聖木曜日 二〇二五年四月十七日 ❖ 説教——愛と奉仕の聖餐、謙遜なる洗足の神秘

【教会暦】
聖木曜日 二〇二五年四月十七日

【聖書箇所】
旧約日課:出エジプト記 第十二章一~十四節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 第十一章二三~三二節
福音書:ヨハネによる福音書 第十三章一~十五節

【要旨】
聖木曜日――それは、キリストの愛と謙遜が、この上ないかたちであらわされた特別な夜である。主イエスは、最後の晩餐において聖餐を制定され、弟子たちの足を一人ひとり洗いながら、奉仕と自己献身こそが、教会という共同体を支えるただひとつの力であることを示された。

この夜に刻まれた主の模範は、遠い昔の出来事としてではなく、今を生きる私たちの日常に具体的に生きられるべきものとして、教会に委ねられている。聖餐の恵みを受け、洗足の精神に生きるとは、すなわち愛と奉仕をもって、社会のただ中へと出ていくことに他ならない。

赦しと癒しを受けた者は、もはや自分のことだけにとらわれてはならない。傷つく人、声をあげられない人、取り残された人々の痛みに寄り添い、平和と正義の実現のために労することこそが、主の弟子とされた者に求められている使命である。

この夜、主は私たちを再び招かれる。新しい命へと、新しい使命へと――主の愛と奉仕の道を、現代という荒野において歩み出すために。

序章 この夜に刻まれるもの――愛と謙遜のはじまりに

聖木曜日とは、いったい何の夜だろうか

それは単なる復活祭を迎える前夜というだけの夜ではない。むしろこの夜こそ、キリストの福音が、その最も純粋なかたちで私たちに迫ってくる時である。愛と謙遜――それは、言葉で語られるだけの理念ではなく、この夜、主イエスの手と行動によって極限にまで具体化された現実である。

最後の晩餐の席において、イエスは聖餐を制定し、弟子たちの足を洗われた。その行為は、奉仕と自己献身こそが共同体の命を支える力であることを、ただ教えるのではなく、ご自身のからだをもって証しされた出来事であった。

この聖木曜日の典礼が私たちに突きつけるのは、単なる儀礼の再現ではない。むしろこの夜に示された愛と奉仕、謙遜と自己省察の精神は、いまを生きる私たち一人ひとりへの切実な問いかけである。

社会は混迷を深め、人々は孤立と不安の中でさまよう。格差と分断、排除と差別――こうした現実が私たちの日常を覆っている。しかし、まさにこの現実のただ中においてこそ、主イエスが弟子たちの足を洗った行為が、何よりも新しく、そして革命的な意味を持つ。

主は力によって支配せず、地位によって人を従わせることもなかった。むしろ最も低い者となり、他者に仕える姿をもって共同体を結び直そうとされた。その愛と謙遜の在り方は、時代を超えて私たちに問いかけ続けている。

今夜、私たちは再び聖餐の食卓に招かれる。そこには過去の物語として消費されるべき出来事ではなく、いまここで生きる者として、実践を求められる霊的現実がある。洗足と聖餐――それは、赦しと回復を受けた者が、他者の痛みに寄り添い、平和と正義のために働く使命へと招かれる道しるべなのである。

この夜、私たちは改めて問われている。

愛とは何か。謙遜とは何か。奉仕とは何か。
そして、私たちはこの夜に刻まれたキリストの姿に、どのように応えて生きるのか――。

これから始まる説教において、この夜の深い霊的な核心が、私たち一人ひとりの心に刻まれ、新たな命と使命への招きとなることを、心から願いつつ、この序章を閉じたい。

第一章 過越の夜――記憶から始まる解放の物語

忘れえぬ夜、心に灯る自由の記憶

「あなたたちにとって、この日は記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたり永遠の掟として祝わねばならない。」(出エジプト記12:14)

人は、記憶によって生きる存在なのだと思う。
どこから来て、誰であり、どこへ向かうのか――。その問いに答えるものは、記憶しかない。だが、それは単に昔の出来事を保存するための箱ではない。むしろ、何度でも新しく、私たちの現在を照らしなおす光である。

聖木曜日は、その光の中でもとりわけ深く、重い。古びない記憶。むしろ語り継ぐほどに鮮やかになる夜。信仰とは、記憶を生き直す営みであることを、あらためて思わされる。

過越の夜――ペサハ。それは、イスラエルの民にとって、ただの歴史の断片ではない。奴隷の民が、神の手によって解き放たれた、その原点である。

モーセの声に従い、彼らは子羊を屠り、その血で家の入口に印をつけた。死をもたらす天使が、そのしるしを見て通り過ぎた夜。恐れと希望とが、きっと胸を引き裂いた夜。そうして、彼らはエジプトを後にする。鎖を断ち切って。

この夜が語るものは、出来事の記録ではない。
それは、今も変わらぬ真理である。
苦しむ者の声を神は聞き、その痛みを我が痛みとし、必ずや解き放つ。――その神の姿が、この夜に刻まれている。

記憶は過去のものではない

この物語の核心は、「記憶」の現在性にある。思い出すとは、昔話に浸ることではない。むしろ今を、ここに生きる私たちを、問い直すための出来事だ。

現代に生きる私たちは、かつてないほど物質的に満たされているようでいて、実はかつてないほど、目に見えない鎖に縛られている。孤独。競争。差別。疎外。名もなき痛み。

エジプトの鎖は鉄でできていた。
現代の鎖は、言葉にしにくい重さで、私たちの心と生活に絡みつく。

だが、過越の神は、今も生きている。
かつて奴隷を解放したその御手は、今も隠れた痛みを見逃さない。
抑圧のただ中で呻く声を聞き、沈黙しない神が、そこにおられる。

記憶が呼びかけるもの

だからこそ、今夜、私たちは問われている。
この夜の記憶を、自分のものとして刻み直すようにと。

「この日は記念すべき日となる」――それは過去を懐かしむための言葉ではない。今も続く神の働きに、あなたはどう応えるのか、という問いである。

抑圧や不正義に沈黙しないこと。
人を傷つける側に自らが立っていないか、自分を問い続けること。

それが、過越の夜に与えられた使命であり、今も私たちに課せられている宿題なのだ。

神の解放の業は、終わった出来事ではない。
むしろ、今この時、私たちを通して、続いていく物語である。

この夜に記憶される解放の光は、時を越えて燃え続ける。私たちがその灯を守り、受け継ぐ限り。

――次章では、この夜の精神がいかにしてイエス・キリストの晩餐制定へと受け継がれたのか。その深い意味を探りたい。

第二章 主イエスの晩餐――その革新性と愛の約束

第一節 新たな契約としての晩餐の夜

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい。」
(コリントの信徒への手紙一 11:24-25)

食卓を囲むこと――それは人間にとって、最も古く、根源的な営みの一つである。人は共に食することで、単なる空腹を満たす以上のものを分かち合ってきた。そこには親密さがあり、信頼があり、目には見えない絆が確かめられていく。しかし、主イエスが最後の晩餐で弟子たちと囲んだ食卓には、それらをはるかに超える、決定的な意味が込められていた。

パンと杯――それはかつてイスラエルの民が守り続けてきた過越の食卓のしるしであった。けれどもこの夜、イエスはそのしるしに新しい意味を吹き込む。パンは主ご自身の体となり、杯はその血となった。それは単なる記念の儀式ではない。神が新たに結ぶ契約――命そのものを代価とする、愛の契約の始まりであった。弟子たちはこの夜、歴史の大きな転換点に立ち会っていたのである。

第二節 愛による共同体――旧い契約から新しい契約へ

旧約聖書に語られる契約は、多くの場合、律法の遵守を条件として結ばれてきた。しかし、主イエスが示した新しい契約は、根本的に異なる。それは、律法を越えてあふれ出す神の愛によって成り立つもの――誰もが条件なしに受け入れられ、赦され、生かされる契約である。

この契約の核心は、宗教的・社会的な境界を打ち壊す愛にある。身分も国籍も、宗教的純粋性も問われない。ただ神の無条件の愛によって、あらゆる人が一つの共同体として結ばれる。その挑戦的なビジョンこそが、この晩餐のもっとも革新的な意味であった。

第三節 記念するという行為――いま、ここに主が生きる

「わたしの記念としてこのように行いなさい。」この主イエスの言葉には、過去を追想する以上の意味がある。記念とは、過ぎ去った出来事を今ここに呼び起こし、その出来事の力と恵みに今もなお生きることにほかならない。

聖餐式は、歴史的な出来事を単なる知識として記憶する儀式ではない。それは、主の死と復活の神秘を、共同体が繰り返し体験し、今ここに生き直す行為なのである。過去と現在が交わり、現在が永遠に開かれていく。その神秘に私たちは招かれている。

第四節 愛による共同体の刷新――聖餐が私たちに問いかけるもの

だからこそ、私たちがこの聖餐を祝うとき、それは単なる宗教的慣習では終わらない。そこに集う者は、キリストが掲げた愛の契約に生きる者として、自らを問い直し、新たにされていく。それは、社会的な境界を超え、あらゆる人が尊重され、愛される共同体を目指す歩みである。

この愛の契約こそが、私たちの信仰生活の核であり、世界に対する証しそのものである。聖餐にあずかる者は、ただパンと杯を受ける者ではない。そこから立ち上がり、愛と奉仕の生き方をこの世界で実践する者である。

――この新しい契約に生きる者として、私たちはどのように歩んでいくべきか。次章では、主イエスがその愛の契約を具体的に示したもう一つの象徴的な行為――弟子たちの足を洗う出来事を通して、革命的な謙遜の精神について考えていきたい。

第三章 弟子の足を洗う主――謙遜が切り拓く世界

第一節 最も低きところに降りた主イエス――愛がもたらす衝撃

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネによる福音書13章1節)

この夜、イエスが弟子たちの足を洗った出来事は、単なる感動的な美談として読むべきものではない。そこには、私たちが生きるこの世界の「常識」を根底から覆す激しい問いかけと挑戦が秘められている。

当時のユダヤ社会において、足を洗う仕事は、奴隷や使用人の務めとされていた。埃まみれの道を歩き、汚れた足を洗ってもらうことは客人へのもてなしの一つであったが、それを担うのは、最も身分の低い者に限られていた。ところが、この夜、主イエスはあえてその最も低い場に自らを置かれた。弟子たちの足元にひざまずき、一人ひとりの汚れを洗い流していったのである。

この行動は弟子たちにとって衝撃であった。ペトロは、その驚きと戸惑いを率直に表した。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」(ヨハネ13:6)――ペトロの拒絶は、彼が抱いていた「上下関係」という常識の崩壊に対する無意識の抵抗でもあった。主はその彼に、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)と語りかけ、愛と謙遜がもたらす新しい世界の入り口へと彼を導いた。

第二節 謙遜という革命――支配と序列への逆説的な挑戦

イエスの洗足は、単なる個人徳目としての謙遜ではない。それは当時の社会秩序――支配と服従、上下関係という枠組みに対する、明確で鮮烈な批判の行為であった。地位や権威によって成り立つ世界の構造そのものを覆し、まったく異なる価値観を示す行動だったのである。

支配する者がへりくだること。権力を持つ者が奉仕すること。イエスのこの逆説的な行為は、今もなお世界に問い続けている。わたしたちは、この洗足の出来事を、単なる過去の美談としてではなく、現代を生きる自らへの鋭い問いかけとして受けとめなければならない。教会が聖木曜日に洗足式を行うとき、それは「形だけの儀式」にとどまってはならない。むしろ、教会が権威や序列に固執する誘惑を拒み、もっとも小さく弱い者たちの側に立つ共同体であり続けるための決意表明にほかならない。

第三節 愛の極みとしての謙遜――共同体を造りかえる力

「この上なく愛し抜かれた」主の行動の核心にあるもの――それは、実践的で、具体的な愛である。自らを低くし、他者のために身を低くして仕える。その姿にこそ、福音が語る愛の真実がある。

愛は言葉ではなく行動において試される。奉仕するとは、自らの快適さや特権を脇に置き、相手のために何ができるかを問い続けることである。イエスが示したこの愛は、共同体を再構築する力を持つ。権力による支配ではなく、愛による奉仕によってのみ、人間関係は癒され、社会の分断や差別は克服されていくのである。

この夜、主が私たちに問いかけていることは明らかである――「あなたがたも行って同じようにしなさい。」(ヨハネ13:15)

私たちはこの愛と謙遜の力を、自らの生き方の中にどのように受肉させていけるのか。その問いを胸に、次章では、洗足の愛がいかに具体的な奉仕として実を結んでいくのかを探りたい。

第四章 愛が奉仕を生み、奉仕が愛を育む

第一節 行動する愛、その真実の力

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13章14節)

この主イエスの言葉は、あまりに率直で、しかも挑戦的である。弟子たちの足を洗われたその行為は、単なる模範や象徴にとどまらない。ここには、愛とは何か、奉仕とはいかなるものかという福音の核心が、驚くほど具体的に示されている。

愛は行動へと向かう。愛が真実であればあるほど、それは目に見えるかたちとなって現れる。心のうちに秘められた感情だけでは不十分である。イエスは弟子たちの足を洗うことによって、ご自身の時間と労力を差し出し、弟子たちの必要に応じた行動を選び取った。愛とは、相手のために自らを開き、その痛みや必要に寄り添い、具体的な行動によってその人を支える意志と実践とが結晶したものである。

第二節 社会を変革する奉仕の力

イエスのこの行為は、当時の社会の価値観を根底から覆すものだった。身分や権力によって人の価値が決まる世界の中で、主が自ら弟子たちの足元に跪いた。これこそが、奉仕の愛がもたらす社会的転倒の力である。主の行動は、今を生きる私たちにも、格差や差別、不平等が深く根を張る現代社会にあって、何をなすべきかを鮮やかに指し示している。

奉仕の精神は、富める者が貧しき者を一方的に助けるという発想ではない。それは、分断された社会をつなぎ直し、共同体を再構築するための根源的な力である。奉仕は弱者の救済であると同時に、奉仕する側自身の変革でもある。そこでは傲慢や自己中心性が砕かれ、人間の内にある閉ざされた心が開かれていく。そして互いが真実に出会い、共に生きる道が拓かれていく。

教会が奉仕の精神をその中心に据えるとき、それは単なる善行の積み重ねでは終わらない。それは、社会全体のあり方を刷新し、正義と平和とが具体的に実現していく歩みとなる。奉仕する教会は、神の愛と恵みのしるしとして、この世界に立つのである。

第三節 奉仕によって生まれる愛の共同体

奉仕とは、ただ与えることでも、一方的に尽くすことでもない。むしろ、奉仕には互いに与え、受けるという動的な交わりが生まれる。そこには新しい愛のかたちが育まれていく。奉仕は、する者とされる者の区別を超え、互いが互いに必要を認め合い、謙虚に支え合う関係を創り出す営みである。

イエスが弟子たちに命じた「互いに足を洗い合いなさい」という言葉は、その相互性を何よりも大切にしている。施しと受け取りの関係を超えて、私たちは誰もが他者の助けを必要とし、また誰かに仕える存在でもある。この真実に生きるとき、奉仕を通して共同体は生き生きとした愛に満たされ、その存在そのものが福音の証しとなる。

第四節 今、私たちへの問いとして

この聖木曜日に与えられた奉仕の精神は、単なる聖書の物語として聴き流されるべきものではない。それは、今ここを生きる私たちへの鋭い問いかけである。主は問われる。「あなたがたは、互いに足を洗い合っているか」と。

愛するとは、容易いことではない。奉仕するとは、なおさらである。そこには不便や困難が伴い、自己犠牲の覚悟が求められることもある。しかし、その歩みの先に、私たちは知っている。神の国がある。真に人間らしい社会がある。愛と平和に結ばれた共同体がある。だからこそ、私たちは主に倣って歩み出すのだ。

次章では、この奉仕の精神を私たちがどのように内面的に深めていくか、すなわち「自己省察」と霊的な成熟について、さらに考えていきたい。

第五章 神の愛に触れるために──自己省察という道

第一節 軽んじてはならない聖餐への備え

「だから、ふさわしくないままでパンを食べたり主の杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになる。だれでも、自分自身をよく吟味してからパンを食べ、杯を飲むべきである。」(コリントの信徒への手紙一 11:27-28)

このパウロの厳しい勧めは、私たちが聖餐にあずかるとき、いかに深い心の備えが求められているかを教えている。パンと杯に与るという行為は、単なる儀式や習慣ではない。むしろそれは、神との契約を新たにし、キリストの愛の共同体に生きる者として歩む決意を、私たち自身のうちに確認する神聖な行為である。

ここでパウロが警告する「ふさわしくないまま」とは、表面的な準備不足のことではない。もっと深く、私たちの心のありよう──罪への鈍感さや偽善、他者への無関心や愛の欠如──そうした状態のままで聖餐に臨むことの危うさを指している。自己を省みることを怠るならば、その無頓着さは、やがて私たち自身を神の命の流れから遠ざけるだけでなく、共同体の健やかさにも影を落とすことになる。

第二節 自己省察とは、神の前に心を開くこと

「自分自身をよく吟味する」とは、一時的な反省や自己批判にとどまるものではない。それはむしろ、神の前に静まり、自らの心の内側にある動機や欲望、行動や態度を正直に見つめ、根本から問い直していく霊的な営みである。

聖餐の食卓は、キリストの死と復活という救いの神秘のただ中に私たちを招く。その神秘にあずかるとき、私たちはあらためて問われる──わたしはどれほど神の愛に支えられ、また、その愛に応えて生きているかと。自己省察とは、その問いの前にとどまり続けることであり、日々の生活の中で知らず知らずのうちに染みついた利己心や無関心、不正への鈍さを、神の光にさらしていく営みなのだ。

第三節 自己省察は、愛と連帯への扉

そして大切なのは、自己省察が決して自己閉鎖や孤立の道ではないということである。むしろそれは、私たちを神の愛のうちに解き放ち、他者への深い連帯へと導く道なのである。自らの罪深さや限界を認める者こそ、他者の弱さや欠けにも寄り添い、寛容と謙虚さをもって接することができる。

真実な自己省察は、自己中心からの解放であり、愛と赦しの共同体へと歩み出すための力となる。神の前に心を開き、自らの影を認めるとき、そのすべてを包み込む神の恵みの深さを、私たちは初めて知ることができるからだ。

第四節 自己省察から築かれる教会の姿

聖餐にあずかることは、個人の霊的健康にとどまらず、共同体全体の健やかさと深く結びついている。私たち一人ひとりが真摯に自己を省み、神と人との関係を正しく整えていくとき、その歩みこそが、教会を愛と平和に満ちた共同体として育てていく土台となる。

もし私たちが、この大切な営みを軽んじるならば、聖餐は共同体を結び合わせるどころか、その内側から崩してしまう危険を孕んでいる。だからこそ、今夜、私たちが聖木曜日を迎えるこの時、あらためて心を整えたい。神の前に静まり、自らの心を深く省みながら、愛に生きる者として新たに歩み出す決意を、いまここに刻みたい。

終章 謙遜と奉仕――日々の歩みに宿る聖木曜日の光

第一節 この夜が、私たちの生き方に問いを投げかける

聖木曜日の晩、私たちの心に深く刻まれるのは、キリストの愛のかたち、静かに足もとにひざまずいたあの謙遜、そして自己を省みるという霊的な営みである。だがそれは、年に一度の儀式の中だけに留めておくものでは決してない。むしろこの夜に示された出来事は、私たちの日々の在り方を、根っこから問い直すためにある。

主イエスが弟子たちの足を洗い、「互いに足を洗い合いなさい」と言われたあの呼びかけ――それは、教会が共同体として何を目指すべきか、何を忘れてはならないのかを明確に指し示している。謙遜に、仕える者として生きること。そこに、キリストが残された模範がある。

第二節 表面ではなく、奥行きあるつながりへ

現代の私たちは、しばしば忙しさの中に埋もれ、人との関係も浅く、形ばかりのやりとりに終始してしまう。だが、イエスの謙遜とは、そんな表層をなぞるだけの善意や儀礼とは根本から異なる。主の足を洗う姿に示されたのは、自分の地位や正しさを手放してでも、他者のために低くなろうとする心である。

その精神をこの夜に受け取った私たちは、家庭でも、職場でも、地域社会でも、そして教会でも――日々のあらゆる場面で、具体的なかたちの奉仕を生きてゆかねばならない。それは、ただ何かをして「与える」のではない。誠実な関係性を、時間をかけて築き上げるという、静かで力強い歩みそのものだ。

第三節 教会が担うべき「謙遜の革命」

主の謙遜に倣うとは、ただ慎ましくあることではない。それは、愛を根本に据えた「革命」でもある。教会共同体がこのキリストの道を真に生き始めるとき、それは社会の優先順位を覆し、人と人との関係のありようを揺さぶる力を持ちうる。

私たちは今、それぞれの日常にあって、見返りを求めず、声なき者の声となり、弱い立場の人に寄り添うことを選び取っていくよう招かれている。その選択の積み重ねこそが、共同体の標となり、やがて私たち自身が「仕える者としてのキリスト」を映し出す存在となるのである。そうして教会は、沈黙を破る光となり、真の福音を生きる証人となってゆく。

第四節 受難から復活へ――旅の出発点に立つ

聖木曜日は、受難週という深い旅路の入口にあたる。このあと私たちは、主の十字架の苦しみ、死、そして復活という、神秘の中心へと分け入ってゆくことになる。だがその旅路の意味を深く知るためには、まずこの夜に示された「奉仕」と「謙遜」の精神を、私たちの心にしっかりと根づかせねばならない。

今夜、私たちはその精神を新たに胸に刻んだ。その灯火を手に携え、復活という栄光の頂を目指す旅を、共に歩んでいこうではないか。この夜が、ただの通過点で終わらぬように――私たちの心と行いが、ここから真に変えられてゆくことを、主ご自身が導いてくださるよう祈り願う。

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