復活前主日 二〇二五年四月十三日 ❖ 教会時論 ①再審制度の見直し――無辜の救済は国家の責務である ②森友文書公開――行政の隠蔽体質と民主主義の再生 ③コメ輸出拡大方針――食の安全保障と公平な経済の倫理 ④同性婚高裁判決――人権保障を拒む日本政治の限界 ⑤南海トラフ地震――命を守る備えと政治の優先順位

序章 見過ごされる痛みへの沈黙を破るために

今、この社会には、あまりにも多くの苦しみと、不正が満ちている。
ニュースの片隅に追いやられた冤罪事件の叫び。
行政の闇に埋もれたままの真実。
日々の暮らしを圧迫する物価高騰や貧困の現実。
そして、誰かを愛するという、ごく自然な思いさえ否定されてしまう不条理。
――そのどれもが、たしかに私たちの目の前にあるのに、いつの間にか見過ごされ、忘れ去られ、沈黙の中へと消えていく。

けれど、その沈黙はいったい誰のためのものなのか。
誰が沈黙することを望み、誰が声を奪われているのか。
福音書が描くイエスの歩みは、その沈黙と闘う物語でもあった。
裏切りや誤解、暴力が渦巻く中でも、語るべき言葉は語り、沈黙すべきときには沈黙された方。
その姿は、今を生きる私たちに問いかけてくる。
――何を守り、何と闘うべきか、と。

「わたしのほかに神はいない。神に並ぶものはない」(イザヤ書45・21)
預言者イザヤが告げるこの言葉は、偽りと暴力による支配を拒み、唯一の正義と真理を貫く神の意志を伝えている。
だからこそ、その神の前に立つ私たちは、権力や制度の不正に沈黙してはならない。

「キリストは神の身分でありながら…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)
この神の子の姿は、声なき者、痛みに沈む者の傍らに立つ神の姿そのものだ。
私たちは今、問われている。
――私たちは誰と共に立つのか。誰の声に耳を傾け、誰の沈黙を破るのか、と。

この教会時論は、その問いへのひとつの応答である。
痛みを忘れようとするこの社会に抗い、不正を覆い隠す沈黙に抗い、無力でか細い声に寄り添い、その声をすくい上げる営みである。

問い続けること。
それこそが、キリスト者として生きる私たちに課された最も厳しく、そして未来への希望を紡ぐ唯一の道である。

このあとの章では、五つの素材を通して、この国の沈黙、不正、そして希望の可能性を見つめていきたい。
どうか共に問い、共に歩み、そして祈りのうちに、この道を進んでほしい。

第一章 再審制度の見直し――無辜の救済は国家の責務である

第1節 司法の門を閉ざす制度の罪

日本の刑事司法には、あまりにも深い闇がある。
静岡県で起きた強盗殺人事件をめぐり、袴田巌さんが再審の末に無罪とされた――この事実は、まぎれもないその象徴だろう。

無実の人が、死刑囚として四十三年もの歳月を獄中で生きざるをえなかった。
それは、国家による人権侵害の最たるものにほかならない。司法の門は、無辜の者の前に、あまりにも長く、冷たく閉ざされてきたのだ。

本来、再審制度とは「誤った判決を正す最後の砦」であるはずだった。
ところが現行制度では、証拠開示をめぐって検察が圧倒的な権限を握り、再審請求の審理は不透明なまま運用され、再審開始の決定にも検察の不服申し立てが繰り返されている。
これでは救済は果てしなく遅れ、人権国家を標榜するこの国にあっては、とうてい許されるはずのない歪みである。

第2節 制度改革に求められる「公正の回復」

今、超党派の議員たちによって刑事訴訟法の改正案がまとめられ、国会への提出が準備されている。
証拠の全面開示、審理の迅速化、不服申し立ての禁止。
そのどれもが、再審制度が抱えてきた核心的な欠陥を正すものにほかならない。
法改正は一刻も早く、実現されねばならない。

だが、あらためて言う。
これらの改革は決して「被告人のための特権」ではない。
それは「国家権力が自らの誤りに向き合い、正義を回復するための最低限の措置」にすぎないのだ。

「正義は命に勝る」――。
この理念こそが、民主主義国家にとっての根幹である。
死刑が執行されたあとに無実が明らかになる。
それは、取り返しのつかない国家犯罪である。
だからこそ再審制度の改革は、人間の尊厳を守るために、政治と司法が負うべき責任である。

第3節 聖書が示す正義への回復の道

イザヤ書は語る。
「わたしのほかに神はいない。正義の神、救いの神は、わたしのほかにいない」(イザヤ45・21)

正義は、人間の力だけでは決して完全には実現しない。
だからこそ神は「救いの神」として立たれる。
それでもなお、この地に生きる私たちは、その神の正義に倣って歩むことを求められている。
それが、「義を行う」ということ。
不正義を正すために、あきらめずに手を伸ばし続ける営みである。

フィリピ書は告げる。
「キリストは…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・7)

この神の子の姿は、傷つく者、抑圧される者の傍らに立つ神の姿そのものだ。
司法と政治が、本当にこの精神を受け継ぐのならば。
国家の権力は、自らの誤りに謙虚に向き合い、無辜の人々を救い出す責務を果たすはずである。

第4節 制度改革は国家の「回心」である

再審制度の見直しは、国家権力に求められる「回心(メタノイア)」である。
権力の濫用と不作為によって踏みにじられた命と尊厳に対して。
いまこそ、国家は悔い改めと再出発を選び取らなければならない。

「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓いを立てる」(イザヤ45・23)

すべての権力は、神の前にひざまずき、誠実と正義を誓わねばならない。
国会はその責務を果たすべきときに来ている。
法制審議会の結論を待つのではない。議員立法によって速やかに制度を改革すること。
それこそが、制度の正常化であり、民主主義の再生の証しである。

冤罪によって深く傷つけられた人々の尊厳を回復し、国家の正義を取り戻す道を。
私たちは、ためらうことなく歩み出さねばならない。


第二章 森友文書公開――行政の隠蔽体質と民主主義の再生

第1節 問われる「知る権利」と公文書の公共性

森友学園をめぐる国有地売却問題は、日本の行政が抱えてきた深刻な構造的欠陥を、いやおうなく露呈させた事件であった。
――そもそも、公文書とは何か。国民の「知る権利」とは何か。
これらの根源的な問いに対して、国家はこれまであまりにも冷淡であったと言わざるを得ない。

今回、財務省が赤木俊夫氏の遺志に応え、実に17万ページにも及ぶ文書を全面開示したことは、間違いなく画期的である。
だが、あまりにも遅すぎた。しかも、これを特例として終わらせてはならない。

赤木俊夫氏は、行政の歪みに抗い、命を賭して真実を証しした人であった。
改ざんを強要され、その苦悩の果てに命を絶たれた。彼の無念は、私たち一人ひとりに深い倫理的課題を突きつけている。

国有地は、国民の財産である。公文書は、主権者である市民の共有財産である。
この原則が空洞化されるとき、民主主義そのものが、その根底から脅かされることになる。

旧約聖書は語る。
「神は正義を宣べ知らせ、地の果てに至るまで救いを示される」(イザヤ45・21)
この御言葉は、人間の世界における正義の遅延や隠蔽を、決して許さない神の厳しさを語っている。
日本の行政は、この神の正義の前に、果たして顔を上げることができるのか――それが、いま私たちに突きつけられている問いである。

第2節 赤木俊夫氏の犠牲が示したもの

赤木俊夫氏が、命を賭して示したものがある。
それは、「行政の透明性と公正さこそが、民主主義を支える礎である」という不変の真理であった。

遺族である赤木雅子氏の静かで、しかし揺るぎない闘いは、いまや現代の預言者の声と呼ぶべきものであろう。

ルカによる福音書は、ゲツセマネの園で祈り、苦しむイエスの姿を伝えている(ルカ22・39-46)。
イエスは、「この杯を取り除けてください」と神に嘆願しつつ、最後には「御心のままに」と従われた。

赤木氏の苦悩もまた、この祈りに重なる。
命を削りながらも、人間としての尊厳と真実を守ろうとしたその姿は、深い信仰的な共鳴を私たちに与えてやまない。

第3節 行政の隠蔽体質と制度改革の必要性

森友問題の本質は、単なる一政権の腐敗ではない。
それは、日本の行政制度が長い時間をかけて育んできた「隠蔽体質」が生み出した、必然の帰結にほかならない。

公文書管理制度や情報公開制度が骨抜きにされ、行政内部の説明責任が著しく低下してきた。
私たちは、この事実から目を背けるわけにはいかない。

いま求められているのは、「再発防止」の美辞麗句ではない。
必要なのは、具体的で実効性のある制度改革である。

公文書の保存義務の強化、改ざんや隠蔽に対する厳罰化、内部告発者保護制度の抜本的な改善――これらは、最低限取り組むべき課題であろう。

フィリピ書は告げる。
「キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして僕の身分をとり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)

権力者が、この謙遜と奉仕の精神を学ぶことなしに、行政改革の成就はありえない。
そのことを、私たちは改めて深く心に刻まなければならない。

第4節 民主主義の再生と信仰の責任

いま、問われているのは、国家そのものの倫理である。
民主主義とは、権力の暴走を抑制し、市民の尊厳と自由を守る体制であるはずだ。
公文書の隠蔽は、その根本原則を破壊する、許されざる背信行為である。

石破首相が、今回の開示を通じて示すべきことは何か。
それは、単なる説明責任の遂行ではない。
過去の過ちを徹底的に清算し、行政を根底から刷新する覚悟である。

「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は神に対して誓いを立てる」(イザヤ45・23)

この御言葉が示すように、どのような権力も、最終的には神の正義と裁きの前に立たされる。

私たちは、そのことを決して忘れてはならない。
行政の改革と民主主義の再生を求め続けること。
それは、教会に託された使命であり、また一人ひとりの信仰者としての責任でもあるのだから。

第三章 コメ輸出拡大方針――食の安全保障と公平な経済の倫理

第1節 主食をめぐる政策転換と市場の論理

日本の食卓に欠かせないコメが、いま、大きな政策転換の渦中にある。
政府はコメの輸出拡大を国家戦略の柱に据え、2030年までに現在の8倍の輸出量を目指す方針を掲げた。
だが、その方向転換が私たちの暮らしに何をもたらすのか――その問いは、あまりにも切実である。

これまで日本の農政は、米価の安定と国内自給の確保を優先し、コメを主食として守る政策を支えてきた。
その背景には、単なる経済政策にとどまらない、文化的な意義の重みもあった。

だが近年、インバウンド需要や海外市場の拡大を背景に、政策は急速に輸出志向へと舵を切り始めた。
私たちはこの流れのなかに、「市場の論理」が食の領域へと無防備に浸透していく危うさを、見逃してはならない。

農地の集約、大規模化、収量重視の品種改良――。
こうした施策の先にあるのは、安価な外国産米との競争にさらされ、日本の農業がその独自性を失っていく未来ではないか。
それは単なる政策転換ではなく、暮らしと文化の根幹を揺るがす変化にほかならない。

第2節 問われる食の安全保障と公正な流通

コメ輸出の拡大は、農業の活性化や地方経済の振興という美名のもとで語られている。
だが、国内の生産基盤が不安定なまま輸出に依存することになれば、いざというときの供給不足に、私たちの暮らしは脆くも崩れかねない。

とりわけ、物価の上昇と生活困窮が深刻化しているいま、主食の安定供給こそが、最優先で守られるべき課題である。

日本の食卓におけるコメは、単なる商品ではない。
それは生活の柱であり、文化の礎である。
それを市場原理だけに委ねてしまえば、貧しい者や困窮する家庭にとって、価格の高騰は死活問題となる。

だからこそ、必要なのは、公正な流通の仕組みと、適正な価格政策である。
農業振興や輸出促進の意義は否定しない。
だが、まずは暮らしを守る制度でなければならない。

たとえば、所得の再分配の強化、富裕層や黒字企業への適正な課税、そして米や生鮮食料品への消費税の撤廃。
そうした生活必需品への手厚い支援策こそが、経済政策において優先されるべきである。

第3節 聖書が語る経済の倫理と共同体の責任

旧約聖書は繰り返し、貧しい者や寄留者への配慮を命じている。
「わたしは主である。あなたたちの神である」(レビ記19・10)――
この短い一節には、経済の営みにおける倫理的責任が、神の御名のもとにあるという深いメッセージが込められている。

今日の旧約日課もまた語る。
「主であるわたしに並ぶ者はない」(イザヤ45・21)。
これは、市場や経済に絶対的な力を与えるような思想への明確な否。
経済の論理が全てを支配してよいのではない。
私たちの共同体は、貧しい者を忘れず、経済的に脆弱な人々を決して見捨ててはならない。

使徒書も同じ精神を伝えている。
「キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、自らを無にして僕の身分をとり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)

この謙遜と自己犠牲の姿勢こそ、経済政策に携わる者が学ぶべき霊的基盤であろう。
力を持つ者が、低くされている者の立場に降りてゆく――そのとき初めて、社会全体の倫理が変わり始める。

第4節 食卓の祝福を守る社会へ

主食であるコメは、日本の文化と共同体の象徴である。
それを市場競争の論理に明け渡すのではなく、必要とする人に行き届くよう、互いに支え合う仕組みを築くこと。
そこにこそ、聖書が語る経済の倫理と共同体の精神が息づく。

それは単なる政策の問題ではない。
共同体のあり方の問題であり、信仰に基づいた愛の実践の課題である。
すべての人の食卓が祝福に包まれ、誰もがその恵みに与ることができる社会へ。

そのためにこそ、私たちはいま、公正で持続可能な食と経済の政策を、あらためて強く求めていかなければならない。

第四章 同性婚高裁判決――人権保障を拒む日本政治の限界

第1節 司法の判断と社会の変容

この数年、日本各地で同性婚をめぐる訴訟が相次いで提起されてきた。
2019年2月14日、「結婚の自由をすべての人に」と名付けられた訴訟が、札幌・東京・名古屋・大阪の各地裁に一斉に提起され、その後、福岡でも同様の裁判が始まった。
問いかけられているのはただ一つ――同性同士の婚姻を認めない現行法は、憲法に反しないのか、という根源的な問題である。

2021年3月17日、札幌地裁は、同性婚を認めない現行法は憲法14条1項(法の下の平等)に違反するとの歴史的な判断を下した。
この判決を皮切りに、東京地裁、名古屋地裁、福岡地裁と違憲または違憲状態を認める判決が続いた。大阪地裁だけが合憲と判断したものの、これは例外的な判断にとどまった。

そして近年、高裁レベルでも同様の判断が次々と示されている。札幌高裁(2024年3月14日)、東京高裁(2024年10月30日)、福岡高裁(2024年12月13日)、名古屋高裁(2025年3月7日)、大阪高裁(2025年3月25日)――これらはいずれも、同性婚を認めない現行法が「法の下の平等」や「個人の尊厳」に反すると明確に断じる判決である。

司法の場で同性婚への理解と支持が着実に広がっている。社会そのものが、変わり始めている。

第2節 政治の責任と社会の課題

だが、どれほど司法が違憲と判じようとも、立法府である国会が具体的な法整備を行わない限り、同性婚は合法化されない。
現行法のままで社会が抱え続ける痛みと不正は、あまりにも大きい。

日本は、主要先進国のなかで唯一、同性婚を認めていない国となっている。この状況は国際的な批判の的であり、日本弁護士連合会も繰り返し法制化を求める声明を発表している。社会的な圧力は確実に高まり続けている。

聖書は語る。
「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)

この言葉は、すべての人が平等に愛され、尊重されるべき存在であることを告げている。
同性婚を認めない現行法は、この教えに背き、特定の人々を制度の名のもとに不当に差別し続けているのである。

同性婚の法制化は、多様性を尊重し、すべての人の尊厳を保障する社会への第一歩である。
いまの日本社会にとって、それは避けて通ることのできない課題である。
現行法が同性カップルに与える不利益は、単なる法的な不備ではない。
それは、法によって社会的な偏見や差別を正当化し、助長する構造そのものでもある。

民主主義国家としての日本のあり方が、まさにこの問題によって問われている。

第3節 教会の役割と信仰者の責務

教会は、社会の良心として、不正義に対して声を上げ続ける使命を与えられている。
この使命は、同性婚の課題においても例外ではない。
教会は愛と平等の価値を力強く語り、すべての人が神の前で平等であることを証ししなければならない。

使徒パウロはこう述べている。
「キリストにおいては、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)

この言葉が指し示すのは、いかなる差別も、神の御前では無効であるということである。
すべての人が、ありのままに愛され、尊重されるべき存在なのだ。

信仰者もまた、この世界の不正義に対して沈黙してはならない。
同性婚をめぐる問題は、単なる法律論争ではない。
それは、人間の尊厳と平等に深くかかわる根本的な課題である。

隣人の権利が踏みにじられているとき、教会と信仰者は声をあげねばならない。
愛と正義の声を。

日本社会が、真に民主的で平等な社会を目指すというのならば、同性婚の合法化は避けて通れない道である。
教会も信仰者も、この歴史の転換点にあって、愛と正義の証人として積極的に働きかけるべき時を迎えている。

第五章 南海トラフ地震――命を守る備えと政治の優先順位

第1節 「想定外」を超える備えの倫理

南海トラフ地震は、日本に生きる私たちにとって、決して遠い未来の出来事ではない。
それは、「いま・ここ」に連なる、現実の危機である。

政府の有識者会議が新たに公表した被害想定は、その事実を私たちにあらためて突きつけた。
震度7の激震が十県百四十九市町村を襲い、最悪の場合、約三十万人もの命が失われる――。
これは脅しでも、誇張でもない。地震列島・日本が歴史の中で繰り返し経験してきた、厳然たる宿命の姿である。

それにもかかわらず、私たちの社会は、いまだ「想定外」という言葉に甘え続けてはいないか。
災害対策は十分に講じられず、政治は日々の矮小な争点に関心を浪費している。

防災とは、本来、政治の最優先に置かれるべき国家的課題である。
被害想定の数字に一喜一憂するのではなく、それを現実の減災行動へと転換する覚悟と戦略が、いま求められている。

第2節 防災より軍拡という政治の錯誤

近年の日本政治は、防災や減災よりも、防衛や軍拡へと予算を傾斜させてきた。
敵基地攻撃能力の保有、軍備増強、歴史修正主義的な防衛論――。
しかし、私たちにとって最も緊急性の高い脅威とは、軍事的危機ではなく、自然災害による甚大な人的・社会的被害ではないのか。

「武器を持つこと」よりも、「命を守ること」にこそ、政治の最優先は置かれるべきである。

どれほど防衛費を積み増そうとも、倒壊した家屋の下敷きとなった命や、津波に呑み込まれた地域社会は、二度と取り戻せない。

主なる神は、こう語られた。
「主のほかに神はない。主は救いの神である」(イザヤ45・21)

この御言葉に従うならば、私たちが最優先で備えるべきは、軍事力ではなく、命を守る具体的な備えであるはずだ。

第3節 防災・減災の公共的倫理

南海トラフ地震の被害想定は、現行の防災対策がなお不十分である現実を突きつけている。
特に、避難行動や、要配慮者への支援体制が遅れていることは深刻である。

いかに最新の耐震技術やインフラ整備が進んでも、それらは人々の具体的な行動と結びつかなければ、真の効果を発揮しない。

現代社会は、地域のつながりや支え合いがかつてに比べて弱くなっている。
だからこそ、防災は個人任せにされてはならない。

公的責任と制度的支援の強化こそが急がれる。
防災とは、社会的弱者を守る営みであり、民主主義の成熟を映し出す試金石である。

第4節 神の前に立つ者の責任

使徒パウロは、こう語る。
「キリストは神のかたちでありながら、…僕のかたちをとり、人間と同じ者となられた」(フィリピ2・6-7)

主イエスが地に降り、苦しむ人々と共に歩まれたように、私たちもまた、困難のただ中にある者と寄り添い続けねばならない。

南海トラフ地震への備えとは、単なる技術的課題ではない。
それは、命を何よりも尊ぶ神の御心に従い、人間の尊厳を守る具体的な実践である。

政治に携わる者は、自らの関心やイデオロギーの枠を超えて、真に守るべきもの――すなわち命に向き合わねばならない。

東京電力福島第一原発事故の問題を未解決のまま、軍拡に突き進む今の政治のあり方は、神の前に大きな罪として問われるべきである。

第5節 真の備えとは何か

南海トラフ地震が、いつ起きても不思議ではない今――。
私たちは、問い直さねばならない。

備えるとは何か。
命を守るとは、どういうことか。

主イザヤはこう語る。
「すべて地の果てよ、わたしを仰ぎ見て救われよ」(イザヤ45・22)

いまこの時代にあって、国や地域を超えて、人間の命を守る普遍的な倫理を再建する責任が、私たちにはある。

防災とは、人間の連帯であり、命の共同体を築く営みである。
これを怠るならば、どれほど経済が繁栄し、軍備が整えられたとしても、社会はその根底から崩れてしまうだろう。

いのちの神を仰ぎ見て。
人間の尊厳を守る政治と社会の再生を、ここから始めなければならない。
それが、いま私たちに与えられた使命である。

終章 問い続ける社会を築くために

いま私たちが立っているこの場所は、あまりにも多くの問いに囲まれている。
冤罪の苦しみと、再審制度の不備。
行政文書改ざんによる真実の隠蔽。
食の安全保障を脅かす農政の迷走。
性的少数者への制度的不当。
そして、巨大災害への無防備な社会構造。

どれひとつとして、遠い国の出来事ではない。
歴史の一断面でもない。
それらは、まさに今、この国で生きる私たち一人ひとりの命と尊厳に直結する、切実な現実である。

この現実の前で、私たちは何を語り、いかに歩むべきか。

イザヤ書は、静かに、しかし力強く語りかけてくる。
「わたしのほかに神はいない。神のほかに正義と救いをもたらす者はいない」(イザヤ45・21)

人間の権力が、どれほど巨大に見えたとしても。
制度や仕組みが、どれほど圧倒的に思えたとしても。
それらは、最終的な支配者ではない。
権力も制度も、人が生きるためにこそ存在するのであって、人を支配し、沈黙させるためにあるのではない。

フィリピの信徒への手紙はこう記す。
「キリストは…へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(フィリピ2・8)

この自己犠牲と連帯の精神こそ、私たちがこの困難な時代を歩むときに受け継ぐべき姿である。
痛みに寄り添い、声なき声に耳を傾け、共に歩むこと。
そこにこそ、信仰者としての責務がある。

ルカ福音書は、ゲツセマネの園で祈る主イエスの姿を描き出す(ルカ22・39-46)。
イエスは、孤独のなかで問い、苦しみのなかで祈った。
「御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

この祈りには、問い続ける者の覚悟と、なお希望を失わぬ者の静かな強さがある。
人間の痛みを知り、人間の問いに最後まで寄り添い抜いた神の姿が、そこにある。

社会は、問いを封じようとする。
沈黙を強い、権力の語る「正しさ」に服従することを求める。

しかし、教会はその沈黙に抗い、問い続ける共同体でなければならない。
不正に対する告発も、差別への抵抗も、弱き者への寄り添いも。
それらすべては、「問いかける営み」から生まれてくる。

問い続けることは、ときに不快さや苦悩を伴う。
しかし、それこそが真実に至る唯一の道であり、神の前に正しく生きるための道でもある。

私たちは祈る。
「すべての膝はわたしに向かってかがみ、すべての舌は神に誓いを立てる」(イザヤ45・23)

この言葉が示すものは、いかなる状況にあっても、神の前に正直に、誠実に生きようとする人間の責任である。

教会は、問い続ける共同体として、この精神を未来の世代へと受け継いでいかねばならない。

新しい社会は、待っていて訪れるものではない。
それは、問い続ける者によって、抗い続ける者によって、共に歩む者によって、創られていくものである。

教会が、その先頭に立ち続けること。
それこそが、私たちの信仰の証であり、この世界への福音にほかならない。

大斎節第五主日 二〇二五年四月六日 ❖ 教会時論 ①沈黙と迎合の構造――フジテレビ報告書が照らす社会の病理 ②奪われた声と命――いじめ・パワハラ・自死が語る社会の不義 ③国境の内側で奪われる命――ウィシュマ事件と日本の人道の試金石

序章 裁かれるのは誰か――問いの矢を自らに向けて

イエスはある譬えを語られた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して旅に出た」(ルカ20・9)。やがて収穫の季節が訪れ、主人は僕を送り出す。だが農夫たちは、その僕を辱めて追い返し、さらには命まで奪ってしまう。何人遣わしても結果は変わらず、ついに主人は「自分の愛する息子」を送り出す。「この者なら敬うだろう」と。しかし農夫たちは口をそろえて言う。「あれは跡取りだ。殺してしまおう」。

この譬えに潜むのは、「本来責任を負うべき者がその責任を放棄し、弱き者に対して暴力をふるう」という構造である。そう聞いて、私たちは他人のことを語っていると安心できるだろうか。否、この構図はまさに、現代を生きる私たちの社会の写し鏡である。収容施設で命を落とした一人の女性、声なきままに絶望へ沈んでいった若者たち、組織の中で追い詰められた子どもたち。その死のひとつひとつが、私たちに突きつけられた問いとなって迫ってくる。「あなたは、そのとき、どこにいたのか」。

本日の聖書日課は、神が人を問うこと、そして人がその問いを受けとめ、自らを省みることの重みを伝えている。イザヤ書は、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(43・19)という新しい創造の希望を語るが、そこに至るためには、過去の罪や過ちを直視する勇気が前提とされている。神は人間の過去を暴こうとはされない。ただ、それを共に担う決意と覚悟を、静かに促されるのだ。

フィリピ書の使徒パウロは、「私はそれを既に得たわけでも、既に完全な者となっているわけでもありません」と、自らの未完成さを率直に認めている(フィリピ3・12-13)。そのうえで、「ただこの一事に励んでいます」と言い添える。問いを問う者とは、誰かを裁く者ではない。むしろ、自身の不完全さに誠実に向き合いながら、それでもなお、よりましな未来を信じて歩み続ける者のことをいうのだろう。

私たちはこの社会で、誰を見捨ててきたのか。どの声に耳をふさぎ、どの痛みに背を向け、どれほど制度の背後に身を隠してきただろうか。譬えの中の農夫たちは、私たち自身の姿を映し出す鏡である。都合のいい秩序を守るために、責任を他者に押しつけ、弱き声を沈黙させてきた、もうひとつの私たちの肖像がそこにある。

今こそ、問いの矢を誰かに向けるのではなく、自らに向け直すときである。ウィシュマさんの死を「入管の問題」に押し込め、いじめによる死や過労死を「不幸な例外」として切り離すのではなく、それらが繰り返される土壌そのもの――この社会の在り方こそが、私たちに問われている。

この教会時論は、誰かを糾弾するためのものではない。むしろ、私たち一人ひとりがこの社会の構成員として、どのように生き、何を変え、誰と歩むのかを、いま改めて問い直すための言葉である。

神は、問い続ける者を求めておられる。赦しと新たな歩みは、そこからしか始まらない。

第一章 沈黙と迎合の構造――フジテレビ報告書が照らす社会の病理

第1節 「業務の延長線上」の性暴力が語るもの

第三者委員会による調査報告が、ついに「性暴力」の存在を明言した。フジテレビの幹部たちは、中居正広氏の利益のために動いたとされ、その対応は、被害女性の心情に対する「配慮を欠いたもの」と明確に批判されている。しかし、問題は単なる個人の不始末や、番組制作会社のガバナンス不全にとどまるものではない。報告書が照らし出したのは、メディア企業全体に蔓延する「業務の延長」としての性加害、そして加害者を守り続ける構造的な病理そのものである。

見舞金と称して渡された現金、ヒアリングにおける守秘義務の名のもとに課された沈黙、さらには番組出演の継続――一つひとつの対応が、被害者を静かに、しかし確実に不可視化していく。その背後にあるのは、企業内の上下関係や人脈、視聴率という利益への過剰な執着であり、それらが業界特有の「慣習」と結びついたとき、暴力は制度の中へと溶け込み、見えなくなっていく。「フジテレビの問題は、業界全体の問題である」と報告書は言う。ならば、私たちはこれを、社会全体の倫理的退廃の徴候として読み解かねばならない。

第2節 ハラスメントを温存する昇進と沈黙のメカニズム

報告書はまた、反町理・石原正人という二人の名のもとに、性加害とパワーハラスメントが密接に連関する構造を浮かび上がらせた。部下への理不尽な叱責、私的な誘いを断った女性への報復、権力を利用した身体接触――それらは単なる証言の列挙にとどまらず、「組織としての責任」として明確に位置づけられている。この認定が持つ意味は決して小さくない。

にもかかわらず、彼らは昇進を重ね、報道番組のキャスターという公共的な「語りの場」に居座り続けてきた。この事実が示しているのは、企業が沈黙の力を、必要とあらばどこまでも行使しうるという現実である。

この構図は、内部告発者に対して報復を加えた兵庫県知事の問題と深く通底している。「加害を行った者が、罰せられるどころか出世する」というねじれた現実が、いかにして成立してしまうのか。その根にあるのは、「誰も何も言わない」という沈黙の文化、そして“和”の名のもとに逸脱や暴力が看過される日本的な風土である。誰かの声を信じるという、あまりに当たり前の正義が、なぜこれほどまでに困難なのか。私たちは、その問いを日々突きつけられている。

第3節 赦しと悔い改めの根本を見失った社会

松本人志氏の訴訟取り下げと「おわび」は、社会的責任の一端に触れたものと見ることもできる。しかし、その内容は「不快な思いをさせた方がいれば、おわびします」という、あまりに抽象的な言葉にとどまっており、構造の変革や被害者の回復につながる具体性を欠いている。「赦し」や「悔い改め」の本質から見れば、これはあまりに表層的である。

福音書に描かれるイエスの譬え――ぶどう園の主人に逆らい、繰り返し僕を打ち、ついには跡取り息子を殺してしまう農夫の姿(ルカ20:9-19)は、いまの社会の姿を鋭く象徴している。権力者が自らの過ちに向き合うことなく、追及をかわすために真理そのものを葬ろうとするとき、そこにあるのは信仰でも倫理でもなく、ただ“自己保身”という偶像だけである。

しかし、私たちが仕えるのは、そのような偶像ではない。使徒パウロは言う。「私はキリストを知るあまりに、すべてを損失とみなし、塵あくたとさえ思っています。それはキリストを得るためです」(フィリピ3:8)。ここに表れているのは、自己の喪失を通して真理を渇望する姿勢であり、それこそが赦しの土台となる。悔い改めなき赦しは存在しない。都合のよい反省だけに酔い、構造に手をつけようとしない社会は、同じ罪を幾度でも繰り返すだろう。

第4節 腐敗を赦す土壌としての日本社会

この一連の問題を“個別の事件”として片づけることほど、安易な逃避はない。フジテレビの問題は、旧ジャニーズ事務所の性加害、山口詩織さんの告発、斎藤兵庫県知事による報復と、すべて地続きの場所にある。すなわち、加害を咎める声よりも、沈黙と利益を重んじる文化が、日本社会の深層に根づいているということに他ならない。

預言者イザヤは告げる。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ43:19)。いま、私たちはこの言葉の意味に、改めて目を開かねばならない。「新しいこと」とは、旧い構造に居直っていては決して生まれない。性加害に口をつぐみ、暴力に目を閉ざす社会のただ中にあって、私たち教会が果たすべき役割は明確である。

それは、赦しとは真実への直面であり、悔い改めと制度の変革を伴う営みであることを語り続けることだ。問いを放棄せず、声なき声に耳を澄ませる共同体であること。そして何より、人間の尊厳が踏みにじられるこの社会の只中で、神のまなざしを信じ、その義の光を証しし続けることである。

第二章 奪われた声と命――いじめ・パワハラ・自死が語る社会の不義

第1節 銀行員の死と「経済合理性」が優先された現場

二〇一七年、群馬県に本店を置く地方銀行・東和銀行で、二十五歳の男性行員が自死した。繰り返される上司からの叱責、長時間労働、未経験業務への過大な負荷――そのすべてが、若者の心身を静かに蝕んでいた。労災認定に至るまで六年、その後の和解までさらに二年がかかった。命が絶たれてから八年を経て、ようやく銀行は組織としての責任を認め、解決金の支払いと再発防止策の実施を公表した。

だが私たちは、単に「解決済み」として終わらせるべきではない。問題の核心は、銀行という組織の中に染みついた「経済合理性」という名の価値観が、人間の尊厳を後回しにし、犠牲にしてきた点にある。過労やパワハラによる病は、これまで「本人の脆弱性」として個人に帰責されてきた。しかしその実態は、制度として放置され、見て見ぬふりをされてきた「構造的暴力」にほかならない。

使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙で「私はキリストの復活の力と、キリストの苦しみにあずかることを知り…」(3:10)と記した。この「苦しみにあずかる」とは、他者の痛みを自らの痛みとして共に担うことを意味する。しかし、東和銀行の職場にそのような共感は制度的に欠落していた。命を守る仕組みは形骸化し、管理職の監督責任は事実上放棄され、労働は生存競争へと変質していたのである。

第2節 名門校で起きた、教育の名を借りた放置

二〇二三年、東京学芸大学附属大泉小学校――“エリート教育の象徴”ともされる国立附属小学校において、男子児童がいじめを理由に転校し、心的外傷後ストレス障害の診断を受けた。調査によれば、いじめには同学年の半数近くが関与していた可能性があり、悪口や暴力、SNS上の中傷など、その態様は多岐にわたっていた。

だが、より深刻なのは、いじめの報告が担任から管理職に適切に伝えられず、対応が著しく遅れた点にある。学校とは学びの場であると同時に、法的には児童の「安全配慮義務」を担う公共機関でもある。しかしこの学校では、その義務が制度として機能していなかった。教育が「子どもの人権を守る営み」であるという原点が、制度的に支えられていなかったのである。

さらに、児童が転校した後も、いじめを行った児童への懲戒措置が確認されていない。“転校によって問題は解決した”という既成事実だけが残され、制度的な検証や説明責任は棚上げされた。このようにして、被害者は沈黙へと追いやられ、加害の構造は温存される。イザヤ書の預言は今も響く。「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(43:19)。私たちの社会には、まだ子どもたちの声を通す道が見えていない。

第3節 沈黙の制服――警察という密室の中で

二〇二五年三月三〇日、神奈川県川崎市の警察署において、十代の若き警察官が拳銃で自死を図ったとされる事件が発生した。勤務態度には特段の問題がなかったとされる彼が、なぜ拳銃という手段に至ったのか。詳細はいまだ不明であるが、警察組織の労務環境の過酷さと、相談体制の脆弱性が背景にあった可能性は否定できない。

日本の警察は、階級制度と閉鎖性の強い組織である。若手職員は上司に悩みを相談しにくく、失敗を許さない文化の中で葛藤や不調は「自己責任」として処理される傾向にある。また、拳銃を常時携帯するという職務環境そのものが、自死のハードルを著しく下げてしまっている現実も見逃せない。

この事件は、警察という「命を守るべき場所」が、内側で命を脅かす空間へと変質しつつあるという危機を示している。ルカ福音書には、ぶどう園の主人が「私の息子なら敬うだろう」と語り、最後の希望を託す場面がある(20:13)。だが今、私たちの社会は、若者の命すらも「沈黙のコスト」として差し出すことを強いてはいないか。その問いに、私たちは真正面から向き合う責任を負っている。

第4節 問うべきは制度の責任である

東和銀行の行員、学芸大附属小学校の児童、川崎市の若き警察官――いずれの事例においても、命を奪ったのは個々の人間関係や一時の過失ではなく、制度的な構造そのものであった。職場における監督不行き届き、学校現場に広がる事なかれ主義、警察組織に根を張る階級主義と閉鎖性――これらはすべて、個人を追い詰めるように設計された社会的装置である。

それにもかかわらず、日本社会はこうした構造的な暴力を“躾”や“成長の糧”といった言葉にすり替え、美化してきた歴史をもつ。しかし、いじめは明確な加害であり、パワーハラスメントは労働者の権利を侵害する行為である。そして、自死はその人一人の問題ではなく、私たち社会全体が負うべき責任である。この事実を直視することなしに、再発防止や制度改善を語ることはできない。

使徒パウロはこう記している。「私は自分がすでに捉えたとは思っていません。しかし、ただこの一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…」(フィリピ3:13)。この言葉は、単に過去を忘れて前に進むことを勧めるのではない。むしろ、過去に誠実に向き合い、それを背負いながら未来を志すという、生き方の姿勢を語っている。

教会は今こそ語らなければならない。いのちは、条件付きで尊重されるものではない。学力の高さや職位の有無、社会的な“有用性”によって価値が決まるものではない。すべてのいのちは、神の前において等しく、かけがえのない存在であり、無条件に愛されている。この信仰の根幹に立ち返るとき、ようやく私たちは「いのちの文化」への転換点に立ち得るのである。

第三章 国境の内側で奪われる命――ウィシュマ事件と日本の人道の試金石

第1節 映像の沈黙が語る国家の冷酷

二〇二一年三月、名古屋出入国在留管理局の収容施設で、スリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった。あの死の真相はいまだ深い霧の中にある。国家が開示したのは、295時間におよぶ監視映像のうち、ほんの5時間分にすぎない。残る290時間について、入管は「警備体制の露呈により秩序維持に支障が出る」として、公開を拒み続けている。

けれども、その映像に映っているのは果たして“警備体制”なのだろうか。そこに記録されていたのは、弱りゆく一人の人間の姿――体調を崩し、助けを求め、それでもなお放置され、静かに命が失われていく過程ではなかったか。それはまさしく、国家が人間のいのちをどう扱っているかを赤裸々に映し出す鏡だ。だからこそ、政府はその全貌を隠したままでいられるのだろう。

すでに開示された映像のなかには、嘔吐し、点滴を訴え、声をかけられても反応できないウィシュマさんの様子が繰り返し収められていたという。それにもかかわらず、職員は明確な対応を取らず、医療的措置も講じられなかった。そして彼女は、誰にも看取られることなく、その収容室で静かに命を落とした。

イエスは言われた。「そのぶどう園の農夫たちは、跡取りだと見て相談し合い、『あれは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、あの相続財産は我々のものになる』と言って、彼をぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」(ルカ20・14-15)。この出来事は、まさに現代のぶどう園の譬えに他ならない。国家は、存在そのものを“排除可能”と見なした一人の女性を、「外」に追いやり、死へと放置したのだ。

第2節 制度が人を殺すとき

事件の数ヶ月後、出入国在留管理庁は最終報告書を公表し、幹部4名を訓告処分とした。だが、刑事責任の所在はうやむやにされ、業務上過失致死の罪についても、不起訴という決定に終わった。これに対し、検察審査会は「不起訴は不当」と議決し、再捜査を求めたが、その後の結論も変わらず、再び不起訴となった。

制度が一人の命を奪いながら、その制度自体が何ら責任を問われることなく存続し続ける。こうした閉ざされた構造――制度による制度の自己防衛こそが、日本の入管行政の根底にある病理である。長らく医師の常勤体制は整備されず、言語の壁があるにもかかわらず、通訳の配置も十分ではなかった。体調不良を訴えても、それが理解されない。あるいは、理解されてもなお、応答がない。そして、死に至ってもなお「予見は困難だった」として誰も責任を取らない。それが現実である。

けれども、命を奪う制度に、後づけの善意は通用しない。制度が人間の尊厳を破壊するのであれば、必要なのは部分的な改善ではなく、構造そのものの転換である。使徒の言葉にあるように、「私はキリストの苦しみにあずかりながら…」(フィリピ3・10)と記されたとき、それは苦しむ者たちの傍に身を置く覚悟の表明である。もし制度が、その傍らに立てないのなら、それはもはや福音の名に値しない。

第3節 国境という名の差別

ウィシュマさんが収容された理由は、「在留資格を失った」ことにあった。だが実際には、彼女は庇護を求め、支援者を通じて助けを訴えていた。にもかかわらず、入管は収容を継続し、繰り返された仮放免の要請を拒み続けた。法務省は一貫して「収容は適切だった」との立場を崩していない。だが、その「適切さ」が一人の死によって証明されるというのなら、制度そのものが既に破綻しているとしか言いようがない。

問題の核心は、「資格」を失った瞬間に、その人が社会のなかで“人間”として扱われなくなるという構造にある。国は、在留資格という制度のフィルターを通じて、誰が“受け入れられる存在”であるかを選び取る。そして、その網からこぼれ落ちた人々には、人間らしい生活も、医療も、言語のサポートも、共感も、もはや与えられない。それは、制度の名を借りた明確な人権侵害である。

イザヤ書にはこうある。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ43・19)。では、私たちはどうだろう。国境の内側で、この国が非人道的な制度を容認し続けているという事実に、どれほど自覚的でいられるだろうか。人を選別し、排除する行政の冷たさに目を閉じ、命の軽視を「仕方のないこと」と片づけるこの構造的な偽りを、今こそ断ち切るべきではないか。

第4節 教会が果たすべき責任

教会とは、本来、声を持たない者の声を代わりに届ける場であるべきだ。にもかかわらず、ウィシュマさんの死をめぐって、日本の宗教界の多くは沈黙した。行政手続きという名のもとに命が奪われたという事実に対して、信仰共同体は、果たしてどれほどの抗議を発することができただろうか。

神の義とは、常に命の側に立つ義である。弱さの中にある者、社会から居場所を奪われた者、そのひとりひとりにこそ、神のまなざしは注がれている。だからこそ、教会は沈黙してはならない。イエスが「ぶどう園の外で殺された」その出来事を心に刻むわたしたちは、今この社会で、同じように「外」に追いやられ、苦しみのなかにある者たちに心を向けなければならない。

収容制度の非人道性、著しく低い難民認定率、そして国籍によって人間の価値が振り分けられるという現実。これらは単なる政策上の問題ではなく、まぎれもない「罪の構造」である。教会は、この構造に対して明確に「否」を語る責任がある。

ルカ福音書の譬え話で、イエスはこう語った。「建てる者の捨てた石、それが隅の親石となった」(ルカ20・17)。ウィシュマさんは、この社会の目には「捨てられた石」だったかもしれない。しかし、神の目には、その石こそが最も貴い礎だったのである。

だからこそ、わたしたちは彼女の死を忘れてはならない。その死を起点として、「人間の尊厳」とは何か、日本社会のなかで改めて問い直す必要がある。教会に託された使命とは、まさにその問いを手放さずに生きることであり、未来の世代に向けて、命にふさわしい社会のかたちを示し続けることに他ならない。

終章 いのちの問いを引き受ける社会へ

この国では、誰かが命を絶ったとき、私たちはほんの一瞬立ち止まり、やがて何事もなかったかのように歩き出す。制度の網の目からこぼれ落ち、声を失った人びとの死は、記録の隅にそっと閉じ込められ、記憶のなかで徐々に輪郭を失っていく。そしてまた、似たような死が、別の場所で静かに繰り返される。

いじめに追い込まれた子ども、職場でのパワハラにさらされた行員、組織の中で声をあげることさえ許されなかった若者。あるいは、異国の地で「資格を失った者」として人間扱いもされず、ただ静かに衰弱していった一人の女性。こうした命は、個人の弱さや不運によってではなく、私たちの社会が構造的に備えてしまった「鈍さ」と「無関心」によって、確かに奪われた。

イザヤ書は告げる。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ43・19)。ここで語られる「新しいこと」とは、単なる制度の手直しや改革のことではない。むしろそれは、人間の尊厳が根本から大切にされる社会への、深く静かな転換を意味している。

いのちを奪う構造のただ中で、私たちはもはや傍観者として立ち尽くすことを許されてはいない。当事者でなくとも、問い続ける者として、語り続ける者として、祈り続ける者として、この社会の責任に連なる存在でありたい。教会がその使命を見失うとき、信仰はただの空虚な言葉と化すだろう。

フィリピの信徒への手紙には、こう記されている。「キリスト・イエスに結ばれている者として、…死者の中からの復活にあずかるために、何とかして達したいと願っている」(フィリピ3・11)。ここでの「復活」とは、観念的な出来事ではない。見捨てられた命が顧みられ、死者が語り直され、生きる者がその声に応えて変わっていく――その現実のなかにこそ、復活の力は働く。

いま教会が語るべき問いは、「いのちをどう守るか」、そして「そのためにどのような社会を築くのか」に尽きる。それは理想の表明にとどまらず、制度と構造の根本的な変革を伴う営みである。旧い沈黙の習慣に別れを告げ、告発の声に耳を傾け、少数者の傷に目を向け、赦しと正義の実現を本気で目指す。信仰共同体の責任とは、そのような社会を築こうとする意志に他ならない。

「ぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は来て、その農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(ルカ20・16)。神の正義は、決して権力者の側に立つものではない。むしろ、見捨てられた者、傷を負った者、排除された者と共に立ち、その存在を礎として、新しいぶどう園を耕していく。

教会のなかで、奪われたいのちの声が生き続けるとき、社会は変わる。問いを忘れず、耳を澄まし、沈黙せずに語ること。それらの営みを通して、私たちはこの大斎節の終わりに、新たな希望の芽を抱いて、再びこの世界へと遣わされていく。

二〇二五年四月四日 ❖ 教会時論 (号外) 我々は、社会を変えられる

教会時論・号外(2025/4/4)

四月一日から始まった精神障害者への鉄道運賃割引制度は、時期としては明らかに遅れた措置ではあるが、それでもなお意義深い一歩であることに変わりはない。これまで身体障害や知的障害のある人々に対して適用されてきた制度が、ようやく精神障害を抱える人々にも広げられた。この変化をもたらすために、長いあいだ声を上げ続けてきた当事者たち、そして支援に尽力してきた人々に、心からの敬意を表したい。

この制度の導入は、単なる利便の提供ではない。それは長らく社会の中で見えづらいものとして扱われてきた痛みや困難への応答であり、「近代」と呼ばれる時代が内包してきた構造的な差別に、小さな光を投じる試みでもある。真の公正とは、すべてを同じように扱うことではなく、各人が抱える痛みにどれだけ誠実に向き合えるかにかかっている。その意味で、この割引制度は、私たちの社会がほんの少しずつではあっても、変わっていけるということの静かな証しなのだと思う。

神学的な視点から言えば、それは「声なき者の声に耳を傾ける」という神の御心の地上的な実現の一端であり、哲学的には、自由や責任、民主主義や共生といった、私たちが築いてきた文明の根幹に触れる一歩でもある。もちろん、この制度の導入だけですべてが解決するわけではない。けれども、この一歩を出発点として、次なる変革をともに創り出していく責任が、今を生きる私たち一人ひとりにあるのではないかと思う。

我々は、社会を変えられる。


一般社団法人精神障害当事者ポルケ. (2025年4月3日). 鉄道運賃の割引制度が変更に──実質値上げ?その仕組みと影響を解説. Porque. https://porque.tokyo/2025/04/03/railway-discount/

大斎節第四主日 二〇二五年三月三十日 ▼ 教会時論 ①権力の虚飾――兵庫県知事が示す民主主義の劣化、②宗教法人解散命令――失われた半世紀と政治の罪 ③同性婚訴訟と「人権後進国」日本の政治の責務 ④生活保護の削減――問われる社会の倫理と国家の義務

序章 問いを避ける社会への抵抗

現代の日本社会は、かつてないほど複雑で深刻な問題を抱えている。しかし私たちは、あまりにも容易にそれらを見過ごし、あるいは見て見ぬふりをし、自らを守ろうとする。権力の濫用や制度の歪み、社会的な排除が日常的に繰り返されているにもかかわらず、これらに対して鋭く問いかける精神は薄れつつある。

本日、与えられた聖書の言葉は、私たちに問いかけることの重要性を改めて突きつけている。「新しく創造された者」(コリント二5・17)とは、自らの現実を問い直し、不正や差別を超えていく決意を持つ者のことである。いかなる権力も、どのような慣習や制度も、この問いの前に例外ではありえない。

問い続けることは、不快さを伴う営みである。しかしそれは、人間が社会の中で真に尊厳を持って生きるために必要な営みでもある。この教会時論において、私たちはあえて社会が目を逸らしたがる問いに正面から向き合う。その痛みを伴う思考と真摯な問いの連鎖こそが、教会共同体の使命であり、また一人ひとりに求められる信仰者としての責任なのである。

 

第一章 権力の虚飾――兵庫県知事が示す民主主義の劣化】

第一節 内なる腐敗を守る権力の構図

組織の健全性は、危機の際にこそ試される。だが兵庫県知事・斎藤元彦は、権力者としての器量を問われる重大な局面で、その不適格さを露呈した。自身のパワーハラスメントを認めざるを得なくなり、ようやく謝罪に至ったものの、内部告発者への報復処分については依然として「適切だった」と強弁し、公益通報者保護法違反の指摘を「考え方が異なる」と拒絶している。行政のトップとしてあるまじき態度であることは明らかだが、この事件の本質は、それほど単純ではない。

内部告発は民主主義において極めて重要な機能を持つ。それは組織を内側から正すための自浄作用を担い、権力の逸脱を防ぐ最後の防波堤となるからだ。だが兵庫県政はその最も基本的な自浄作用を破壊し、違法行為を告発した者を罰することで、組織の腐敗を保護し、延命させようとしているのである。第三者委員会や県議会調査特別委員会(百条委)が示した明快な批判をも、「一つの見解」として突き放し、事実に目を背ける態度は、県政への市民の信頼を根底から揺るがしている。

第二節 問われる公益通報者保護法の意義

公益通報者保護法は、告発者を組織内の報復から守ることによって、公共の利益を保護することを目的としている。だが、知事自身が告発者探しを命じ、その懲戒処分を迅速に決定するような振る舞いは、この法律の根幹を揺るがす行為と言わざるを得ない。知事によるこうした振る舞いを許容するならば、公務員たちは今後、不正行為を目撃しても沈黙を余儀なくされるだろう。公務員が保身のために沈黙すれば、権力はますます腐敗し、その被害を直接受けるのは他でもない市民である。

事実、この問題の闇はあまりにも深い。元県西播磨県民局長および百条委員として調査に関わった元県議が相次いで死亡したことは、その象徴的な悲劇である。これが単なる偶然ではなく、行政権力が招いた社会的悲劇であるという認識を、私たちは共有しなければならない。

第三節 福音が問う権力者の責任

福音書の日課、いわゆる「放蕩息子のたとえ」(ルカ15・11〜32)は、人間の過ちを赦し、回復へと導く慈悲の精神を教えている。しかし、この物語は同時に、人が自己の非を認めてこそ赦しが可能であるということも明示している。権力を持つ者が自身の過ちを認めなければ、回復や赦しの道は開かれない。斎藤知事が自身の非を真に認めず、ただ表面的な謝罪で幕引きを図る限り、赦しと再生の道筋は示されない。

旧約日課のヨシュア記は、「あなたたちが主を畏れ、永遠に主を敬うためである」(ヨシュア4・24)と語る。権力者もまた、主の前にその責任を問われる存在であり、民に対して謙虚でなければならない。知事がこの責任を理解しないならば、その任にふさわしいとは言いがたい。

第四節 民主主義と権力の品格

現代民主主義の基本原則は、権力者の自己抑制と責任の明確化にある。市民は権力の暴走や腐敗をチェックする権利と義務を持つが、内部告発はその市民の権利を行使する重要な方法だ。それゆえ、公益通報者保護法が設けられ、その保護が徹底されなければならない。告発を「誹謗中傷」と切り捨てる権力者の姿勢は、民主主義の根幹を蝕むものであり、許容してはならない。

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5・17)という使徒書の言葉を、私たちは深く胸に刻まねばならない。今こそ権力者は過去の不正と決別し、新しい道を選ばねばならない。告発者を弾圧することなく、不正を真摯に反省し、透明な行政運営を回復することこそ求められているのだ。

斎藤知事は自らの行為が民主主義の土台を脅かしているという認識を早急に持ち、公益通報者への不当な処分を直ちに撤回し、自らの進退について誠実な判断を下さなければならない。その選択こそが、行政の最高責任者にふさわしい行動である。民主主義の原則を守るためにも、私たちは決してこの問題を見逃してはならないのだ。

 

第二章 宗教法人解散命令――失われた半世紀と政治の罪

第一節「法人格」という盾と被害の構造

東京地裁が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に解散命令を下した。この司法判断の背景には、半世紀を超える深刻な被害が存在する。いわゆる「霊感商法」と呼ばれる、弱者の恐怖心や不安につけ込んだ高額献金問題である。法人格を悪用して行われたこれらの活動は、個人の生活を根底から破壊し続けてきた。その被害は累計約204億円に上り、司法が「著しく公共の福祉を害する」と断じるのも当然だと言える。

しかし、ここで注意すべきは、今回の解散命令が宗教そのものへの介入ではなく、法人格という制度の乱用に対する法的措置である点だ。法人とは社会的責任を果たし、公益に資することが期待されて初めて正当化される仕組みである。宗教法人格は、信仰の自由を保護する一方で、その組織活動に社会的な責任を求める制度だ。この制度が逆に悪用され、被害を生み出した以上、法の介入が不可欠であることに疑いの余地はない。

第二節 政治が生んだ被害の構図

この問題が半世紀以上にわたり放置された背景には、政治との密接な関係がある。特に自由民主党と旧統一教会との癒着は公然の秘密であった。安倍晋三元首相が銃撃された事件を契機に、その関係性は白日の下に晒されたが、岸信介元首相と文鮮明教祖の交友関係にさかのぼる歴史的な癒着が、政治を歪ませ、被害を黙認させてきたことは否定できない。

政治が特定宗教団体との関係を断ち切らず、その影響力を温存したことが、結果として多数の被害者を生み出し続けた。だが今回の司法判断後も、自民党はこの問題に対する真摯な総括を回避し続けている。審議会での議論や情報公開が十分になされなければ、他の宗教法人に対する萎縮効果や国家の恣意的な介入を招きかねない。透明性の確保は不可欠だが、政治の側にその意思が感じられないのは重大な問題である。

第三節 司法判断を超えて求められるもの

法人解散命令が下っても、宗教団体としての活動そのものは法的には規制されない。しかし、被害者救済と法人の財産清算は極めて困難な課題となる。オウム真理教事件では、法人の財産が被害者賠償に足りず、破産手続きに移行したが、完全な救済には未だ至っていない。その教訓からも明らかなように、今回も同様の問題が予見される。

日本弁護士連合会が指摘するように、現行の宗教法人法には清算人の調査権限を明確化する規定がなく、資産隠しや帳簿破棄といった妨害行為を防ぐ術が十分ではない。清算人の権限を強化し、元役員らに強制的な協力義務を課すための法整備が急務である。司法判断だけに任せるのではなく、立法府も積極的に関わり、被害者救済の道筋を明確に示す必要がある。

第四節 権力の暴走を防ぐための教訓

旧統一教会問題は、「宗教の自由」と「公共の福祉」が鋭く対立した事例だが、同時に、政治権力が特定の団体と癒着することで引き起こされる社会的害悪の深刻さを示した歴史的な教訓でもある。キリスト教的な視点から見ても、権力と宗教が安易に融合することがいかに危険であるかは、歴史が繰り返し示してきた通りだ。宗教は人間の魂を解放するものでなければならないが、それが権力と結びつき、人間の弱さを搾取する装置となった時、宗教は本来の意味を失い、むしろ人を傷つけるものへと変質する。

使徒書は言う。「キリストは罪を知らない方だったのに、私たちの罪のために罪とされました。それは私たちがキリストにおいて神の義となるためです」(コリント二5・21)。ここには、宗教が真に果たすべき役割とは、人を縛ることではなく、人を罪や弱さから解放することだという明確なメッセージがある。

旧統一教会が行ったことは、その逆をゆくものであった。宗教法人制度を悪用した被害を決して再び許さないためにも、私たちは政治と宗教の関係を厳しく問い続け、透明性の高い社会制度の構築を求めなければならない。社会が忘却することを許さず、歴史に刻まれた過ちから学ぶためにも、この問題への注視を決して怠ってはならないのだ。

 

第三章 同性婚訴訟と「人権後進国」日本の政治の責務

第一節 違憲判断と問われる政治の怠慢

同性婚を認めない日本の民法や戸籍法について、司法は明確な態度を示した。大阪高裁が先日下した判決は、同性婚を認めない現行制度を「違憲」と断じた。これで2019年に全国5カ所で起こされた同性婚訴訟において、五つの高裁が揃って違憲判決を出したことになる。裁判所がここまで明確に同性婚を認めない現行法の差別性を指摘した以上、政府や国会が何の対策も講じないまま現状維持を続けることは、政治の重大な怠慢である。

確かに、同性婚に関して国民の意見が分かれていることは否定できない。だが、民主主義社会において重要なのは、多数派の声に従うことだけではない。むしろ、多数派の理解が追いついていない少数者の基本的人権を守り、その権利を保障するための法整備を速やかに進めることこそが、政治の責務である。司法は、その責務を果たすべき立法府に対し、繰り返し明確なメッセージを送っているのだ。

第二節 憲法が求める「個人の尊厳」と「法の下の平等」

大阪高裁の判決文は、同性カップルが法的保護の下で共同生活を営むことを「人格的生存にとって重要な法的利益」と明記し、それが享受できないことによる不利益は著しいとしている。これは、同性婚を単なる社会的認知の問題としてではなく、人間が自らの尊厳を持って生きるための権利の問題として捉え直した、極めて重要な認識である。

憲法第14条は「法の下の平等」を、第24条は「婚姻における個人の尊厳と両性の本質的平等」を掲げている。この「両性」という文言が同性婚を排除する根拠として用いられることもあるが、これはむしろ憲法制定時の社会認識の限界を示しているにすぎない。現代社会において、憲法が真に保障すべきなのは「個人の尊厳」と「平等の精神」であり、性別や性的指向を問わず全ての個人の人間としての価値を認めることである。この原則を現行法が満たしていない以上、法改正は急務と言える。

第三節 「政治的配慮」の名による人権の軽視

問題は、現政権を担う石破茂首相をはじめとする政治家たちが、この問題を深刻に受け止めようとしない点にある。石破首相は同性婚に関する議論を問われると、「国民や国会の議論、訴訟状況を注視する」といった抽象的かつ消極的な答弁に終始し、自らの立場を明確に示そうとはしない。その背後には、自民党内の保守派や伝統主義者への「政治的配慮」が見え隠れする。

しかし、人権の問題を政治的駆け引きに還元すること自体が間違っている。同性婚は単なる政治問題ではなく、人間の基本的な権利を守るための倫理的な課題である。司法の違憲判決が何度も示されているにもかかわらず、「最高裁の判断が出るまで」という政治の方便は、問題の本質を無視した責任回避にすぎない。むしろ司法がここまで明快に示した以上、法改正のための具体的な準備を早急に進めるのが政治の当然の義務である。

第四節 福音が示す「新しい創造」の倫理

福音書に記される放蕩息子のたとえ(ルカ15・11〜32)は、「受け入れることの意味」を私たちに教える。社会が拒絶し、周縁化した存在に対して扉を閉ざすのではなく、迎え入れ、共に生きる道を示すことで、人間は真に再生し、新たな共同体を築くことができる。同性婚の法制化はまさに、これまで社会から排除されてきた人々を受け入れ、新しい人間関係の創造を促す制度的な試みである。

さらに、使徒書は言う。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリント二5・17)。この新しい創造とは、差別や排除を超えた真の平等と相互承認の社会を目指すことに他ならない。キリスト教的倫理観からしても、同性婚の法制化は「新しい創造」を体現する重要なステップだと言える。

第五節 速やかな法制化を求める政治の勇気

同性婚の法制化を「時期尚早」だとする意見は依然として存在する。しかし、人権保障に「早すぎる」ということはあり得ない。むしろ遅すぎることの罪を、私たちは強く認識しなければならない。既に高裁レベルで積み重なった違憲判断の重みを政府と国会は真剣に受け止め、立法措置のための具体的な議論を開始すべきだ。

国会が主導し、必要な法整備を議員立法という形で進めることも可能である。相続制度や親子関係の規定など、課題があるのは事実だが、それを理由に立法化を先送りすることは許されない。同性婚を認める制度の構築は、多様性を尊重し人間の尊厳を守る社会へ向けた重要な一歩である。政治には今こそ、この新たな社会をつくる勇気が求められているのである。

 

第四章 生活保護の削減――問われる社会の倫理と国家の義務

第一節 国家による貧困の制度化

「生活保護」と聞けば、日本社会にはなおも根強い偏見が存在する。だが、この制度が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法第25条に基づいた権利であることを、多くの人は忘れている。2013年から15年にかけて、国は生活保護の日常生活費にあたる生活扶助の基準額を平均6・5%引き下げた。この措置に対し、各地で提訴が相次ぎ、直近の東京高裁は明確に「違法」との判断を下した。この司法判断は、国の生活保護削減が憲法の要請を無視した国家の横暴であることを明示したのである。

問題は削減自体だけでなく、その根拠となった計算方法にある。国はデジタル家電の大幅値下がりなど、生活必需品とは程遠い物品の価格変動を意図的に取り込み、物価下落率を過大に演出した。その操作に専門家の意見も反映されず、審議会の議論を経ないまま密室で決定された。国の責務である「最低限度の生活保障」は、意図的かつ恣意的な数値操作で骨抜きにされた。これは単なる行政手続きの問題ではなく、社会倫理と国家の道徳的義務を逸脱した行為である。

第二節 貧困を取り巻く社会の無関心と敵意

こうした問題が浮上した背景には、生活保護受給者に対する社会の冷たい視線や偏見がある。SNSなどでは受給者を非難する言説が後を絶たず、行政の窓口でも申請を妨げたり、支給を遅らせる事例が頻発している。しかし、誰もが病気や事故、失業などで生活破綻に陥る可能性があるという現実を、私たちはもっと真剣に受け止める必要がある。

生活保護とは、まさに「命の砦」である。だが、日本のGDPに占める生活保護費の割合(医療費を除く)は、フランスの1・41%、アメリカの0・9%に対し、日本はわずか0・29%にすぎない。これは「生活保護費が財政を圧迫している」という一部政治家やメディアの主張が事実に反することを明白に示している。日本の社会保障費は、むしろ著しく低く抑え込まれているのだ。

第三節 司法の判断と国家の責任

司法が相次いで生活保護削減の違法性を指摘する中、政府はその責任を正面から認めようとはしない。この背景には、生活保護削減を訴えて政権復帰した自民党が抱える政治的動機がある。2012年衆院選で「生活保護給付水準の10%引き下げ」を公約に掲げた自民党の政策が、今回の違法措置の出発点にあることは明らかだ。政権は自らの政策目標の達成を貧困層への攻撃という形で実現しようとし、その結果、多くの貧困家庭がさらなる苦境に追い込まれた。

こうした国家の行為に対し司法が毅然と「違法」を宣言した意義は重大である。これは単なる法的判断を超え、憲法が求める社会的正義と人道主義の観点からも極めて重要な判断だ。国家が生活困窮者を守る義務を放棄すれば、それは民主主義国家の根本原理である「人間の尊厳」を侵害する行為に他ならない。

第四節 旧約の「マナ」の精神と福音の慈悲

旧約日課のヨシュア記はイスラエルの民が約束の地に到達し、「その地の産物を食べた翌日、マナは止んだ」(ヨシュア5・12)と伝える。これは、神が民に対し最低限の生存手段を提供し続け、その必要がなくなったとき初めて供給を止めるという、神の絶えざる保護の姿勢を示している。現代の生活保護制度は、国家が社会の最も弱い立場の人々に対して提供すべき、この「マナ」の現代版であるべきだ。

福音書の日課である放蕩息子のたとえ(ルカ15・11〜32)にも、私たちが社会として持つべき慈悲と赦しの精神がある。このたとえが示すのは、自己責任の論理で排除された人々を温かく迎え入れる共同体の姿だ。生活保護制度はまさに、この慈悲と共感の精神を国家が具体的に制度化したものであるべきである。

第五節 生活保護を守ることは民主主義を守ること

司法の違法判断が重なる中、国家が生活保護制度を回復し、貧困に苦しむ人々の尊厳ある生活を保障することは、もはや政治の責務を超え、倫理的・道徳的義務となっている。社会的弱者を排除し、貧困を個人の責任として切り捨てる社会は、民主主義の本質に反する。国家が最も弱い立場の人々を守る制度を持つことは、民主主義社会の成熟度を測る試金石である。

私たちは、生活保護の削減という国家による人間の尊厳への攻撃を許してはならない。むしろ制度を充実させ、社会の偏見を克服し、貧困に苦しむ人々のために公正な社会を築くことが求められている。人間の尊厳を守るための社会的な連帯を取り戻すことこそ、私たち一人ひとりの倫理的責任なのである。

 

終章 問い続ける社会を築くために

権力の乱用、宗教と政治の癒着、性的少数者への差別、社会的弱者への制度的無関心――。ここまで述べてきた各論が示す問題は、日本社会が抱える深刻な病理をあぶり出している。いずれも、私たちが持つ民主主義の理想と現実との激しい乖離を浮き彫りにするものだ。

旧約の預言者たちは常に社会的不正を告発し、共同体の自己革新を求め続けた。福音書に示されるイエスの姿勢もまた、社会的弱者や周縁に追いやられた人々への共感に満ちたものであった。私たちがこれらの伝統を受け継ぐならば、権力の歪みや社会的不公正を見逃すことは決して許されない。

本日の日課である使徒書が語るように、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5・17)。しかし、新しい社会の創造は受動的に訪れるのではない。不断の問いかけと、社会の病理に対する鋭い批判精神こそが、それを可能にする。私たちは社会が目を背けたくなるような現実にあえて向き合い、苦痛を覚えながらも問い続けることを決してやめてはならない。

それは、キリストが十字架の上で示した真の愛、真の共感を私たちが今ここで具体化するための責任であり、私たちが未来の世代に負っている道徳的義務でもある。問い続ける社会――それこそが教会と私たち一人ひとりの使命であり、真の民主主義を築く礎なのである。

2025年3月27日 ▼ 教会時論 (号外) ①20年連れ添った同性カップルに別れを強いる国──在留資格をめぐる沈黙の暴力 ②憲法が涙を流している──大阪高裁「同性婚は違憲」判決をめぐって】

▼ 教会時論 (号外)2025年3月27日 【第一部:20年連れ添った同性カップルに別れを強いる国──在留資格をめぐる沈黙の暴力】、【第二部:憲法が涙を流している──大阪高裁「同性婚は違憲」判決をめぐって】

【この国の「かたち」を問うために】

わたしたちが暮らすこの国は、法治国家だとされている。しかし、そこで言う「法」とは何なのか。その根底に、人間の尊厳と平等を心から信頼するまなざしがなければ、それは単なる規則の束に過ぎない。形式を守ることが、かえって人間の声や存在を押しつぶす装置になってしまうことがある。そのとき、教会は本当に沈黙していてよいのだろうか。

教会という共同体は、常に時代の裂け目に身を置かねばならない。誰もが目を背けているところにこそ、神のまなざしが注がれている。そう信じてきたのではなかったか。もしそうであるならば、制度の網の目からこぼれ落ちた人びと、法の外側に置かれている声なき者たちの苦しみに、わたしたちが無関心でいることは、神の国の原理そのものを裏切ることになる。

この「教会時論」は、単なる時事解説ではない。信仰とは、時代に対してどう応答するものなのか。その問いに向き合い続ける、わたしたち自身の証言のかたちである。司法がかすかな光を語りはじめた今、わたしたちはどのように応えるべきなのか。家族が引き裂かれる現場に、どんな共同体として立てるのか。それこそが、信仰の中身が問われる瞬間である。

ここに集めたのは、法曹でも政治家でもない、名もなき祈り手たちの声である。しかし、わたしたちは信じている。祈るという行為そのものが、世界のかたちを変えるのだと。

【20年連れ添った同性カップルに別れを強いる国──在留資格をめぐる沈黙の暴力】

〈見えざる暴力としての制度〉
今、この国の片隅で、静かにひとつの悲劇が進行している。東京に暮らす日本人の女性と、タイ出身のパートナー。ふたりは20年という歳月を共に歩んできた。苦楽を分かち合い、支え合いながら、確かに家族として生きてきた。しかし、制度は彼女たちのその歩みを「なかったこと」として扱おうとしている。2026年7月、国家はその片方に「帰国」を命じる。在留資格の更新が認められないからだ。

ただそれだけの判断で、ふたりの生活も、日常も、積み重ねてきた愛も、すべてが崩れ落ちようとしている。病を抱えたパートナーの看護に捧げた日々も、日本で築いてきた25年の人生も、一本の国境線の前では、いとも簡単に切り捨てられてしまう。これは「法的処理」と呼ばれているが、その実態は暴力である。それも、音もなく、感情も持たず、冷たく沈黙した暴力なのだ。

同性婚が法的に認められていれば、こんな別れは起きなかったはずである。だが、現行制度のもとで、彼女たちは家族と認められない。「法の下の平等」は、いまや紙の上でしか響いていない。だからこそ、わたしたちは見なければならない。この国の法が、誰を排除し、誰を守っているのかを。

〈主のまなざしと、われらの視線〉
「わたしが渇いていたときに、飲み物をくれた者は誰か」(マタイによる福音書25章35節)──主イエスのこの問いは、信仰者にとって倫理の出発点である。それは、「制度に従順な者を祝福せよ」という法治の論理ではない。むしろ、取り残され、見捨てられようとしている人びとに目を向けるまなざしである。

もしも、わたしたちの信仰が、制度による冷酷さを「仕方がないもの」として正当化するものになっているとしたら、それは信仰とは呼べない。入管行政という領域は、日本社会における「見えない交差点」だ。そこには、移民政策、同性婚法制、福祉制度、難民認定、そして差別の構造が複雑に絡み合っている。だが、それらをただ個別の問題として処理していては、本質的な歪みを見落としてしまう。

わたしたちに突きつけられている問いは、この国が掲げる「人権尊重」という理念が、いったいどこまで本気で信じられているのか、ということだ。

〈祈りが語る、世界のかたち〉
この国に生きるわたしたちは、いつのまにか「無関心の快楽」に慣れてしまったように思う。「知らなかった」「どうしようもない」「決まりだから」。その言葉の陰で、誰かが声を上げることもできずに、泣いている。

祈りとは、そうした他者の呻き声を、自分のうちに響かせる行為だ。彼女たちのために祈るというのは、ただの「宗教的感情」ではない。それは、いまわたしたちが生きている世界のかたちを、根本から問い直す営みなのだ。

国家の制度が引き裂こうとしているのは、ふたりの愛だけではない。共同体そのもの、人間としての尊厳そのものをも断とうとしている。わたしたちは目をそらしてはならない。彼女たちの隣に立ち、こう語らねばならない。「あなたがたは、たしかに家族であり、この国のわたしたちの仲間である」と。

【憲法が涙を流している──大阪高裁「同性婚は違憲」判決をめぐって】

〈法の奥底で、声が響いている〉
その日、大阪高等裁判所の法廷に響いた言葉は、乾いていながらも、深く胸を打つものだった。「これは憲法違反である」──その一文は、単なる法的な判断にとどまらず、この社会が抱えてきた痛みと向き合う、司法の叫びのようにも聞こえた。

長い沈黙の果てに、扉がようやくきしみながら開こうとしている。判決はこう述べた。同性婚を認めない現行制度は、性的指向に基づく「不合理な差別」にあたり、日本国憲法第14条と24条に反している。これは、わたしたちの社会が掲げる法的倫理そのものが、今まさに問われているということに他ならない。

ここに至るまで、どれほど多くの人びとが、自らの尊厳を押し殺しながら生きてきたことか。その重さを、司法が初めて真正面から受け止めたのだ。「婚姻は、人生における幸福追求のための重要な選択肢である」──そう判決文に刻まれた一文は、ただの理念ではない。これまで「同性である」という理由だけで、愛も生活も否定されてきた現実の、非人道性にようやく光が当たった瞬間だった。

〈「別制度」では済まされない理由〉
裁判長は、判決の中で明確に述べた。「同性カップルについてのみ婚姻とは異なる制度を設けることは、新たな差別を生み出す」。代替制度という名の妥協案は、決して中立でも優しさでもない。それは歴史的に何度も、排除と隔離の道具として使われてきた。

思い起こされるのは、かつて「隔離」と「保護」の名のもとに、ハンセン病患者たちが施設に閉じ込められた時代。あるいは、部落出身者に対して「配慮」という名で別の教育制度が与えられたこと。そのどれもが、結局は差別を覆い隠す装置に過ぎなかった。

もしも国家が再び「特別な制度」を用意してお茶を濁そうとするなら、それは司法の正当な訴えへの明白な裏切りである。真の平等は、例外の用意ではなく、同一の制度への平等なアクセスにこそ宿る。婚姻は「異性愛者のための制度」ではない。人が他者と共に生きようと願う、そのもっとも基本的で普遍的な営みなのだ。

〈信仰共同体としての責任〉
教会は長らく、「伝統」という名のもとに同性婚を否定してきた。しかし、福音とは単に伝統を再生産するものではない。イエスが示したのは、既成の枠を破り、新たな視座と共に「共に食べる」という関係を開いた食卓だった。

もしも教会が、その食卓からある人々を締め出すのであれば、もはやそれは「神の国のしるし」としての資格を失っている。わたしたちは、自らの中にある偏見と向き合わなければならない。「同性愛者は祝福されうるか?」という問いは、突き詰めれば「人は神に祝福されうるか?」という問いと同じである。この問いに「否」と答える限り、教会は神のまなざしから逸れている。

〈法と福音が重なる場所〉
大阪高裁の判決は、法律の言葉で語られた。だが、その奥底には福音のこだまが響いていた。「違憲」という一語が告げるのは、ただの技術的誤りではない。そこには、人間の尊厳が踏みにじられてきた歴史があり、沈黙を強いられ続けてきた無数の叫びがある。わたしたちはようやく、その声に耳を傾けるところに立っている。

「すべての人を、自分自身のように愛しなさい」(マルコによる福音書12章31節)──その戒めは、法学の論理を超え、この社会の制度、政治、教育の根幹にまで届くべきものだ。いま、教会は聖書を開き、憲法の隣にそれを置いて読む時を迎えている。そしてそこに、真の正義の光がすでに差しているのではないだろうか。

【声なき者たちの国から】

この国は、いったい何を「守る」ために沈黙しているのだろうか。法の無力を覆い隠すように、制度は平然と人間を否定する。そして教会は、まるでそれを包み込むかのように祈りの言葉を差し出す。けれど、祈りとは本来、誰にも届かぬ呻きを天の玉座に届ける行為だったのではないか。

同性パートナーを国家の命によって引き離すという現実。愛する人の退去を目前にして、なすすべもなく立ち尽くす者の震える声。その声が、ようやく高等裁判所の判決として「違憲」のひとことに結晶した。これは小さな勝利ではない。長きにわたり見過ごされてきた人間の苦しみと尊厳が、ついに法の舞台において語られた、歴史的な瞬間なのだ。

それでも、制度はなお動かない。立法府は耳をふさぎ、行政は「注視している」と繰り返すだけ。その沈黙のあいだにも、誰かが傷つき、家族が引き裂かれていく。そのただ中に、わたしたちは教会を立たせる。説教の高みにではなく、痛みの只中に立つ共同体として。福音を語る主体ではなく、福音にさらされる存在として。

この国の法が、ほんとうにすべての人の生を正当に評価する日が来るまで。教会が、自らの内にひそむ差別の構造と向き合い、それを解体することができるまで。わたしたちは歩みを止めない。祈り、語り、抗い続ける。その一歩一歩が、やがて新しい社会の骨格となることを、わたしたちは信じている。

いま、わたしたちは祈る。「あなたの御国が来ますように」と──
それは、この不正義の只中にあっても、ナザレの人のまなざしがふたたびこの地を照らすようにと願う、わたしたちの切なる叫びである。

▼ 教会時論 (号外) 2025年3月15日 【障害年金不支給の急増の不安】

〈はじめに〉

今日は、特に深刻な問題をお伝えしたい。本日だけで、数人の方から障害年金の支給についての切実なメールをいただいた。報道によれば、障害年金の不支給件数が急増しており、特に精神・発達障害を理由とするケースでは、前年の2倍に達しているという。単なる統計の変動ではなく、これは生活の基盤を直撃する重大な問題だ。
障害年金は、働くことが難しい人にとって命綱のようなものだ。しかし今、「障害が軽い」という理由で支給が打ち切られるケースが増えているという。なぜ、こんなことが起こっているのか? 私たちは、この問題を単なる社会制度の話ではなく、信仰の視点から深く見つめる必要がある。

〈神の契約——弱き者と共にある神〉

旧約聖書の創世記15章には、神がアブラハムと契約を結ばれる場面が描かれている。「恐れるな、アブラムよ。 わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1)。これは、神が人を孤立させず、守り導いてくださるという確かな約束だ。
だが、現代社会はどうだろう。障害を抱える人たちが、支援を受けられずに社会から見放されるような状況が生まれつつある。国は「適正な判定をしている」と言うが、実際には多くの人が経済的に追い詰められ、生活に困窮している。まるで、神の契約がなかったかのように、彼らの存在が軽視されているのではないか。
信仰を持つ私たちは、この社会のあり方を神の目で見つめ直し、「弱き者と共にある神」の御心を思い起こすべきではないか。

〈共同体の責任——フィリピ書に学ぶ〉

使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう記している。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)。これは、ただ天国を待ち望むという話ではなく、地上においても天の国の価値観を生きるようにという呼びかけだ。
天の国では、すべての人が平等に愛され、支え合う共同体が築かれる。しかし、障害年金の不支給が増えている現状を見ると、私たちの社会はその共同体としての責任を果たしているだろうか。むしろ、障害者に自己責任を押し付け、困窮に追いやる仕組みになってしまってはいないか。
もしも、信仰を持つ私たちが「天の国」の価値をこの世に映し出す使命を担っているのだとしたら、今こそ、その使命を果たす時ではないだろうか。共に歩み、共に生きる。それが、教会が果たすべき役割ではないか。

〈イエスのまなざし——排除ではなく包摂を〉

ルカによる福音書13章には、イエスが「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(ルカ13:30)と語る場面がある。これは、社会的に後回しにされている人々こそ、神の国において優先されることを示している。
だが、現実を見るとどうだろう。障害年金制度の下では、「軽い障害」と判定されることで支援を打ち切られ、生活すらままならなくなる人が増えている。これは、イエスの語った福音とは真逆の現実ではないか。
イエスは、弱い立場の人々を排除するのではなく、共に生きる道を示された。今、私たちはどう応答すべきか? 教会は、障害を持つ人々の声を聞き、共に歩むことを証ししなければならない。

〈おわりに〉

神はアブラハムに「恐れるな」と語り、パウロは「天の国の共同体」を示し、イエスは「後にいる者が先になる」と宣言された。このメッセージは、障害年金の不支給が増えている現代においても、私たちに大きな示唆を与えている。
キリスト者は、この社会の中で「盾」となり、弱い立場にある人々と共に歩む使命を負っている。制度の不備や不公正に対して声を上げ、祈り、行動すること!それが、福音の示す希望の光を、この世界の隅々にまで届ける道ではないだろうか。

▼ 教会時論 (号外) 2025年3月14日  【贖罪なき司法―狭山事件が示す日本社会の不正義】

〈司法の正義が揺らぐとき〉

司法が正義を守れなくなったとき、国家はその正統性を失う。狭山事件の石川一雄氏は、冤罪を訴え続けながらも、再審が開かれることなく86年の生涯を閉じた。これは単なる個人の悲劇ではない。無実の者が半世紀以上も自由を奪われ続け、最後まで救済されなかったことこそ、日本の司法の構造的な罪を示している。

司法が一度下した判決の誤りを認めないことは、事実上の終身刑と同じだ。これを単なる「制度の問題」と片付けることはできない。私たちがこの問題を直視しなければならないのは、それが司法だけの罪ではなく、沈黙してきた社会全体の罪でもあるからだ。

〈冤罪を生む構造〉

狭山事件は、権力が虚構を作り上げ、それに社会が無自覚に加担することで生まれた悲劇だった。取調官の圧力、自白の強要、そして差別による決めつけ——これらは冤罪の典型的な構造だ。部落差別が石川氏を「犯人」に仕立て上げ、それを司法が正当化し、社会が「司法の判断は正しい」として目を背けた。

この構造は今も変わっていない。一度「犯人」とされた者は、どれほど新しい証拠が出ても、その烙印を覆すことは極めて難しい。再審は「例外」とされ、司法は自らの過ちを認めることを極端に恐れる。その結果、冤罪が明らかになっても、正義が回復されることなく「時の流れ」に埋もれてしまう。これは贖罪を拒む姿勢そのものだ。

〈贖罪なき司法〉

キリスト教は贖罪の思想を根本に持つ。人は罪を赦され、傷ついた者は癒されるべき存在だ。しかし、日本の司法はそれとは真逆の論理で動いている。誤りを認めることは「制度の崩壊」につながると考え、個人の犠牲を「社会の安定」として正当化する。この姿勢は「正義」ではない。「支配」の論理に過ぎない。

石川氏は死の直前まで、司法が自身の無実を認めることを願い続けた。しかし、その願いは叶えられなかった。これは単なる一個人の不幸ではない。国家権力が正義を歪め、それが制度として固定化されていることの証明だ。この状況は、聖書の言葉「わたしの民は知識がないので滅ぼされる」(ホセア4:6)そのものではないか。

〈教会の責務〉

教会は単なる宗教施設ではない。社会の倫理を照らす光でなければならない。人間の尊厳を踏みにじる制度に対して、沈黙することは許されない。もし司法が贖罪を拒むならば、教会がその役割を担わねばならない。

私たちは司法改革を求めるとともに、冤罪に苦しむ人々の声を社会に響かせなければならない。キリストは不正義に沈黙しなかった。私たちもまた、同じ道を歩むべきではないか。

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