさんは、大学の学生相談室を経由して、ようやく脱会に至った。しかし、受けた傷は深く、いまでも「聖書」という言葉を耳にすると、動悸が止まらなくなるという。信仰に対する信頼を根本から揺さぶられ、キリスト教そのものから距離をとるようになった。これは一人の若者の個人的な問題にとどまらない。もし教会が「宣教」の名のもとに人の信頼を破壊しているのだとすれば、それはもはや個々の出来事ではなく、公共への重大な背信行為である。

第三章 偽善という名の霊的暴力

キリスト教における偽善とは、神の名を利用して自己の目的を遂げようとする行為を指す。表面上は信仰の言葉に見えても、その背後にある動機と構造が閉ざされているならば、それは福音を装った支配の手段となる。聖書において、偽善は容赦なく批判されている。イエスはパリサイ派の律法学者に向かって、「あなたがたは白く塗った墓のようだ」と語った(マタイによる福音書23章27節)。外見こそ整っていても、その内側には腐敗と死が潜んでいるという痛烈な非難である。今日、われわれが直面している一部の新興宗教的教会による勧誘型宣教も、この「白く塗った墓」に他ならない。

本来、信仰とは自由に基づく応答である。神の呼びかけは、応答する者の選択を最大限に尊重する。強要によって成り立つ信仰に、真の救いは宿らない。したがって、不安や孤独といった人間の弱さに意図的に付け込み、囲い込もうとする働きかけは、霊的に深刻な暴力である。本人が「導いている」と信じている場合であっても、実際には神の名のもとに人間の自由を奪い、教会組織への従属を要求しているにすぎない。

こうした偽善的構造の根底には、神学的な歪みがある。すなわち、教会や指導者が神の代理者であるかのように振る舞い、教団への忠誠がそのまま神への忠誠であると錯覚させる構造である。本来、教会は福音の器であり、人間の目的を達成するための手段ではない。信仰共同体の中心に据えられるべきは、あくまでキリストであり、組織でも人でもない。にもかかわらず、これらの団体は自らの教理や規律を絶対化し、異論を許さず、疑問を「堕落」や「不信」と断罪する。そのような体制は、もはや信仰とは呼べず、支配の論理にほかならない。

さらに倫理的にも、相手の脆弱性を意図的に利用する手法は、いかなる観点からも許されるものではない。弱さに寄り添うふりをして依存関係を築き、それを信仰とすり替える。この手法は、心理的コントロールやカルト的手段と酷似している。しかも、神の名を借りることによって、それが正当化されてしまうという点において、事態はいっそう深刻である。

このような偽善に対して、教会は明確な拒絶を示さねばならない。それは他教派を裁くことを目的とするのではない。むしろ、信仰という言葉が人間支配の道具として用いられてしまう危険性を、わたしたち自身の課題として受けとめるためにこそ、いまこの問いを引き受ける必要がある。

第四章 公共空間における信仰の証しと教会の責任

信仰とは、決して個人の内面にとどまるものではない。それがどのように語られ、どのように行動としてあらわれるか――まさに公共の空間において、その信仰の本質が露わになる。ゆえに、教会や宗教団体が公共空間で活動する際には、慎重さと透明性、そして倫理的責任が不可欠となる。

しかし現実には、公共空間をあたかも「布教のための資源」としか捉えない教会が存在する。とりわけ新入生が集う四月、大学周辺や駅前、商業施設の一角で、「聖書サークル」や「人生相談」といった名目による勧誘が盛んに行われている。それらは一見、親切心や関心を装っているが、実態としては内向きの教団へと取り込むことを目的とした囲い込みであり、相手の自立的な意思決定を阻む構造がそこに潜んでいる。

公共空間とは、本来すべての人が自由に往来し、安全と尊厳を確保されるべき場である。そうした場所において、信仰の名のもとに人を囲い込むようなふるまいが行われるのであれば、それは信教の自由とは呼べず、むしろ倫理の逸脱に他ならない。真の信仰は、他者の自由を尊重する姿勢と切り離すことができないはずである。

信仰とは、自発的な応答を通して成立するものであって、操作や誘導によって獲得されるものではない。勧誘を受けた者には、断る自由、途中で離れる自由、疑問を口にする自由が等しく保障されていなければならない。これらの自由が抑圧されたとき、その関係はもはや信仰ではなく支配であり、霊的成長の場ではなく従属の温床と化す。

教会が公共空間において活動するのであれば、求められるのは誠実さと明確さである。自らが何を信じ、何を目的として語っているのかを偽らず、相手に選択の自由を残す。信仰とは、相手を支配することではなく、信頼し、委ねることを基盤としている。もしその信頼が欠けているならば、いかなる宗教的なふるまいも、それはただの一方的な侵入でしかない。

第五章 偽善は信仰ではない──断罪と警告

ここまで見てきたように、一部の新興プロテスタント系教会が新学期に展開している宣教活動は、信仰の名を借りた人格支配にほかならない。彼らは「歓迎します」と言葉を投げかけながら、実際には教団への従属を求め、教義への疑問や離脱の意思を「霊的堕落」として断罪する。それはもはや宗教ではない。宗教という語を用いた詐欺であり、霊的暴力の構造である。

こうした教会に属する牧師や指導者の多くは、自らの行為を正義だと信じ込んでいる。だが、それは神の御心を語る装いのもとに、他者の魂を自己目的のために利用しているにすぎない。他者の自由を奪い、疑問の声を抑え、恐怖によって囲い込む──そのような営みに、キリストの姿を見ることはできない。あるのは、支配の構造と、宗教的言語を用いた巧妙な操作だけである。

今この瞬間にも、新たな犠牲が生まれている。信仰に希望を託そうとした若者が、信頼を裏切られ、人生を深く損なわれている。その現実から目を背けることは、黙認と同義である。われわれは明確に拒絶しなければならない。「それは信仰ではない」と、「神の名を騙るな」と。

このような偽善的構造を伴う教会を見かけたとき、沈黙してはならない。「信教の自由」という言葉の陰に加害の構図を隠蔽することは、信仰者としての責任を放棄する行為である。宗教とは、本来、弱さに寄り添い、真理によって人を解放するためにある。その根本的使命を裏切って支配に転化するならば、もはやその宗教は地に堕ちたも同然である。

曖昧にしておく時期は、すでに過ぎた。偽善に信仰の衣をまとわせてはならない。その構造を明るみに出し、声をあげ、断ち切るべきものは断ち切らなければならない。なぜなら、神は愛であり、支配ではないからである。

大斎節前主日大主教講話 「悔い改めと和解の道——大斎節の光のもとで世界を読み解く」

皆様、主の平和が共にありますように。

大斎節(Lent)は、キリスト教徒にとって悔い改めと霊的刷新の時期です。伝統的にイエス・キリストの復活祭に先立つ40日間を指し、信徒は断食や祈りを通じて自らの罪と向き合い、神との関係を見つめ直します。大斎始日である灰の水曜日には、額に灰で十字が記され、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という言葉が告げられます。この象徴は人間の弱さと有限性を思い起こさせ、自らの傲慢さを捨てて神に立ち返るよう促すのです。実際、典礼では「すべてのキリスト者は悔い改め、福音によって宣言される赦しを確信しなさい」と呼びかけられます。赦しとは神の最大の愛の証しであり、人は誰しも罪深く弱い存在ですが、キリストの十字架によって真に悔い改める者には希望への道が開かれている――大斎節はそのことを深く味わう期間なのです。

罪と赎い、和解のビジョンを世界へ
個人の信仰生活において、大斎節は罪の告白と赎(あがな)いの恵みを見つめる機会です。自分の過ちを正直に認めることは容易ではありませんが、内省と祈りによって神の前にへりくだる時、初めて癒やしと和解が始まります。イエス・キリストの十字架は、私たち人類の罪を贖うために負われた犠牲であり、その愛によって赦された経験こそが、他者を赦す力の源泉となります。この原則は人と人との関係だけでなく、国と国との関係にも当てはまるのではないでしょうか。もし大斎節の精神を国際関係に敷衍(ふえん)するならば、そこには「加害者と被害者がともに痛みと向き合い、和解へと踏み出す」というビジョンが浮かび上がります。それは理想論に聞こえるかもしれません。しかし、歴史を振り返れば、深い溝を乗り越えて和解した国や民族も存在します。例えば第二次世界大戦後の欧州では、かつて戦火を交えた国同士が対話と協力によって和解し、今日の平和な共同体を築き上げました。人間の尊厳を重んじ、相互の過ちを認め合う勇気さえあれば、敵対者もいつかは友となり得る――これはキリスト教の福音が示す希望でもあるのです。

ウクライナ戦争を大斎節の光で読む
とはいえ、現実の国際関係、とりわけ戦争のただ中で和解と赦しを語ることは容易ではありません。現在進行中のウクライナ戦争はその典型でしょう。ロシアによるウクライナ侵攻は、多くの無辜(むこ)の市民のいのちを奪い、隣人同士を深く引き裂きました。憎しみや恐れ、不信が渦巻く状況で、「敵を赦しなさい」「和解しなさい」と言うことは、一見非現実的に思えます。実際、ウクライナでは「愛する家族を殺されたのに、どう赦せというのか?」という悲痛な声も聞こえてきます。戦争犯罪や残虐行為の数々は、とても人間の力だけでは赦し切れるものではありません。それでもキリスト教は、絶望のただ中にあってなお赦しと和解への道を模索するよう促します。ウクライナ東方カトリック教会のスビャトスラフ・シュフチューク大司教は、「私たちが赦せるのは、自分がまず神に赦された経験があるからだ」と述べ、真の和解のためには各人が神との和解を体験することが不可欠だと語っています。これは、「神が常に赦すように、人もまた赦すことを学ばねばならない」というキリスト教の核心を示す言葉です。もちろん、和解は加害者の一方的な免罪や責任放棄を意味しません。大司教は続けて、戦争後の和解には「心の和解」と「人間関係の癒やし」が必要であり、そのためには真実を明らかにし、犠牲者に正義をもたらすことが不可欠だと指摘します。例えば戦時中の残虐行為について徹底的に調査し、責任者を法の下に裁くこと、被害者の苦しみに寄り添い賠償や支援を行うこと――こうした「正義」が果たされてこそ、加害者と被害者の双方に癒やしがもたらされ、初めて許しが現実味を帯びるのです。事実、過去の民族紛争の和解過程でも、真実和解委員会による真相究明や公式な謝罪が重要な役割を果たしました。ポーランドとウクライナのカトリック司教たちは、第二次大戦中の「ヴォルィーニ虐殺」という相互の加害の歴史について共同声明で罪を告白し合い、「真実に向き合わず、過去の残虐行為を正しく名指ししない限り、赦しと一致は成し得ない」と表明しています。和解への道は決して容易ではありません。しかし、だからこそ大斎節のような悔い改めの精神が重要なのです。争いの当事者たちが自らの非を認め、へりくだって相手の痛みに心を寄せるなら、憎しみの連鎖は断ち切られ、平和への一歩が踏み出されるでしょう。

平和と正義のはざまで:キリスト者の模索
戦争の現実に直面するとき、キリスト者は平和への熱い願いと、悪に立ち向かう正義の要求との板挟みに立たされます。リベラルなキリスト教の立場からすれば、暴力に暴力で応じることへの深い躊躇がありつつも、無抵抗で不正に屈することへの葛藤も覚えるでしょう。ウクライナ侵攻に際し、多くの欧米諸国がウクライナを軍事的に支援しているのは、侵略に対する正当防衛と国際正義の実現という観点から理解できます。しかし同時に、キリストの平和を信じる者としては、戦火が長引き更なる命が失われることに心を痛めずにいられません。「どんな大義名分があっても、戦争それ自体が人類にとって敗北である」というヨハネ・パウロ2世の言葉が示すとおり、戦争は究極的には憎しみと破壊しか生み出さないからです。実際、一度戦争が始まれば事態は誰にも制御できなくなり、泥沼化していくことを歴史は繰り返し証明しています。リベラルなキリスト者はこの現実を直視しつつ、ではどうすれば正義と平和のバランスを取れるのか模索します。まず大切なのは、暴力に対抗するにしても決して相手の人格まで否定しないことです。キリスト教は「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えますが、これは相手の行為を容認せよという意味ではなく、相手も神に造られた尊い存在であることを忘れないという覚悟です。ウクライナの信徒たちは、自国を守るために戦いつつも、内心では相手への憎悪に飲み込まれないよう祈り続けています。それは容易なことではありませんが、憎しみはさらなる憎しみを生む悪循環しか生まないことを知っているからこそ、自らの心が闇に染まらぬよう霊的戦いをしているのです。私たちもまた、加害者側の兵士や市民もある意味では戦争の犠牲者であり、彼らもまた恐れや情報操作の中で戦わされているのだという視点を持つ必要があります。事実、大斎節は「霊的戦いの時」とも呼ばれ、自分の内にある憎しみや報復心と戦う訓練の時期でもあります。国家間の対立においても、単に相手を悪魔化するのではなく、問題の根本原因に目を向け、対話による解決策を模索する努力を怠ってはならないでしょう。次に、包括的な視点では「平和構築」は単なる理想論ではなく具体的な政治課題です。たとえば、停戦と和平交渉の促進、難民や被災者の人道支援、国際法に基づく紛争解決機関の強化など、現実的な取り組みを支持します。米国の外交政策について言えば、確かに民主主義や人権を掲げて国際秩序を守ろうとする面がありますが、一方で過去にイラク戦争やアフガニスタン戦争を引き起こした責任も負っています。大斎節的な自己省察の光で見れば、アメリカ自身も自国の戦争行為に対して悔い改めを必要としていることは明らかです。他国の侵略を非難すると同時に、自らも過ちを犯し得る存在だと認める謙虚さが求められます。これは日本にとっても他人事ではありません。私たちの国もまた戦争の加害と被害の歴史をもち、その痛みから和解と平和を模索してきました。リベラルなキリスト教徒は、国家の名の下に行われる暴力を無批判に受け入れることなく、常に「より良い道はないか」と問い続けます。どんな安全保障上の必要があろうとも、最後の手段である武力行使に至る前に、あらゆる外交的・非暴力的解決策を尽くすべきだという信念です。それは甘い理想ではなく、人間の命と尊厳を第一に考える立場からの現実的な提言だと言えるでしょう。

悔い改めから平和へ:希望を繋ぐために
大斎節の精神に照らすとき、国際関係における対立や戦争もまた「悔い改め」と「和解」という視座から捉え直すことができます。争いの当事者たちが自らの罪深さと限界を認め、神と人からの赦しを求めるならば、たとえ状況が絶望的に見えても、新たな希望の光が差し込むでしょう。私たちはしばしば、自分たちの力だけで世界を変えようと躍起になります。しかし大斎節は、まず神に立ち返り、内なる変革から始めよと教えます。教皇フランシスコはロシア・ウクライナの戦争に心を痛めつつ、関係者の「回心(こころの改心)」と対話の開始を絶えず祈り求めています。人の心が変えられない限り、真の和平は実現しないからです。逆に言えば、心が変えられるならば歴史は予想外の方向に開かれます。赦しが不可能に思える場所で赦しが生まれ、和解など有り得ないと思われた敵同士が和解する――それは神の恵みと、人間の勇気とが織り成す奇跡と言えるでしょう。大斎節から復活祭に至る物語は、闇から光へ、絶望から希望への物語です。イエス・キリストは人間の罪を一身に背負って十字架にかかり、死の闇をくぐり抜けて復活という勝利の朝を迎えました。このキリスト教信仰の中心にあるメッセージは、国際社会にも適用できる普遍的な真理を含んでいます。それは「どんな深い闇の中にも、決して消えない希望の光がある」ということです。戦争や紛争は人間の最も暗い側面を露呈させますが、同時に人間が憎しみを乗り越え愛に生きる可能性をも試します。もし私たちが大斎節の精神に倣って、自国の正義を主張する前に自らの非を省み、相手を打ち負かすことよりも共に生きる道を探るなら、必ずや和平への道は見えてくるでしょう。正義と平和のバランスは難題ですが、キリスト教のリベラルな立場は「平和なくして真の正義なし、正義なくして真の平和なし」と考えます。赦しと和解はこの両者を結ぶ架け橋です。大斎節に培われる悔い改めの謙遜と、復活祭に象徴される希望の力とをもってすれば、私たちは現在の国際的な困難にも光を当て、人類に与えられた「平和という使命」を果たすことができると信じます。

 


参考文献
・Pax Christi USA. (n.d.). Reflection on war and repentance. Retrieved from https://paxchristiusa.org
・Pax Christi USA. (n.d.). Interview with a leader of the Ukrainian Eastern Catholic Church. Retrieved from https://paxchristiusa.org
・Aleteia. (n.d.). Joint statement of the Polish and Ukrainian bishops. Retrieved from https://aleteia.org
・Catholic Review. (n.d.). Pope Francis’ call for peace in Ukraine. Retrieved from https://catholicreview.org

大斎節前主日 ― 大斎節への備えとして

皆様、主の平和が共にありますように。

本日は大斎節前主日です。来たる灰の水曜日(大斎始日)をもって、私たちは大斎節の厳かな歩みへと招かれます。この日、教会の礼拝では、額に灰のしるしを受ける「灰の式」が執り行われ、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)との御言葉が宣言されます。この灰は、悔い改めの象徴であり、私たちが神の前にへりくだり、主の憐れみによって新たにされるよう促すものです。大斎節は、単なる自省の期間ではなく、キリストの十字架の受難を黙想し、復活の栄光へと備える信仰の旅路です。その始まりを迎える前に、私たちは今日、この大斎節前主日にあたり、心を整え、主の招きに応える準備を整えてまいりましょう。

大斎節の意義と悔い改め
大斎節(たいさいせつ)は、灰の水曜日から復活日までの約40日間、信仰者が悔い改めと霊的刷新に励む時です。「大斎」という言葉が示すように、これは特に断食と節制をもって過ごす期間として伝統的に受け継がれてきました。この40日間という期間は、聖書の中でも重要な意味を持ちます。たとえば、イスラエルの民が40年間荒野を旅し、モーセがシナイ山で40日間祈り、主イエスも公生涯の始めに荒れ野で40日間断食されました。これらはすべて、神の導きのもとで試練を受け、霊的に整えられる時間でした。同じように、私たちも大斎節の間、自己を省み、神の御前に立ち帰る機会とするのです。

悔い改めとは、単に過去の罪を嘆くことではなく、心の向きを変え、主に立ち返ることです。「メタノイア」(新約聖書のギリシャ語で「心を変える」の意)とは、古い自分を捨て、神の御心に従う新しい歩みを始めることを意味します。大斎節の目的は、私たちをただ悲しませることではなく、むしろ神の赦しのうちに新しい命へと導くことにあります。主の恵みを受け入れ、信仰の道を一歩踏み出す決意を新たにするとき、私たちは大斎節の意味をより深く理解できるでしょう。

大斎節における霊的実践
大斎節を有意義に過ごすために、教会は次の三つの霊的実践を勧めています。

祈り: 日々の祈りを深め、神との交わりを強めましょう。聖書を開き、主の御言葉に耳を傾け、黙想の時間を持つことが大切です。特に詩編や福音書の受難記事を読むことは、大斎節における霊的成長の助けとなるでしょう。

節制: 伝統的に、大斎節の間は食事を減らし、質素な生活を心がけることが勧められています。しかし、断食は食物に限られたものではありません。日々の快楽や過度な娯楽を控え、神との時間を意識的に増やすことも、霊的な節制の一つです。

慈善(隣人愛の実践): 悔い改めは、単に個人の内面的な営みにとどまりません。隣人に愛をもって接し、困窮する人々に手を差し伸べることも、大斎節の大切な実践です。募金や奉仕活動を通じて、主が示された愛を具現化することが求められます。

主の受難を経て復活日へ
大斎節の終わりには、主イエスの受難と死、そして栄光の復活を迎えます。私たちは、この40日間を通して、主が私たちのために負われた苦しみと愛を黙想し、その御業に応える者となるよう招かれています。

この大斎節の歩みを通し、私たちの心がより神へと向けられ、主の十字架と復活の恵みをより深く味わうことができますように。信仰の道を共に歩み、やがて訪れる復活日を心から迎えられるよう、今日この大斎節前主日において、あらためて心を整えてまいりましょう。

すべての隣人を愛し、共に歩む――LGBTQ+の兄弟姉妹とともに

自由と友愛の独立アングリカン教会は、すべての隣人を愛することを使命として歩んでいます。


私たちは洗礼において、「キリストに従い、隣人を愛し、仕える」ことを誓いました。この誓約は、すべての人々に対して愛と敬意をもって接することを求めています。特に、トランスジェンダーを含むLGBTQ+コミュニティの方々を、キリストにおいてかけがえのない兄弟姉妹として受け入れ、共に歩むことを大切にします。教会共同体は、すべての人が平等にその一員として迎えられ、安心して信仰を育む場でなければなりません。それは、礼拝の場だけでなく、日常の暮らしや職場、あらゆる社会の場においても同様です。

社会の周縁に置かれ、不安を抱える隣人たちがいます。その声に耳を傾け、共に歩むことは、私たちが神の愛に生きる者として果たすべき務めです。祈りを通じて、私たちの心がより広く、深くされ、イエス・キリストの教えに従って生きることができますように。神が私たちに、隣人を愛する勇気と力を豊かに注いでくださることを願い、共に祈り続けましょう。

成人の日によせて――新成人への祝辞

 本日、成人の日を迎えられた皆様に、心からのお祝いと祝福を申し上げます。この日を迎えるまで、皆様は多くの支えと愛に包まれてきたことでしょう。親や家族、友人、先生方、そして時には皆様自身が気づかない形で神がそっと手を差し伸べてくださったこともあったはずです。誰かの励ましや祈り、時には厳しい言葉でさえも、皆様を今日という日に導いた愛の形でした。そのことをどうか忘れないでください。そして、その感謝の思いを胸に、新しい一歩を踏み出してください。

 大人になること。それは、ただ社会の一員としての責任を果たすだけではなく、自分自身を深く知り、愛し、そのうえで他者と共に歩むという意味を持ちます。これからの人生では、喜びだけでなく、試練や挫折も訪れるでしょう。時には、自分の弱さに打ちのめされることもあるかもしれません。それでも、立ち止まることを恐れないでください。つまずき、迷い、泣く日があっても、それは決して失敗ではありません。それは、皆様が生きている証であり、成長の一部なのです。

 皆様に忘れてほしくないのは、どんなに困難な状況でも、神は決して皆様を見放すことはないということです。神は皆様を深く愛し、導いてくださいます。聖書には、そんな神の変わらない愛が語られています。その中から、今日、特に皆様に贈りたい聖書の一節があります。エレミヤ書29章11節です。

「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく知っている、と主は言われる。それは平和の計画であり、災いではない。将来と希望を与えるものである。」

 この言葉が示すように、皆様の人生には神が用意された確かな希望と未来があります。たとえ今がどんなに不安定に感じられても、神は必ず皆様を祝福し、必要な時には新しい道を示してくださいます。その希望を心に抱き、前を向いて進んでください。

 これから歩む道は、一人で切り拓くものではありません。時には人に頼ることも必要です。そして、誰かが苦しんでいるときには、自分が差し伸べる手になることも大切です。互いに支え合い、共に歩むことができるとき、私たちはどんな困難も乗り越え、人生に豊かさを感じることができるのです。

 皆様はかけがえのない存在です。自分の価値を信じ、与えられた人生を大切に生きてください。そして、正義と平和を愛し、新しい世界を築いていく希望の灯火となってください。皆様のこれからの歩みに、神の豊かな祝福がありますように。

 成人の日、おめでとうございます。心からの祈りを込めて。

  2025年1月13日

  自由と友愛の独立アングリカン教会

   大主教 佐藤俊介

自由と友愛の独立アングリカン教会 大主教 2024年降誕日牧書

大主教降誕日牧書(2024年12月25日)

愛する主にある皆さまへ

主の降誕を祝うこの聖なる日を、皆さまと共に迎えられますことを、心より感謝申し上げます。

いま世界の片隅で、またこの国の小さな教会のひとつひとつで、キリストの御名をたたえ、御降誕の喜びにあずかる祈りが捧げられています。この日は、まぎれもなく、神の愛が限りなく私たちに注がれた日であります。

御子イエス・キリストは、天の栄光を離れ、人間となられ、貧しさと弱さを担ってこの地にお生まれになりました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1章14節)。この神秘は、神が私たち一人ひとりの痛みを知り、喜びを共にされ、最も低きところにまで降りて来られたことの決定的な証です。そして、それはすべての人の命と尊厳が、神にとってかけがえのないものであることを、揺るぎなく宣言する出来事でもあります。

この主の降誕の恵みの中で、私たちもまた、新たに召し出されています。いま世界は、戦争や暴力、貧困や孤独、分断や不正の暗闇に覆われています。しかし、そのただ中に、御子は平和の主としておいでになりました。「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカによる福音書2章14節)との天使の歌声は、遠い昔の出来事ではなく、まさにこの時代に生きる私たちへの呼びかけであります。

愛は行動を伴うものです。隣人に寄り添い、苦しむ者と共に立つこと、貧しき者の声に耳を傾け、孤独な魂に光を灯すこと。小さな行いのひとつひとつが、神の国の訪れを告げる種となるのです。わたしたちは今、この降誕の愛に動かされて、平和の器、和解の道具として歩み出すよう招かれています。

どうか、このクリスマスにあたり、皆さまの上に、豊かな祝福と慰めが注がれますように。そして、歩みの先に待つ新たな年が、希望に満ち、健やかでありますように、心よりお祈り申し上げます。

キリストの光が、皆さまの心に、家庭に、そしてこの社会に、変わらぬ輝きをもたらし続けますように。

主イエス・キリストの恵みと平和のうちに。

2024年12月25日
自由と友愛の独立アングリカン教会
大主教 佐藤俊介

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